第3話 過酷な現実
子供たちの寝息が静まり返る中、徹は石壁に背を預け、闇に耳を澄ませていた。
ナターリヤは祭壇の灯を整えながら、ふと口を開く。声は強くあろうとしたが、震えを隠しきれない。
「……本当は、私、一人で逃げるつもりだったんです」
徹は視線を動かさない。ただ耳を傾ける。
ナターリヤは子供たちに毛布を掛け直しながら、続けた。
「でも、この子たちが後ろで泣いていて……置いていけなかった。
どうしてなのか、自分でもわからないんです。助けられる力なんてないのに」
その言葉は告白というより、後悔の漏れ出しだった。
徹は短く息を吐く。
「見捨てなかった。それだけで充分だ」
「違うんです」
ナターリヤの声が急に強くなる。
「ただ……逃げ切る勇気がなかっただけ。弱いんです、私は」
彼女はそう言いながら、サビーネの小さな手を握った。
その仕草は守る者というより、自分が縋りついているように見えた。
徹はしばし沈黙した後、低く応じる。
「弱さで縛られても、ここに残った。それなら俺が合理で補う」
その言葉にナターリヤの肩がかすかに震えた。
安堵か恐怖かは定かでない。だが、彼女の瞳に一瞬、涙が宿り、すぐに消えた。
わずかな仮眠の後、徹は夜明けの薄明かりに瞼を開いた。
石床の冷たさが背を刺し、肩に残る緊張がまだ解けていない。
扉の外は静まり返っていたが、それが安寧を保証するものではない。
「……おはようございます」
振り返ると、ナターリヤが小さな包みを抱えて立っていた。
目の下には濃い影、声には疲労が滲んでいる。
彼女は遠慮がちに、しかし儀式のように言葉を添えて差し出した。
「朝食です……」
徹が受け取った皿の上には、萎びたじゃがいもが一つ。
ただ茹でただけの塊。皮は皺だらけで、ところどころ黒ずんでいる。
それを見た瞬間、徹の喉から言葉が出なかった。
「……これが、朝食か」
「はい……もう、この二日は、子供たちにもロクに……」
ナターリヤは言葉を継げず、ただ視線を落とした。
彼女の手からこぼれる哀しみを、徹は受け止めざるを得なかった。
足元に置かれたズダ袋が開かれる。
中に転がるのは同じような小ぶりのじゃがいも。
数えても十に届かない。これが全てだ。
(……限界だ)
徹は胸中で呟いた。
昨夜、非常用としてナターリヤに渡した携行食糧がまだある。
だが、それとて自分一人が一週間行動するための最低限。
四人の子供とナターリヤ、そして自分を含めて五人。
分ければ三日と保たない。
石の壁に染み付いた湿気よりも、現実の方が冷たい。
徹は深く息を吐き、次の行動を思案し始めた。
「ナターリヤ……ここに来るまでに、山があったな。あそこで食べられるものは――」
言葉にした途端、徹は愚問であることに気づいた。
か弱い娘が、さらに幼い子供たちを連れて山に入る?
それは狩りどころか、獣の餌になるだけだ。
その現実を理解するより早く、徹はナターリヤが答えを口にする前に手で制した。
「いや、いい。お前の仕事じゃない」
彼は背後に置いた装備に視線を向けた。
軍靴の底に残る泥、乾ききらないナイフの刃。
幸い、自分の身は災害派遣の任務の途中で転移してきた。
つまり、フル装備の状態でこの異世界に放り込まれたのだ。
防弾ベストのポケットには浄水タブレット。
バッグには折り畳み式の罠具、釣り糸、火打石、そしてサバイバルナイフ。
「陣地に戻れない場合」を想定して常に携行していた最低限の装備。
今ここで、まさにそれが命綱となる。
徹の視線は石の隙間から朝の光ににじむ森を捕らえていた。
湿気を帯びた緑の匂い。葉裏に潜む虫のざわめき。
そこには獲物がいる。木の実がある。水脈もあるはずだ。
「……山に入る。狩猟と採取で調達する」
独り言のような呟き。
だがナターリヤの顔に走った影は深かった。
彼女は口を開きかけ、しかし言葉を飲み込む。
徹はその表情を正面から受け止めず、合理の中に自らを押し込んだ。
――守るには、まず食わせねばならない。
彼の軍歴が告げる冷徹な結論は、迷いなくそこへ行き着いた。
(その前にやらねばならぬことがあったな)
深夜の訪問者、その目的を聞くべく、徹は放り込んでいた小部屋の扉を開く。
扉の影が切り取った暗闇に、三人の男がうずくまっている。縛られた腕の震えが、男たちの強がりを嘲るように見えた。泥と酒の匂い、唇の周りの乾いた血糊。笑い声は既に遠く、夜の帳だけが残る。
徹はゆっくりと近づいた。闇の中で彼の輪郭だけが確かな足音を立てずに迫り、男の一人が顔を上げた瞬間、そこにあるのはただの獣の目だった。獣は本能で怯え、次の瞬間には言葉を求めるように、低く鼻を鳴らす。
「お前ら、仕事の人間だな。誰の使いだ」
問いは短い。男は一瞬だけ組織票を探すように目を泳がせたが、口を開くのは遅かった。徹は肩越しに廃教会の外の道筋を示すように指を差す。泥の匂いが混じる空気の向こうに、静かな商店街の残骸と、夜に蠢く影の帯が重なる。
最初の男は舌を湿らせ、声を絞り出すように言った。
「ボスの…護送屋の連中だ。再開発屋の下請け──壊して追い出して、土地を空けろっていう仕事だ。教会は……その一角だ。再開発の計画図に入ってるらしいぜ」
その言葉が祭壇の冷気を震わせる。徹の目は一瞬、教会の剥がれたフレスコを追った。再開発——土地価値を見越して人を追い出す、力づくの刷新。それは単なる無目的の暴力ではない。計画がある。計画がある以上、資金も裏もついている。
「どの組織だ。名前をはっきり言え」
男の顔は青ざめる。嘘を塗り固める気力はとっくに欠けている。二人目が震える声で続ける。
「商工連合っていう名前で通ってる。表向きは復興と雇用だってさ。でも実際は地主連中と結託して、スラムを潰して開発する。ボスは“カネを回す”連中だ。俺らはただの口車だよ。詳しいことは……知らねえ」
徹は男の首筋を軽く掴み、視線を低く落とす。掴む力に殺意はない。だが圧はある。男は息を詰め、顔を歪める。恐怖は真実を滑り出させる。
「…ボスは商工連合、通りの裏手に事務所がある。昼は古い倉庫、夜は歓楽街のクラブで会合。派手なもんじゃねえ。地元の有力者とつながってるって話だ」
情報は薄いが確度は高い。金とコネがあるという事実は、再開発という名目での追い出し工作が“組織的”であることを裏付ける。単なるチンピラの暴走ではない。徹の胸の中で戦術的な地図が即座に描かれる。
ナターリヤは祭壇の片隅から顔を出し、震える声で訊ねた。
「そこまで……計画的にやっているのですか?」
「金と人があるところには、計画がある。計画があるところには、裏がある」徹は答えた。言葉は冷たく、だが無情ではない。彼の頭の中では、次の一手がすでに分解されていた。
徹は男たちをより確実に無力化するために、冷淡な処置を指示した。縛り方を補強し、口を塞ぎ、路地の死角に立てかけるように配置する。人を完全に殺すのは目的ではない。だが、彼らを放置すれば、再び戻ってくる。情報と時間を引き出すだけ引き出したら、動けぬようにしておくのが最も合理的だ。
尋問は短かった。徹の問いと、彼らの怯えが重なって、幾つかの固まりが拾えた。商工連合。裏の倉庫。歓楽街のクラブ。地元の有力者の名だけは曖昧に口を濁すが、組織は確かに存在する。重要なのは――この教会そのものが、再開発の対象地だという点だ。
その事実が、ナターリヤの顔を変えた。最初に浮かんだのは驚きではなく、深い疲労の中に垂れこめた哀しみだった。子供たちを守るための僅かな拠り所が、外部の計算づくの手で奪われようとしている。彼女の手が小刻みに震え、サビーネの頭を撫でるその指先に力が入らない。
「……ここも、奪われるの……?」
声は祈りでも怒りでもなく、ただ底の抜けた悲嘆だった。
その呟きに応えるように、タチアナが寝返りを打ち、うわ言のように泣き声を漏らした。
徹は静かに男を見下ろし、ほとんど囁くように言った。
「ここは安全じゃない。俺が山で食料を取ってくる間、隠れ場所を移さないと駄目だ。お前らの連中が計画を進めるなら、夜間の襲撃は増える。子供たちをここに置いておくのは危険だ」
彼の声に震えはない。合理が感情を押し切る。その一言で、教会の空気が変わる。ナターリヤは震える唇で問い返す。
「どこへ……?」
徹は外を見やった。朝の光が商店街の瓦礫を薄く洗い、遠方で誰かが声を上げる。選択肢が幾つか脳裏を走るが、時間は限られている。彼は短く、決断を告げた。
「まずは地下の倉庫――教会の下に古い貯蔵室があるはずだ。そこに日用品と一時的な寝床を作る。人目につかない屋根裏か、裏手の排水溝の奥も使える。移動は昼間に分割して行う。俺が山へ行く前に、最低限の隠れ場を二つ確保する」
ナターリヤはその言葉を反芻し、震える手で頷いた。恐怖と安堵が同居する表情。守ることの重みが、二人の間にさらに深く沈み込む。
徹は最後に縛られた男たちに向き直り、冷ややかに言い渡す。
「お前らの仕事の証拠を探す。商工連合の動きがわかれば、誰が裏にいるかも分かる。情報は金だ。だが今は、まずここを安全にする。動くのはそれからだ」
男は声を出せない。が、その目は怯えに満ち、何かを呑み込んだ。徹は彼らの口を軽く塞ぎ、最後に匂いが残るような短い警告を心に刻んだ。外では、街の一部が再び目覚め始めている。駆ける時間は限られている。
彼はナターリヤに近づき、そっと囁いた。
「準備をしろ。昼間に移動するための荷物をまとめろ。隠れ場所は二か所、分散させる。俺が戻るまで子供たちは動かさない方がいいが、最悪の時にすぐ走らせられる準備だけはしておけ」
彼女はただ頷いた。目に浮かぶ光はもう期待だけではない。計画の現実が、彼女の表情を引き締める。
徹は一度だけ子供たちの寝顔を見やり、手の中のナイフの冷たさを確かめる。全ては速度と正確さだ。山へ向かう前に、安全な穴を二つ掘る。そこに彼は彼女たちを押し込み、そして食い物を持って戻るつもりだった。
外に出る前、彼は最後の手順を決めた。教会の外壁に小さな印をつける――乾いた泥に残る指の跡。それは仲間にだけ分かる印だ。次に来る夜が来ても、ここに確実な避難経路があると分かるように。
足音は低く、朝は冷たい。徹は装備を点検し、バッグの中に残る非常食の位置を再確認する。今日動けば、今日の危険は今日のうちに払わねばならない。山から戻るまでは、どんなことが起ころうとも、ここに戻る――それだけは、声にしなくとも誓われていた。




