SIDE アンジェリカ
「……ああ、嫌だわ」
長い廊下を歩きながら、アンジェリカは扇の裏で、そっと唇を歪める。
先ほどまで浮かべていた、奥ゆかしく憐れみを誘う微笑みは、もうそこにはない。
あの令嬢が向けてきた視線――こちらを射抜くような、剣呑な目つき。
それは、嫌になるほどよく似ていた。
リリアーヌ・ホワイトの目に。
いつだって穏やかな笑みを湛えていた彼女。美しい銀髪に、不思議な光を宿したアメジストの瞳。折れてしまいそうなほど華奢な身体。
立ち居振る舞いは非の打ちどころがなく、隙という隙が存在しなかった。
――その隙のなさこそが、かえってアレクシス殿下の心を遠ざける原因になっていたというのだが。媚びることも、甘えることも彼女は知らなかったから。
(あの女がいる限り、自分は決して頂点に立てない。殿下の隣に立つのは、私。いえ……未来の王妃となるのも、相応しいのは私のはずよ。)
だからこそ、蹴落とした。
まずはアレクシス殿下に近づき、自身の豊満な肢体と、男心をくすぐる仕草で、その心を奪った。
あらゆる手を使い、婚約者の座を奪ってやった。まさか死ぬとは思わなかったが。
けれど、死んでもなお。リリアーヌは、アンジェリカを苦しめ続けている。
アレクシス殿下の新たな婚約者として選ばれたアンジェリカには、即座に本格的な王妃教育が課せられた。開始の時期としては、決して早いとは言えない。それでも彼女は、自信があった。
学園では常に上位。成績は1位か2位を行き来し、5位前後に甘んじていたリリアーヌよりも、数字の上では上回っていた。
アンジェリカは自分が優秀だと言う自覚があった。
(アレクシス殿下も「あのリリアーヌより優秀なのだから、大丈夫だ。心配は要らない」だと言ってくださったわ。多少厳しくとも、私になら王妃教育をこなせるはずよ。)
だが、現実はそう甘くなかった。求められるのは帝国語だけではない。隣国、同盟国、複数の言語を同時に習得しなければならなかった。
歴史もまた、自国史に留まらず、各国の成り立ち、王家の血脈、過去の戦争と条約にまで及ぶ。
さらに、各国要人の顔と名は勿論、その性格や利害関係まで。
王妃として必要とされる教養は、学園での勉強よりもはるかに過酷なものだった。
「リリアーヌ様は、仕事もこなされていましたよ」
「貴女は、まだ及びませんね」
そう平然と言ってくる教師たち。
(嘘でしょう……)
こんな地獄のような日々を送りながら、あの女はなお学園で優秀な成績を取り続けていたというのか。
それも、涼しい顔で。
(はあ、死んでも苦しめてくるだなんて、なんて忌々しい女なの。リリアーヌ。……それに、あの娘)
先程から、脳裏から離れない。廊下で、自分を責め立ててきた少女の顔が。
怒りに震えながら、それでも必死に言葉を絞り出すような眼差し。潤んだ瞳の奥にあったのは、憎しみだけではなかった。焦りと、恐怖と、どうしようもない切実さ。
――ロザリー・ホワイト。
リリアーヌの妹。
もうこの世にはいない女の残された影。
リリアーヌと違い、出来はそれほどでもなさそうだ――それが、最初に抱いた率直な印象だった。
姉は完璧で、貴族令嬢として感情を表に出すこともなく、付け入る隙など微塵もなかった。
それに比べて、妹はあまりに分かりやすい。怒りも悲しみも、そのまま表に出している。押し殺す術を知らぬまま、感情は声を震わせ、頬を染めた。
姉と同じ、淡い銀色の髪に紫の瞳。血の繋がりを疑いようのない色彩。けれど背丈は低く、面差しもまだ幼い。大きな瞳は今にも涙が零れ落ちそうなほど潤みやすく、可憐であるがゆえに、どこか危うさを孕んでいた。
リリアーヌと比べれば、やはりどこか子供じみた印象は拭えない。学園でも、その愛くるしい容姿から一目は置かれていたが、目立たない存在だった。
あの妹に、今さら何かができるとも思えなかった。
――ただ。
どうしても、彼女の隣に立つルーカスの姿だけが、胸の奥に小さな棘のように引っかかった。
「大丈夫よ、証拠も、証人も……完璧だもの」
あの日、リリアーヌが用意したのはひとりではない。
複数の証言。偶然を装った状況証拠。
誰かが裏切ったところで、全体が崩れることはない筈だ。
「……はず、よね?」
けれどーー去り際、ほんの刹那だけ覗かせたルーカスの冷えた瞳。いつも穏やかな微笑を絶やさぬ彼には、あまりにも不釣り合いな温度だった。
微笑の仮面がわずかにずれ、その奥に潜んでいた本性が覗いたーーそんな錯覚を覚えた。思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。ぞくり、と粟立つ感覚がうなじから脊髄を伝い、内側を這い上がってくる。
まるで、見えない刃が、皮膚の裏を静かに滑っていくかのように。
(……優しそうな方だと思っていたけど。そうではないみたいね。……でも)
ルーカスの存在は、気に留める必要はない。
たとえ隣国が大国であろうと、所詮はよそ者だ。この国の内情に、深く踏み込むことなどできるはずがない。
アンジェリカは、そう自身に言い聞かせる。崩れかけた呼吸を整え、歩き出す。長い廊下に、彼女の靴音だけが、規則正しく響いた。
次に誰かとすれ違ったときには、もういつもの可憐な令嬢の顔に戻っている。
(大丈夫)
私は、被害者。
悪役令嬢に苛められた、可哀そうな令嬢。
誰が、その妹の言葉など信じるものですか。





