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この美しいものを守りたいだけ  作者: 氷室玲司


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第2話 深夜の襲撃

扉の向こうから落ちる笑いが、薄い板を震わせる。笑いは空気に油を差すように滑り、夜の湿り気を粘らせた。徹はその音を、子供の寝息に対して汚染の前触れと直感した。笑いの種は刃のように単純で、目的は明白だ。強欲な獣の群れが、餌を嗅ぎつけて集まる。


彼は音を数えた。発声の間隔、足を引きずる音の有無、言葉の輪郭──闇の中で判断すべき材料は全て聴覚だ。息を吐くリズムを自分の胸に合わせ、身体から余計な振動を消す。筋肉を弛緩させつつ、瞬時に爆発できるコアを作る。訓練とは、この“弛緩と爆発の間合い”を身体に刻むことだ。


ナイフの柄に触れる。冷たさが指先に伝わり、そこから思考が整理された。致命を与えるための刃ではない。拘束と停止のための先端だ。必要なら関節を折る。だが目的は生かすこと、守ること。殺意と保全を同時に持つことが彼の合理主義だ。無駄な殺生は余計な責務を生むだけだ。



灯を覆う。手の平で火を暗くする瞬間、世界の輪郭が細くなり、闇が濃度を増す。闇は味方だ。目に見えぬものを覆い、音だけで相手を測る。息一つで崩れる布切れのような優位を、徹は冷静に保持する扉の隙間が小さく震え、最初の影が覗き込む。肩の角度、手の位置、視線の向き。すべてが入力され、瞬時に行動計画が組まれる。彼の身体は反応で満ち、判断の余地はない。接触は短く、確実でなければならない。


最初の手は首筋に伸びた。指が詰めるべき圧点を知っている。相手の体重を自分の中心に引き込み、刃ではなく“掌と骨”で制する。喉を押さえつける角度と圧力を調整して、声が出る前に意識を曇らせる。叫び声は闇に消え、反応は筋肉の痙攣で終わる。力は最小限、効果は最大限だ。


二人目は尻もちをつかせ、頭部に短いが鋭い衝撃を入れて意識のラインを断つ。ここでの一撃は殺意ではなく“行動の封鎖”。骨を折らずに動きを奪う技術——徹はそのために自衛隊格闘術と柔道の体重配分を使う。体格差は脚の角度と重心変更で相殺する。


三人目が扉を押し始めた瞬間、徹は距離を詰め、肩からの投げで相手を枠に叩きつける。音が出る。だが叫びはない。床に倒れる者たちの呼吸音だけが、暗闇に溶けてゆく。彼の動きは無駄がない。装備の金具が擦れるか、泥が床に触れるか、全てが彼の計測と許容の範囲内だ。


三人は動かなくなった。徹は懐に忍ばせた粗いロープを取り出し、縛る手つきは効率的で躊躇がない。呼吸を確かめ、手足の角度を揃える。彼は殺意でなく、次に来る可能性を消すために彼らを“無害化”する。背後の路地に押しやり、足元に湿った布切れを噛ませる。外に放置すれば、彼らはただの酔いどれではなく帰巣本能を持って戻る。対処は周到でなければならない。


ナターリヤは震えた手で薄い毛布を直し、子供たちの呼吸を一つずつ確かめる。彼女の目に浮かぶのは感謝か、それとも驚愕か。いや、それだけではない。深く澱んだ疲労と、長年抱え続けた恐れが顔の端に刻まれている。徹の存在は、彼女にとって突如現れた“貸しの栓”のようなものだ——今は安心を代行してくれるが、いつか返済を求められる。それは彼女の腹の底で、微かな不安として疼く。


彼女は幼い日々に思いを馳せる。逃げ延び、拾われ、祈りで糊代を貼った生活。教会の瓦礫に居を構えたのは、自らが選んだゆりかごではなく、残された選択肢の最小公倍数だった。ナターリヤは世俗に嫌われること、蔑まれることを数えながら、子供たちに夜ごと自分の存在理由を語り聞かせた。あの笑い声が示すのは、彼女の世界がいつも脅かされるという現実だ。守る者が自分だけでは限界があること──その真実が、今晩また彼女の胸に刺さる。


徹は静かに立ち、祭壇の影に身体を寄せる。彼の瞳は子供たちの小さな胸の動きに留まり、やがてナターリヤの顔へと移る。目と目が合ったとき、言葉は小さいが確かな貸しの交換のように交わされた。彼は守る。ナターリヤは、今はただそれを受け取るのみだ。


しかし、その交換は無条件ではない。彼女の心底には、助けを借りた代償として、自分と子供たちの“管理”を奪われる恐れがある。徹の存在は保護であると同時に、新たな縛りを呼ぶ。ナターリヤはそれを直視しながらも、眠る者たちに触れてしまう。サビーネの小さな手をぎゅっと握りしめ、涙を飲み込む。守られる安堵と、委ねる不安が同居する。


徹は窓枠の隙間から夜を再度測り、静かに呟いた。


「ここは今夜、俺が守る」


言葉は短い。だが彼の背には、一度拾ったものを離さない硬さが宿る。夜の闇は戻ったが、この教会の中に新しい秩序が生まれた。守る者と守られる者、それぞれの負い目と期待が複雑に絡み合う。その糸がほどけるか、結ばれるかはまだ不明だ。だが一つだけ確かなのは、今夜の侵入がただの事件で終わらなかったことだ。小さな種は土に落ち、根を伸ばし始めている。


祭壇の影が長く伸び、夜の湿り気が石床に沁み込む。徹は怠惰な灯火の残り火を手で覆いながら、ナターリヤの顔をじっと見た。彼女の頬には土と涙の混じった痕が乾き、瞳は眠りを強く拒んだまま静かに震えている。言葉は簡潔で済むはずだが、ここで交わされる言葉は一度放たれれば互いの芯を穿つ。だからこそ、徹は慎重に、しかし躊躇なく口を開いた。


「子供たちのことを聞かせてくれ。どこから来た。ここに来てどれくらいだ」


ナターリヤは薄く肩をすくめる。息遣いの震えが、長年抑え続けた何かを示していた。彼女の声は砂地を引くようにざらつき、祈りの言葉よりも生活の匂いが混じっている。


「街の外れの収容所が焼けて……逃げるとき、本当は私だけで逃げるつもりだったんです。でも、この子たちが泣いていて……置いていけなかった。どうしてなのか、自分でもわからない。助ける力なんてなかったのに」


ナターリヤはそう言って、サビーネの小さな手を握りしめた。その仕草は守る者というより、自分が縋っているようにも見える。


言葉の端々に、彼女が背負った日数が積もる。徹はその積み場を目でなぞる。彼女の説明は単純だが、その単純さの裏に無数の欠落がある。名前に、年齢に、出自に。欠けたものが多ければ多いほど、彼女の声は強くなる。守る理由は、説明を要しないほど深かった。


「あなたはどうして、ここに来た。どこから来た?」


徹はしばらく返答を留めた。軍人はしばしば自分の過去を武器にも盾にもする。だが今、ここで過去を語ることは、自分の目的を明かすことに等しい。彼は息を吐き、声を低くした。


「元の世界では、災害派遣で子供を助けていた。……だが、その最中に、雷と崩落で——ここに来た。理由は説明できん。ただ、今はここにいる」


ナターリヤはその言葉を繰り返すように呟き、目を伏せた。彼女は祈りの言葉を知らぬ風でも、行動の確かさを見抜く目を持っていた。徹の返答は説明としては薄い。だが、彼の存在の仕草、武具の手入れの仕方、動きの一貫性が、言葉の裏にある現実を語った。


「あなたは戦う者ね。だが戦士は、ここでは危険でもある。守りを持つがゆえに、目立ち、——狙われる」


言葉は指先の温度のように冷たい。ナターリヤは徹を見つめ、その視線に感情が混じる。恐れ、期待、そして計算。彼女は自分の手で語るしかなかった。守るために人を頼ること、それは彼女の誇りを蝕む賭けでもある。


「狙われるなら狙われるだけだ。だが、ここを空けるわけにはいかない」


徹の声は鉄と土が混じったような硬さを帯びる。守るべき者がいるという事実が、彼の行動の重心を定める。ナターリヤはその言い方に僅かな安堵を透かすが、すぐに眉を寄せる。


「あなたがここにいることで、私たちが変わる。食糧が減れば——あなたの食事まで奪われるかもしれない。あなたが戦えば、再び報復が来る。子供たちが巻き込まれる可能性はある。覚悟はあるの?」


問いは鋭い。守ることは賭けであり、賭けの範囲は小さくない。徹はナターリヤの目を見据え、言葉を慎重に選ぶ。


「覚悟はある。だが、覚悟だけで何かを救えるわけではない。まずは状況を整理する。外に見張りを置き、物資の確保ルートを確認する。できる範囲だけだ。だが、死ぬほど守る。——そう宣言する」


宣言は短かった。だが言葉が放たれた瞬間、ナターリヤの表情に小さな変化が走る。まるで壁に穿たれたひびが、光を通したような、儚くも確かな亀裂だ。彼女は小さく息を吐き、唇の端で笑みを結ぶ。


「……その言葉、しばらくぶりに聞いた。ありがとう、かもしれない」


言葉の裏には、長年自分が誰にも貰えなかった“約束”が含まれている。ナターリヤは自分の胸の内を探り、答えを探すように続けた。


「あなたは、ここに残るつもりか。それとも、すぐ去るか」


徹は一瞬だけ考えた。夜の外にいる影たちの笑い声は消えたが、彼らが戻る可能性は高い。残ることは責務を増やす。去ることは安寧を保つ術を放棄することだ。


「残る。少なくとも、当面はここにいる。日が入れば外を回る。情報と物資を集める」


答えは潔く、迷いはない。ナターリヤはその答えを受け止めると、祭壇の縁に両手をつき、背中を伸ばした。疲労の影がささくれだっているが、その先に小さな決意が宿る。


「では、名前を正式に教えて。私たちからも礼を。子供たちに、あなたの名前を覚えさせたい」


その申し出は、純粋な人間の儀式だ。名を与え合うことは互いの存在を認め合うことに等しい。徹は微かに口角を上げ、短く名を告げた。


「片桐徹。だが、ここではトールと呼ばれても構わん」


彼は自らに異世界での名を予め受け入れるような口振りで付け加えた。ナターリヤはその名を小さな音で繰り返し、三人の子供の寝顔に視線を落とした。ギルの眉の皺、タチアナの震え、サビーネの丸い頬。名は、それらの顔と結ばれる。


静寂が再び訪れる。だがその静寂は以前と違っていた。外の世界はすぐには変わらないだろう。しかし、この小さな石の空洞の内部には、新しい秩序の種が置かれた。守る者の誓い、守られる者の受容。どちらもまだ未熟だが、夜の湿り気とともに少しずつ根を伸ばし始める。


ナターリヤは徹の差し出した毛布を受け取り、子供たちの方へ戻る。彼女の肩が少しだけ軽く見える。徹は再び窓の隙間を覗き込み、外の闇を測った。言葉にしない約束が、二人の間に静かに結ばれていく。


石壁の外で、ふいに靴音が走った。先ほど縛り上げた三人ではない、別の誰かだ。徹が視線を鋭く向けると、扉の隙間から覗いたのは小柄な少年の顔だった。


 「……あんた、誰だ」


 声はかすれ、目だけが異様に光っている。十歳にも満たぬその少年は、徹が縛った男たちの仲間ではなく、むしろ彼らに追われていた匂いがした。


 ナターリヤが小さく息を呑む。「ルカ……」


 子供の名を呼ぶと、少年は怯えを隠すように顎を上げた。徹の視線は少年の足元に落ちる。泥だらけの布靴、裂けた踝、乾ききらない血。生存の証明が全身に刻まれていた。


 ギルが寝返りを打ち、目を覚ました。半ば夢の中で徹の影を見上げ、弱々しい声を漏らす。


 「……お父さん?」


 一瞬、徹の胸に古傷のような痛みが走った。手のひらに残る温もり、過去に握った自分の小さな手。否定すべき言葉を飲み込んで、彼はただ子供を見下ろした。


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