第9話 ジェロームとの接触
廃教会での3日目の夜。
最低限の食料と寝床は確保できても、貨幣という現実の壁がトールの前に立ちはだかっていた。
「……影路地で金を得る方法はあるのか?」
焚き火の明かりに照らされながら、トールはナターリヤへ問いかけた。
彼女は一瞬だけ言葉を探し、それから小さく首を振った。
「日雇いの労役や、食堂の手伝い、荷運びや掃除……そういう仕事なら、あります。けれど……全部、商工連合が取り仕切っているんです」
「商工連合……」
「建物の取り壊しや再開発も、働き口も、影路地で動くものはすべて彼らが利権を握っています。……私たちは教会に隠れて暮らしていましたから、そういう仕事に就く術すらありませんでした」
声には諦めの色が濃くにじんでいた。
トールはしばし黙し、やがて短く息を吐く。
(要するに……どんな形であれ、商工連合に関わらなければ動けない仕組みか)
彼の思考は冷徹だった。
敵に回すのは愚策。だが、利用できるのなら話は別だ。
影路地における「力の構図」が、少しずつ輪郭を現しつつあった。
トールの結論は早かった。
(下手に身を隠すより、正面から飛び込むしかない)
ナターリヤから商工連合の詰め所の場所を聞き出すと、彼は単身でその路地を目指した。
石畳に面した二階建ての建物。粗雑な看板と鉄扉の前には、数人のごろつきが屯している。
トールが姿を現した瞬間、連中は一斉にざわめいた。
「おい、あの野郎……!」
「何しに来やがった!」
手が剣柄に伸びる。だが、場の空気を断ち切ったのは奥から響いた声だった。
「下がれ」
扉が軋みを立てて開き、長身の影が現れる。
ジェローム。
前と変わらぬ薄笑いを浮かべつつ、しかし目だけは鋭くトールを射抜いていた。
「……まだ期日には早いが。どうした?」
トールは迷わず言葉を返す。
「少し話がある」
短いやり取りののち、ジェロームは顎をしゃくった。
「……ここじゃ人目がある。ついて来な」
そう言うと、彼はトールを近くの酒場へと導いた。
薄暗い灯りと酒の匂いが充満する中、二人は向かい合って腰を下ろす。
酒場の奥、油の匂いが染みついた木の卓に向かい合って座る。
ざわめきは遠く、二人の周囲だけが静かな結界のように切り取られていた。
「……名乗っておくか」
最初に口を開いたのはジェロームだった。
「俺はジェローム。この影路地を仕切る商工連合の一人だ」
トールは短く頷き、真っ直ぐに視線を返す。
「片桐徹。……トール、と呼んでくれて構わない」
その声音には一切の迷いがなかった。
「……あの夜の動き。普通じゃなかった」
ジェロームは薄笑いを浮かべたまま、だが目だけは鋭くなる。
「一体何者だ?」
トールは躊躇わなかった。
「突然、この世界に放り込まれた。……だから、ここに関しては何も知らない。文化も制度も、貨幣の価値すらもな」
一瞬、ジェロームの眉がぴくりと動く。
だがトールは言葉を続けた。
「俺の世界では、軍人だった。部隊を率い、戦場で生き延びてきた」
静かに告げられたその言葉は、誇張も虚飾もない。
ただ事実として、卓の上に置かれた。
ジェロームはしばし沈黙し、やがて低く笑う。
「なるほどな……剣じゃねぇ、兵士の動きだったわけだ」
声に揶揄はなく、どこか感心の色が混じっていた。
(異邦人であることを、平然と口にする胆力……)
あの時、己が本能で感じた「化け物じみた強さ」。
それが訓練と戦場の裏付けによるものだと知り、ジェロームの胸に奇妙な感情が芽生えていた。
(こいつは……ただの力自慢じゃねぇ。本物だ。しかも、状況に呑まれねぇ心を持ってやがる)
薄笑いを崩さぬまま、ジェロームは杯を傾けた。
だが瞳の奥では、敵愾心とは異なる熱が静かに燃え始めていた。
卓に置かれた手を組み、トールは真っ直ぐにジェロームを見据えた。
その声音には飾りも駆け引きもない。
「邪魔をするつもりも、敵対するつもりもない」
短く、端的に。
その言葉の選び方は、戦場に立つ兵士そのものだった。
「ここから四人を連れて出るにしても……先立つものは金だ。ある程度、まとまった金を得る手段はないだろうか」
酒場のざわめきが遠くに引いていく。
トールの声は低く、それでいて一切の揺らぎを持たない。
ジェロームは杯を弄びながら目を細めた。
その言葉に一片の嘘もないと、直感が告げていた。
(……こいつは飾らねぇ。遊びも、虚飾もない。必要なものだけを口にする……)
戦場を渡ってきた者の言葉。
それは、荒事を生業にする者ならすぐに嗅ぎ分けられる。
(汚れ仕事でのし上がってきた俺とは違う。……誇りを持った軍人だ)
ジェロームの口元が僅かに吊り上がる。
笑みは皮肉めいているのに、瞳の奥には隠せぬ敬意が滲んでいた。
しばし沈黙の後、ジェロームが口を開いた。
「……何故、俺だ?」
その声音には、わずかな戸惑いが混じっていた。
確かにこの世界で知り合いのいない異邦人なら、誰に頼ろうと自由だ。
だが、よりにもよって刃を交えたばかりの自分を選ぶ理由があるのか。
トールは一拍置いて、低く答えた。
「ジェローム。あんたの剣には――誇りが残っている。俺はそう感じた」
焚き火のように、静かにだが確かな熱を帯びた言葉だった。
ジェロームは目を細め、笑みを隠すように杯を傾けた。
露悪的な態度で塗り固めてきた己の姿を、この男は一瞥で見抜いたのだ。
(……強さへの渇望。それを誤魔化さず、誇りと呼ぶか……)
心の奥に触れられたような感覚に、ジェロームは奇妙な感銘を覚えていた。
ジェロームはしばらく考え込んだ後、低く笑った。
「……まとまった金なんざ、この影路地じゃ“まっとうな手段”で作れるわけがねぇ」
その目が鋭く光る。
「……だから俺なんだよな?」
トールはわずかに頷いた。
「ああ……そうだな。但し――」
「わかってるさ」
ジェロームが言葉を遮るように吐き捨てる。
「アンタは汚れ仕事はしない。……できない男だろう」
声には揶揄も嘲りもなかった。
ただ、確信と理解があった。
ジェロームは卓上のグラスを取り、酒を注ぎ足す。
そしてもう一つのグラスをトールの前へ押しやった。
「なら――“強者のやり方”で話を進めようじゃねぇか」
酒場のざわめきの中、二つの杯が静かにぶつかり合った。
それは敵対でも服従でもない。
戦士同士の、不器用な共感の音だった。
ジェロームは懐から銀貨を一枚取り出し、卓上で転がした。
蝋燭の光を受けて、厚みのある銀色が鈍く輝く。
「勝てば、銀貨十枚だ」
硬貨が木の卓を叩く澄んだ音が、妙に重く響いた。
周囲で耳をそばだてていた連中の表情が、一瞬で変わる。
欲に濁った視線が銀色に集まり、ざわめきが広がった。
トールは黙してその様子を見やる。
価値はわからない。だが、この場にいる者たちが露骨に反応したことで、十分に伝わった。
「……賭け試合か」
「ああ。商工連合の別支部が催す余興だ。力自慢をぶつけて、血を見せるだけの見世物だ」
ジェロームの目には侮蔑も嘲りもなかった。
ただ、“貸しを作る”打算だけが静かに滲んでいた。
「……受けよう」
即答だった。
明後日の夜、指定の場所で落ち合う――そう約束を交わし、トールはジェロームと別れた。
影路地のざわめきを背に、廃教会へ戻る。
薄暗い地下室では、子供たちが焚き火のそばで待っていた。
トールの姿を見つけるやいなや、ギルが真っ先に駆け寄り、タチアナとサビーネも負けじと飛びついてくる。
「トール!」
「おかえりなさい!」
無邪気な声に迎えられ、トールは笑みを浮かべることもなく、ただ静かに応えた。
抱きついてくる小さな体を順に抱き上げ、頭を撫でる。
ナターリヤは問いかけるように目を向けたが、トールは首を振ることもせず、ただ子供たちの髪を梳いていた。
話す必要はない。
気負う必要もない。
沈黙の中で、彼はただ――守るべきものの温もりを確かめていた。




