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この美しいものを守りたいだけ  作者: 氷室玲司


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第10話 賭け試合

 薄暗い地下室に、焚き火の赤い残り火が揺れていた。


 トールは目を開け、天井の煤けた木材を見つめる。

 胸に柔らかな重みがあることに気づき、ゆっくりと視線を下げた。


 サビーネが小さな体を丸め、彼の軍服にしがみついて眠っていた。

 幼い指が布を離さず、顔は胸に埋められたまま。


 昨夜も「トールと寝る」と言って聞かず、結局こうして添い寝することになった。

 何度か寝返りを打とうとしても、小さな腕が必死にしがみつき、離れようとしなかったのだ。


 規則正しい寝息が胸に伝わる。

 その重みは鎧でも銃でもない。だが、戦場で背負ったどんな荷物よりも確かな責任だった。


(……この小さな手を、離させるわけにはいかん)


 トールはそっと目を閉じ、ほんの一瞬だけ深く息を吐いた。

 今日、待つのは血と賭けの場。

 だが、この寝息の温もりがある限り、迷う理由はなかった。


 目を覚ましてしばらくすると、外から水の音と子供の声が聞こえてきた。


 サビーネとギルが小さな桶を抱えて、近くの井戸で身体を拭っている。

 冷たい水に悲鳴を上げつつも、互いに笑い合いながら袖を絞る姿は、戦場の兵士が交代で身を清める光景を思い出させた。


 洗い終えた衣服は石に広げられ、朝の風に揺れている。

 粗末な布切れではあっても、きちんと洗濯されたそれは清潔で、糸のほつれさえ丁寧に結び直されていた。


 トールはその様子を黙って眺め、ふとナターリヤに目をやった。

 彼女は裾をまくり上げ、淡々と濡れた布を干している。


「……ちゃんとしてるな」


 思わず漏らした言葉に、ナターリヤが少しだけ振り向いた。


「え?」


「服も、身なりも。影路地じゃ目立つだろうに」


 ナターリヤは小さく微笑んだ。


「……教会で暮らしていた頃からの習慣です。どれだけ飢えても、汚れてしまえば心まで荒んでしまうから……せめて、子供たちだけは」


 その声音は静かだったが、強い意志が滲んでいた。


 トールは短く頷いた。

 軍で叩き込まれた規律とは違う。だが、それもまた秩序だった。

 人を人として繋ぎ止める小さな誇り。



 子供たちの洗濯がひと段落すると、トールも上着を脱ぎ、井戸の水を頭から浴びた。


 冷水が背を伝い、鍛え抜かれた筋肉の起伏を鮮明に浮かび上がらせる。

 肩から胸郭にかけての厚みは装甲のようで、腹部には余分な肉一つなく割れた線が走っていた。

 長い行軍で鍛えられた脚は大地を突き割るように太く、無駄なく締まった腕は力よりも瞬発を物語っていた。


 ギルが思わず目を丸くし、口を開けたまま言葉を失う。

 サビーネは小さな手で目を覆ったが、指の隙間からじっと覗いている。

 タチアナは赤面し、慌てて洗濯物を干すふりをして視線を逸らした。


 ナターリヤもまた目を逸らそうとしたが、一瞬だけ息を呑む。

 ただの異邦人ではない。戦場で鍛え上げられた兵士の肉体――それが一目で伝わってきたからだ。


 トールは気にも留めず、水を浴び終えると素早くタオルで拭き、乾いた軍服を身に纏った。

 その一連の所作に、無駄も隙もなかった。


(……この人はやっぱり……ただの流れ者じゃない)


 ナターリヤは胸の奥にそう呟き、握る洗濯物の端を強く掴んでいた。


 簡素な食事を囲みながら、ギルがちらちらとトールを見ていた。

 やがて堪えきれず、声を弾ませる。


「なぁ、トール! どうしたら、あんなすげぇ筋肉がつくんだよ! 俺だって……あんなふうになりてぇ!」


 ナターリヤが呆れたように笑みを浮かべる横で、トールは少しだけ目を細めた。

 そして器を置き、無言で手を伸ばすと、ギルの頭に分厚い掌を乗せた。


「……そのうち教えてやるさ」


 低い声に、わずかな微笑が宿っていた。

 頭を撫でられたギルは真っ赤になり、目を輝かせる。


「ほんとか!?」


「ああ。だが……覚悟しろよ」


 短い言葉に、ギルは小さく拳を握りしめた。

 タチアナが呆れたように肩をすくめ、サビーネは羨ましそうにトールの腕へ身を寄せる。


 焚き火の炎が、ささやかな団欒を照らしていた。


 食事を終えると、トールは装備袋を開き、一つひとつを無言で点検していった。

 刃こぼれのないV3ナイフ。磨かれた刃が焚き火の赤を反射する。


 次に、軍用ブーツ。

 土埃を丁寧に拭い、つま先を指で叩く。鈍い音が返る。


(……まだ健在だ)


 鋼板で補強されたつま先は、ただの靴ではなく鈍器でもあった。蹴撃を加えれば骨を砕き、踏み込みには大地を貫く安定を与える。

 靴底には防滑加工、踏み抜き防止の鋼板も仕込まれている。


 それは歩くための道具であり、戦うための武具でもあった。


 紐を締め直していると、小さな影が横からのぞき込む。


「トール、これなぁに?」


 サビーネだった。

 大きな瞳をきらきらさせ、靴の爪先を指でちょん、と突く。


「痛くない?」


 無邪気な問いに、トールはわずかに口元を和らげた。

 そして自分の指でブーツを軽く叩いて見せる。


「大丈夫だ。丈夫にできてる」


「ふーん……トールの靴、かっこいい!」


 サビーネはそう言って彼の膝に抱きつき、胸に顔を埋める。

 トールは片手でその小さな頭を撫でた。


(……準備は整った。あとは、やるだけだ)



 夜、指定の場所で落ち合うと、ジェロームは薄笑いを浮かべながらも、特に言葉を交わさず歩き出した。

 トールも無言で肩を並べ、影路地の薄暗い路地を進む。


 しばらくして、ジェロームが口を開いた。


「……アンタも気づいてるだろうが、なんであの廃教会が狙われてるか、教えといてやるよ」


 トールが横目を向ける。


「神父のせいさ。あの爺さんな……結構な借金を商工連合に抱えてたんだ」


 ジェロームは煙草をくわえるように空気を吸い込み、吐き捨てるように言った。


「孤児を食わせる裏で、酒と賭け事に手を出してた。表向きは立派でも、裏は案外汚れてたんだよ」


 トールは眉をひそめたが、口を挟まず耳を傾ける。


「土地を処分したり再開発するのも、俺らにとっちゃ手間でしかねぇ。だからあの廃教会もずっと後回しになってた。……まあ、そこにアンタらが転がり込んできたってわけだ」


 ジェロームは肩をすくめ、ボヤくように続ける。


「正直、俺らだってあんなボロ屋に執着してるわけじゃねぇ。ただ、利権ってのは放っとくと他所の連中に嗅ぎつけられる。……面倒なんだよ」


 その言葉には冷たさと同時に、どこか倦んだ響きがあった。


 ジェロームの愚痴交じりの声が途切れる頃、通りの先に明かりが見えてきた。

 建物の隙間を縫うように、数十の松明が赤く揺れている。


 近づくにつれ、歓声と罵声が混じったざわめきが耳を打った。

 酒と汗と血の臭いが一つになり、影路地特有の湿った空気に重く溶け込んでいる。


 辿り着いたのは、瓦礫を取り壊して作られた広場だった。

 土の地面を囲むように木柵が組まれ、その周囲には粗末な板や石を並べて観客席代わりにしている。


 人々は思い思いに酒瓶を振り回し、賭けの銅貨や銀貨を投げ出し、試合の行方に声を張り上げていた。

 その眼差しには哀れみも憐憫もない。ただ「血が見たい」という飢えた欲望だけが渦巻いていた。


「……影路地の見世物ってやつだ」

 ジェロームが吐き捨てるように言う。

「強い奴が血を流せば、酒が進む。それだけの場所だ」


 広場の中央では、すでに一人の男が呻き声を上げて転がっていた。

 観客の罵声と笑い声が一斉に浴びせられる。


 トールは無言でその光景を見渡した。

 軍隊で訓練された目は、一瞬で環境を把握する。

 柵の高さ、観客の位置、逃げ道の数――すべてを頭に叩き込む。


(……地獄絵図だな。だが、勝ち残る以外に道はない)


 ジェロームは彼の横顔を見て、口元をわずかに吊り上げた。

「さあ、出番だ。アンタの“強者のやり方”を、ここで見せてやれよ」


 柵の奥から現れたのは、二メートル近い巨体の男だった。

 全身を覆う短い毛並み、耳は尖り、瞳は黄金色に光っている。


 獣じみた咆哮をあげるわけでもなく、静かに観客席を見渡していた。

 ただ、太い腕と脚の一挙手一投足から溢れ出る圧力に、場の空気が震える。


「おいおい……また獣人を出してきやがった!」

「筋肉馬鹿だが、見てて飽きねぇんだよな!」


 観客が口々に笑い、賭け銭を投げ合う。


 ジェロームが肩をすくめてぼやいた。

「……奴らは学もねぇし計算も苦手だ。だが、そのぶん身体能力は人間の比じゃねぇ。だからこういう場じゃ重宝される」


 獣人の戦士は柵の中央に進み出ると、相手を探すように首を回した。

 その視線がトールに止まる。

 牙を剥くでもなく、挑発するでもなく――ただ、戦士として相手を見据える目だった。


 トールはその瞳を真正面から受け止める。

 戦場で培った直感が告げていた。


(……理性はある。こいつは獣じゃない。“戦士”だ)


 獣人の巨体と、トールの軍人の肉体。

 観客の罵声が遠のき、広場に濃密な静寂が落ちた。


 柵の内側に押し出された二人。

 観客席からは怒号と歓声が入り乱れ、銀貨が飛び交っている。


 審判役の男が腕を振り下ろすと同時に、地面を蹴る轟音が広場に響いた。


 先に動いたのは獣人だった。

 巨体に似合わぬ速度で間合いを詰め、分厚い腕を振り抜く。


 空気を切り裂く音に、トールは即座に身を沈めて回避する。だが――


(……速い! そして重い!)


 掠めただけで肌が焼けるような圧。

 軍で鍛え上げられた身体でも、まともに受ければ骨ごと砕かれる。


 獣人は吠えるでもなく、黙々と攻め立ててきた。

 踏み込みの速さ、拳の重さ――すべてが理屈抜きの暴力。


 トールは最小限の回避を繰り返し、相手のリズムを測る。

 だが、頭ひとつ分大きい体格差が重くのしかかる。


 巨腕が絡みつくように伸び、肩口から胴を抱え込まれた。

 瞬間、肋骨に軋む痛み。


(……組まれたら厄介だ!)


 観客が一斉に沸き立つ。

「押し潰せ! 粉々にしろ!」


 獣人の筋肉が膨張し、トールを締め上げる。

 肺が押し潰され、呼吸が奪われる――


 だが、トールの瞳は冷静だった。

 焦りも恐怖もない。ただ次の一手を探る兵士の目。


(……力で張り合うのは愚策。なら、訓練通りに崩す)


 トールの指が相手の手首を掴み、肘を支点にわずかに捻じ込む。

 同時に腰を落とし、体重を一点に集中させる。


 関節が悲鳴を上げ、獣人の巨腕がわずかに緩んだ。


 その瞬間、トールは体を滑らせて脱出した。

 荒い息をつきながらも、構え直す。


 観客が驚きと歓声を入り混じらせ、広場の熱気がさらに高まった。


(……ただの怪物じゃない。“戦士”だ。なら俺も、全力で応えるしかない)


 獣人は執拗に拳を振り抜いてきた。

 空気を裂く重い打撃――まともに食らえば即死級。


 だが、トールは正面から殴り合わず、低く沈み込むと同時に鋭く蹴りを放った。


 ――バチン!


 脛に叩き込まれた衝撃に、獣人の巨体が一瞬揺らぐ。

 カーフキック。

 力任せの突進に合わせ、体重を乗せた蹴りを繰り返し刻む。


 最初はほとんど怯まなかった。

 だが三度、四度、五度と受けるうちに、巨体の足取りが目に見えて鈍る。

 観客席からもざわめきが広がった。


「おい……獣人の奴、足が……!」

「効いてやがる!」


 ついに、獣人は片足を引きずり出した。

 呼吸が荒くなり、突進の切れ味も鈍る。


 その隙を、トールは見逃さなかった。


 踏み込み――一気に腰を沈め、巨体の懐へ飛び込む。

 タックル。

 肩で腰を押し上げ、巨体を地面へ叩き倒した。


 土煙が舞い、観客が総立ちになる。


 そのままマウントを奪い、獣人の両腕を押さえ込む。

 動きを封じられた相手の顔面へ――拳を振り下ろした。


 ――ドガッ。


 観客の歓声と罵声が渦巻く中、拳が何度も落ちる。

 血飛沫が飛び散り、巨体が呻き声をあげる。


 やがて抵抗が途絶え、獣人の腕が力なく垂れ下がった。


 審判役が慌てて間に入り、勝敗を告げる。


「勝者――トール!」


 広場が大歓声に包まれた。

 賭け銭を掴み合う怒声、勝利に酔う雄叫び――影路地の夜が震える。


 トールはゆっくりと立ち上がった。

 荒い息を吐きながらも、瞳は冷静なままだった。


(……勝てたのは、技と経験のおかげだ。だが、この世界には……こういう怪物がごろごろいるってことか)


 拳を拭うことなく、観客席を一瞥する。

 その視線に気圧され、熱狂の一部が一瞬だけ静まり返った。


 観客席は歓声と罵声に割れ、酒瓶が宙を飛び交っていた。

 勝敗が決まった今も、誰も哀れみなど抱かない。ただ血と暴力に酔い、銀貨と銅貨を奪い合っている。


 トールは荒い息を整えながら、倒れ伏した獣人を一瞥した。

 完全に意識を失っているが、まだ息はある。

(……殺す必要はない。十分に勝敗はついた)


 観客の熱狂から切り離されたかのように、トールは冷静に立ち上がった。

 その背に、無数の視線が突き刺さる。羨望、恐怖、欲望。

 だが彼は気にも留めず、柵の外へと歩み出た。


 そこで待っていたのはジェロームだった。

 いつもの薄笑いを浮かべながらも、その瞳だけは真剣に光っていた。


「……見事だな。獣人を正面から叩き潰すとはよ」


 ジェロームは掌の上で銀貨を鳴らし、じゃらりと音を立てて差し出す。

 分厚い十枚の銀貨――約束の報酬だった。


「これで“貸し”は一つだ」


 トールは受け取った銀貨をじっと見下ろす。

 価値はまだ正確には分からない。だが、この街で生きるには必要不可欠な力だということだけは理解していた。


「……確かに預かる」


 短く答え、袋へと銀貨を収める。

 その仕草には誇らしげな色も、卑しい欲もなかった。

 ただ“兵站を整える”という任務を遂行する冷静さだけがあった。


 ジェロームは口角を吊り上げた。

「やっぱりアンタは面白ぇ。戦士の顔をしてるが、欲に呑まれねぇ……俺とはまるで違うな」


 トールは答えず、ただわずかに肩を竦めただけだった。

 その無言が、逆に重く響く。


 観客の喧噪を背に、二人は並んで広場を後にした。

 血と銀貨の匂いを残したまま、影路地の夜が再び静けさを取り戻していく。















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