病院
「こもれび」に保護をされてから、数日が経った。その間の「こもれび」での生活は、これまでの私の日常と比べれば非常に平和なものだった。いつも父や母の機嫌を伺い、可能な限り危害を加えられない様に怯える日々……。苦痛な毎日から解放され、こんなに平穏な日常があったのだと心が満たされる。そんな日々の中でも、私は、目下のところ高校に行かなければいけないのだが、未だ通えずにいた。教科書や制服などは家を飛び出してきた時に全て置いてきてしまっているし、今は4月で入学してから日も浅く、新品同様のそれらを取りに帰る方法もあるのだが、あのアパートに私は絶対に近づきたくなかった。思い出すだけでも、あの日の出来事が脳内でリフレインされ、身体の震えと吐き気を催す位には恐怖の記憶が深く刻まれている。私の事情を察してくれている優仁は、「小華さんの気持ちは、もちろん一番に尊重するよ。」と言ってくれた。
「「こもれび」の予算で、制服や教科書をもう一度、買い揃えても問題はないんだけれどね。ただ小華さんを保護している手前、一度は挨拶に出向かないといけないと思ってるんだ。だから、その時の様子を見て問題なさそうだったら、持って帰ってくるね。まだ新品でもったいないし。」
優仁は、私の両親に会いに行くと言うが、少し心配だった。母ならともかく、義父と会って上手く話ができるだろうか……。暴言はともかく、暴力さえ厭わない輩だ。優仁は、とても腕っぷしが強そうには見えない。穏便に済めばいいのだが……。
「あの、大丈夫でしょうか。父は気障が荒いので心配です。」
「大丈夫。同じ様な状況は良くあるよ。こんな仕事をしていると特にね。それに僕一人じゃなくて、児童相談所の人とかと一緒に行くから大丈夫。」
「そうですか……。でも、気を付けてください……。」
もし男二人で訪問したと仮定しても、本当に大丈夫か一抹の不安は拭えなかった。
優理と結衣と洋服や生活用品を買いに行ってから2、3日後くらいには、病院に行くことになった。特に身体の調子が悪い訳では無いのだが、虐待の証拠を押さえておく必要があるからで、優仁と一緒に優理も付き添ってくれた。土日は専門の病院が休診なので、本当は平日の午前でも良かったのだが、優理が絶対に一緒に行くと言って譲らなかったので、優理が学校から帰って来るのを待った。どうして病院くらいで、こんなに意固地になるのか不思議に思い、後で結衣にそれとなく聴いてみたら、「医師の診断によって虐待の証拠を残す訳だけど、色々と事細かに聴かれたりするからね……。気持ちの良いものではないし、その時その時の光景を嫌でも思い出しながら話す訳だから、どうしてもフラッシュバックしちゃうよね……。それに、痕跡を写真に撮ったりもするから、それが一番キツいかな……。本当に嫌だったら断っても大丈夫だけれど、優理は、そういう所を心配してるんだと思うよ。」と言っていた。
「そういう事だったんですね。簡単に身体を見て終わりくらいに思ってました。」
「うん……。法的な証拠になるものだし、大切な事だから……。ほんとは私も付いていってあげたいけど、私の学校が終わるの待ってたら遅くなっちゃうし……。ごめんね……。」
「いえいえ、大丈夫です。全然気にしないでください。」
なるほど優理らしい理由だと思った。どこまでも優しい気持ちを持っていて、決して偽善ではない。頭よりも先に身体が動いて手を差し伸べるのが優理なのだろう。
それから優仁と優理と3人で病院に行ったのだが、結衣が言っていた通り気分の良い物ではなかった。担当の先生は児童の虐待などが専門で、いつもお世話になっていると優仁が言っていたので悪い先生ではないと思っていたが、その通りで、とても優しい初老くらいの女性の医師だった。診察室に入った時は、柔和な笑みを浮かべながら握手をしてくれて「よく今まで頑張ったね」と語りかけてくれた。そこから簡単な説明を聴くと、いよいよ本題に入り、私の痛々しい身体を見せることになる。通常では有り得ない程の青黒い痣の数々、切り傷の薄っすらと残った傷跡。そして円形のケロイド状の火傷跡は独特だった。先生は、その痕跡一つ一つを診断書に書き記し、どの様にして付いた物なのかを聴いてきた。私も全てを覚えている訳では無いが、可能な限り詳細に伝えたつもりだった。適当な理由を付けては理不尽に何度も殴られたこと、時にはカッターナイフなどの刃物も使われたこと。そしてタバコの火を押し付けられた事もあること。その度に、あの男の顔と腕を振るう光景が脳裏に浮かび、不愉快で惨めな感情に苛まれた。先生は最後に、神妙な面持ちで性的虐待のことについて尋ねてきた。女子にとって、それは神域ですらあり、もっともセンシティブで恥辱を伴う事柄だ。私は家を飛び出してきた日の事を思い出す。私は震える身体を両腕できつく押さえつけ、迫りくる吐き気を我慢しながら一つ一つゆっくりと語る。あの男が私に覆いかぶさってきたこと、そして乱暴な接吻に、私の二つの膨らみを暫く弄ったかと思うと、下半身に手を伸ばし一番敏感な部分を弄んだこと。でも、すんでの所で操を守ることができたこと。そして家を飛び出し「こもれび」に辿り着いたこと。一通り話し終えると、先生は無言で私の頭を撫でてくれたのだった。そして上半身、下半身と一通り記録が終わったのか、先生は次に写真を撮っても良いかを聴いてくる。結衣から事前に話を聴いていたので、それほど驚かずに済んだが、やはり少し身構えてしまった。嫌悪感や恥ずかしい気持ちはもちろんある。しかし法的に必要だと理解するならば、それは、あの男に立ち向かう為に必要なものなのだと、その為ならば写真の一枚や二枚、大したことはないと思えてくるのだった。
一通り終わり診察室を出ると、扉の前のベンチに優理と優仁が座って待っていてくれていた。優理がふと立ち上がったかと思うと、足早に私の懐に飛び込んで来た。その挙動は、私もなんとなく予想していて、これまでの優理の行動から、たぶん優理ならやりかねないと頭の片隅で感じていた。そのお陰か、身体も自然と優理を受け入れる体勢を取ることが出来る。私の胸元に飛び込んできた優理は、ちょうど頭が私の鼻先に来る形で、結衣が使っているトリートメントの甘い香りが鼻をついた。今では私も結衣のトリートメントを借りているので、私の髪と同じ薫りだった。
「大丈夫だった?」
優理が、困ったような上目遣いで聴いてくる。
「大丈夫だよ。ありがと。」
「辛くない?悲しくない?」
「全然!優理さんが一緒に来てくれたお陰で、辛くないし悲しくなんてないよ!」
「ほんと?」
「うん、本当!」
そう言うと、優理の顔がパッと明るくなる。優理の優しくて元気な、いつもの面差しだった。