漆・爪廓
滝沢のアパートに行くと、ちょうど滝沢が家から出てきたところであった。
松葉杖を左手に持ちながら、階段をゆっくりと降りている。
「すみません」
階段を降りきった滝沢に、阿弥陀は声をかけた。
「えっと、急いでいるんですが」
「おや? 今日は休みじゃないですか?」
「土曜出勤ですよ」
そう言うや、滝沢は大宮と阿弥陀の横を素通りしていく。
「へぇ、それじゃぁ……。どうして左手に松葉杖を持ってるんですかね? たしかあなた、右足が骨折していたはずですよね?」
そう言うや、阿弥陀は滝沢の右足に自分の足を引っ掛けた。
ちいさくくぐもった声とともに、人が倒れる音が周りに響く。
「あ、阿弥陀警部」
大宮も滝沢が降りてくる時に違和感を感じてはいたが、なにもここまでしなくてもとも思っていた。
「い、いったい何を」
滝沢はゆっくりと、右足を軸にして立ち上がった。
「お、可笑しいぞ? 我々が調べた時は右足を骨折していたはずだ」
「まぁ、骨折していたというわけではないんですよ。なにせ骨折していたわけではないんですからね」
言うや、阿弥陀は転がっている松葉杖を、滝沢の右足に目掛けて刺した。
「――っ?」
大宮と海阿は唖然とする。
「い、いったいあなた達は何者なんだ? おい刑事さん、これは暴力事件じゃないのか?」
滝沢は、まだ自分の置かれている状況が理解できていなかった。
「おや、どういうわけですかね? わたしはてっきり右足を刺激したら悲鳴をあげると思ったんですけど」
もう一度、阿弥陀は松葉杖で滝沢の右足を叩く。
「や、やめろ」
悲鳴に近い声を出すが、「可笑しいですね。まるで痛みなんて感じていないような演技じゃないですか?」
阿弥陀の言葉に、大宮と海阿は
「少し、失礼します」
と言い、滝沢のズボンの右足を捲り上げた。
「えっ?」
そこにあったのは、足の形をした鉄の棒だった。
「やっぱりそういうことですか。そりゃ、そうですよね? 神経もなにも通っていない義足を刺激したところで、痛みなんて感じるわけないですから」
「で、ですが、なぜ彼は嘘を?」
「いや、嘘はついていないと思いますよ。骨折も云ってしまえば足が損傷したわけですから、なにかしらの理由で義足が壊れたことを、骨折と言ってしまえばいいわけですから」
「でも、ならなぜ病院のカルテには義足ではなく、右足の骨折になっていたんで?」
「おそらくDVをはっきりさせるためのでっち上げ」
滝沢はゆっくりと立ち上がる。
「おいどういうことだ? おれは助かったんじゃないのか? あいつから、あいつから」
譫言のように滝沢は誰ふり構わずたずねる。
「あいつとは……、青松晶子のことですか?」
「そうだ。あいつは死んだんだろ? あいつは殺されたんだろ?」
「それに関して、あなたにふたつほど訊きたいんですよ。ひとつは青松晶子に会っていたか。もうひとつはあなたの結婚式の後、栗山はどこに行ったのか」
「オレはココに来てから一度も東京に戻っていない。それだけは信じてくれ」
必死の表情で滝沢は訴える。
「オレは自分の仕事が気になって仕方ないんだ。どこか失敗したのか、欠陥はないか。こうやっている間にも社員がちゃんと働いているかどうか」
「あなたが本当のことを云ってくれればいいんですよ。栗山が殺された一週間前後と青松晶子が殺された日。あなたはどこにいたのか」
「ずっと北海道にいたよ。本当だ。なんだったらタイムカードを見せたっていい」
「阿弥陀警部、彼が犯人ではないのでは?」
「ですが、彼じゃなかったらいったい誰が? まったく関係のない第三者が犯人? そんなわけないでしょ?」
阿弥陀も違和感を覚え始めていた。
「わかりました。あなたの会社に行って、タイムカードを見てみましょう。それでアリバイがあればいいでしょう」
阿弥陀は視線を海阿に向ける。車を出して欲しいという合図だった。
車を三〇分ほど走らせると、木造建築の家が見えてきた。
家の周りは、建築中の騒音を減らすための防音壁が建てられている。
「あそこが今仕事しているところです」
車はその家の近くに停め、四人は家の隅に立てられたプレハブへと向かった。
滝沢はプレハブのドアノブに手をかける。
「タイムカードは証拠になるんでしょうか?」
「他にも使用している人がいますしね。そうそう時間を変更できるわけでもない。そんな七面倒なことはしないと思いますよ」
阿弥陀たちはゆっくりとプレハブの中に入っていく。
中は質素なもので、会議用の机がふたつ並べられ、その上にタイムレコーダーとパソコンが置かれているだけであった。
「これがオレのカードです」
「拝見します」
阿弥陀は滝沢からカードを受け取り、事件が起きた一週間前と三日前を見比べた。そのどちらも平日である。
「出勤が朝の八時から退勤は夜の六時。従業員の方も同じくらいですか?」
「ええ。そうです」
滝沢が答えている中、大宮はプレハブの窓から、建築中の家を眺めていた。
「どうかしたんで?」
「滝沢さん、今日の出勤はあなただけなんですか?」
「ええ。オレだけですが」
「先程、気になるところがあるとおっしゃってましたが、もうほとんど骨組みはできてるじゃないですか? そんなに神経質にならなくても」
「いえいえ、念には念を。石橋を叩いて渡らな、生きていけんのですよ」
大宮はそうですかと空返事をする。
「大宮くん、どうかしたんですか?」
「妙ですよね。今……彼は松葉杖持ってませんよ」
大宮がそう刺激するや、滝沢はその場に倒れる。
「だ、大丈夫ですか?」
大宮が滝沢に近づき、彼の身体に触れた時だった。
ヌルッという、気持ちの悪い感触が、大宮の身体を蝕む。
「こ、これは……血っ?」
「大宮くん、彼から離れてください」
大宮は滝沢から離れる。
「じ、自殺した?」
「そんな馬鹿な? いったいどうやって」
阿弥陀は部屋の中に違和感を持つ。
「気をつけてください。私たち以外にも誰かいるみたいですよ」
そう言うや、大宮と海阿は警戒した表情で、周りを見渡した。
「あいつがいけないんだ。あいつがいけないんだ」
譫言が聞こえ、大宮は滝沢を見やった。
「あいつがオレをバカにしやがる。あれはオレの責任じゃない。あの欠陥はオレがしたことじゃない」
滝沢は近くにいた大宮に襲いかかる。
「うわぁあああっ!」
大宮は力に押し負かされ、机の上に倒される。
「それをあいつは匿名で訴えやがって、あいつはなにもできない。人に暴力をふるだけの女だった」
滝沢は大宮の首に手をかけた。
「は、はなせぇ」
大宮は滝沢の手を必死に剥がしていく。
しかし、まるでなにかに取り憑かれたかのように、滝沢の力は人のものではなかった。
「あんたたち、オレが二人を殺したと思ったんだろう? でもなオレは誰も殺していない」
話をしている滝沢の口の中を、大宮は見た。
そこには二股に裂けた舌が、滝沢の口から出ていたのである。
「もしかして、彼は蛇帯に取り憑かれている?」
大宮はハッとする。
蛇帯は女の嫉妬心が帯に取り憑いたものであるが、そうではない。
邪心が取り憑けば、それすべて蛇帯なのだ。
「大宮くん!」
阿弥陀が叫ぶ。
「うぐぅっ!」
大宮はくぐもった悲鳴をあげる。滝沢の手がより一層力が込められていく。
「殺されたくないだろ? だったら――あの剣はどこにある?」
――剣? いったい、なんのことだ……。
「知らないわけないだろ? お前はずっと付けているはずだ。それを知るやつを」
大宮はその時、頭のなかである少女を思い出していた。
――彼女がそれを知っている?
「さぁ、早くしないと――」
滝沢が大宮を殺しにかかった時だった。
プレハブの中が、まるで極寒の世界へと変わっていく。
「寒いっ! 寒いっ!」
滝沢は手を緩め、大宮から離れていく。
「うげぇ、げぇほっ!」
首を開放された大宮は、その場に倒れこむ。
大宮と滝沢の間に、まるで雪のような白髪の女性が割って入る。
「あ、あなたは?」
大宮は女性の服装に覚えがあった。
女性の着ている服の袖には、アットゥシが施されており、以前目の前で見た少女と同じ柄ものであった。
「――ウパスキキリ」
女性の声が聞こえた瞬間、滝沢の周りにちいさな虫が現れる。
「な、なんだコレは」
滝沢はそれを払い落としていく。
「――ウパスアミヒ」
女性が言葉を発すると同時に、滝沢の身体はまるで電気メスで切られたような損傷を負っていくが、傷跡は瞬時に凍っていった。
「あがぁああああっ!」
滝沢はその場に跪く。
「阿弥陀如来。はやく彼に閻獄を」
そう声をかけられ、阿弥陀はどよめく。
「ど、どうして私の名を?」
「いいから早くっ!」
女性に怒鳴られ、阿弥陀は慌てて、「で、でも彼には人を殺したという」
「彼が蛇帯になったのは、元妻である青松晶子が栗山と不倫をしていたことにある。そして彼は二人を殺す計画を企てた」
「で、でもそれじゃぁ、二人が殺された時期が」
「――死人に口なし。いくら彼女の力が死者の声を聞くことだとしても、死者がそれを聞いていなければ意味が無い」
「ど、どうして葉月ちゃんの能力を?」
大宮は目をパチクリさせる。
「ええいっ! 滝沢一成を地獄に送ります。彼の罪状はその後でもいいでしょう」
阿弥陀がそう言うや、何処からともなく御札が現れ、彼の額に自ら付着した。
「ぎゃぁああああああああっ!」
滝沢は断末魔をあげながら、青白い光となって、その場から消えていった。
「ちょっと待ってください」
阿弥陀は女性に声をかけた。
「どうして私のことを知ってるんで?」
女性は阿弥陀の言葉に耳を貸さず、大宮へと近づいた。
そして、ゆっくりと唇を彼の耳へと運んでいく。
「えっ? ちょ、ちょっと……」
大宮はドギマギしながら、女性を見やった。
「希望は、あなたの恋人に殺されかけたと勘違いをしている」
――えっ?
大宮がどういうことなのかと尋ねようとしたが、すでに女性の姿はそこにはなかった。




