第1話 雨と閃光
なろう初長編です。
今日は3話更新しますので、是非ご覧ください。
瓦礫の街は、雨に洗われながらまだ呻いていた。
鉄とコンクリートの匂いに、焦げた木材と泥水の臭気が混ざり、肺の奥にまとわりつく。片桐徹は防弾ベストの下で汗を滲ませ、崩れた孤児院の残骸に耳を澄ました。
かすかな泣き声。生きている。
「支柱を押さえろ、こっちへ光を!」
鋼で刻むように指示を飛ばし、部下たちが工具を振る。徹は自ら鉄骨に肩をねじ込み、こじ開け、闇から伸びた小さな手を抱き上げた。土に塗れた少年の体温が、骨の奥まで刺さる。
──俺も、こんな手だった。
凍える夜、握りしめた自分の掌の記憶が疼く。孤児として生き延びた日々。だからこそ、今、目の前の命を放すわけにはいかない。
「大丈夫だ。もう離さない」
低く呟き、背で落石を受け止める。肩が裂けるように痛んだ。
次の瞬間、地の底を裂く轟音。山肌が崩れ、世界が白く焼ける。雷光、熱、耳を突く咆哮。少年を庇う姿勢のまま、徹の視界は反転した。
――そして、静寂。
瞼を開けると、そこは瓦礫ではなかった。深い緑の海のような森。鳥の声すらない、濃すぎる静けさ。抱えていたはずの少年は消え、腕には虚空だけが残っている。
徹は息を整え、立ち上がる。軍靴が踏むのは濡れた土。見知らぬ匂い、見知らぬ空。心臓はまだ任務中の鼓動を刻むが、ここは日本ではない。
「……ふざけるな」
歯の隙間から漏れた声は、戦場で幾度も死地を抜けた男のものだった。
彼は周囲を読む。風向き、地形、歩ける道、隠れられる影。サバイバルナイフの重み、背の装備の軋み。落ちた雷鳴の残響だけが体内に燻る。
夜が降りる。森の切れ目に、歪んだ街並みが滲み出た。木材を無理やり組んだバラック、穴だらけの屋根、罅の走る壁。路地の泥溜まりは、安酒の酸っぱさと人間の臭いを一緒くたに腐らせている。
「……地獄だな」
声は乾いていた。夜更けなのに、人影がない。酔い潰れた骸も、喧噪もない。どこかの隙間から漏れるのは、犬か人か判じがたい呻き声だけ。
その中に、背の高い影がひとつ。朽ちた石壁、傾いた十字架。教会。そう呼ぶにはあまりに疲れ切っているが、雨を避ける屋根はそこにしかなかった。
「まずは寝床だ」
徹は余計な思考を切り捨て、足を運ぶ。靴音が泥を吸い、装備がわずかに鳴る。割れた窓の向こうに弱い灯が揺れた。灯りがある。つまり、誰かがいる。
敵か、味方か。判断には情報が足りない。だが銃剣に触れた指を離す。ここで一番守られるべきは、光の側にいる者だ。
扉に手をかける。重い軋みとともに、冷えた石の空洞が口を開いた。
割れた窓から差す月光が、影ばかりを濃くする。床には藁布団が三つ。痩せた腕、細すぎる首。子供が三人、膝を抱いて眠っている。徹の眼はそこへ無意識に吸い寄せられたが、表情は動かなかった。
祭壇脇、灯火の前に若い女が立っていた。黒い修道服。怯えを喉の奥で押し殺し、まっすぐこちらを見る。
「……誰ですか」
かすれているが、折れてはいない声だった。
徹は答えず、一歩踏み入れる。石床に軍靴が乾いた音を打ち、空洞全体に響く。視線が素早く巡る。逃げ道、遮蔽、武器になるもの、潜む影。空間を瞬時に読み切る気配に、女の喉が小さく鳴った。
「待ってください。ここは……子供たちの寝床です」
徹は手を小さく上げ、武器を持たない掌を見せる。敵意なしの合図。もう片方の手で、防弾ベストのポケットから小さな銀色の袋を取り出した。
「食べ物だ。起こすな。あなたが受け取れ」
女は一瞬だけ迷い、歩み寄って袋を受け取る。軽い――彼女の顔に、情けなさと感謝が同時に走る。
「助かります。……私はナターリヤ。この子たちはギル、タチアナ、サビーネ」
寝息の合間に、三つの名前が灯る。徹は頷き、子供たちから視線を外さないまま、女に向き直る。
(親子?ではない、…そういうことか、ここでもこんな子たちがいるのか)
連想は容易だ。ならば、俺ができることをするしかない。
「片桐徹。……徹でいい」
名を告げると、女の目が一瞬だけ和らいだ。だが、すぐに緊張が戻る。外の風が扉の隙間を鳴らし、灯火が細く揺れた。
「あなたは兵士ですね」
「そうだ。今は……迷子でもある」
乾いた冗談にも似た言葉に、女は唇だけで笑った。笑いはすぐ終わる。現実は、笑いで薄められない。
――ここがどんな場所か。――彼らが敵か、ただの弱者か。結論は一つに収束する。
守るべき対象が目の前にいる。
徹は祭壇の脇に腰を落とし、背中の装備をそっと下ろした。金属音を殺す手つきは、長い訓練と数え切れない現場が染み込ませたものだ。
「眠れ。見張りは俺がする」
「でも、あなたは……」
「起きている方が性に合っている」
短く切る。ナターリヤは言葉を飲み込み、子供たちに毛布を掛け直した。タチアナが寝返りを打ち、サビーネの小さな指が毛布の縁をつまむ。ギルの呼吸は浅く、しかし規則的だ。
徹は扉と窓と灯火の位置を直線で結び、死角と侵入経路を地図にする。耳には風、遠くの足音、木材の鳴き。鼻には湿り、油、鉄。石壁に背を預け、視線は闇を射る。
扉の外、かすかな音。泥を踏む靴が二、三。止まる。呼吸が揺れる。低い囁き声。
徹は音もなく立ち、扉から半歩離れて姿勢を落とす。ナターリヤが顔を上げる。目が合う。彼は首を横に振り、灯を手で覆わせた。火が細くなり、影が深まる。
扉が、ゆっくりと、叩かれた。
第一声が何であれ、ここでの答えは一つだ。守る。必要なら、排す。徹の視線は、夜の奥をまっすぐに貫いた。
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