第四章 忍び寄る運命の陰③
嘘。と、誰かに言って欲しかった。お前は自由だ。とも……。その声が晟也のものだったら……。
考えても無駄。そう分かっていても、俯き、彩夢は足を速める。
「彩夢お嬢様」
素通りしようとする彩夢は腕を取られ、嫌悪を露骨に顔に出す。
「梶山、放しなさい。わたくしは忙しくってよ」
凛として言う彩夢だったが、その目には滲むものがあった。だが、そんなことで怯むような男ではないことぐらい、百も承知である。
「一旦、ご自宅に帰られ、お化粧直しされますか? そのくらいのお時間なら」
「結構よ。わたくし、今日は気分がすぐれませんの。そうおじいさまにお伝えしてくださらない」
冷静沈着。秘書として、立派な心掛け。と、褒めるべきなのだろう。しかし、彩夢にとって癇に障るものでしかない。手を振り解き行ってしまおうとする彩夢の前に、梶山は立ち塞ぐ。
「彩夢様。悪いご冗談はおやめください。会長がお待ちしておられます」
「梶山、退きなさい。大きな声を出しますわよ」
「彩夢様。哲司様のお立場もお考えくださいませ」
顔色一つ変えず、卑劣なことを言う梶山を、彩夢は心から軽蔑をする。
流れる景色が目に映る。しかし、彩夢が見ていたのは晟也たちの姿だった。
閑静な面立ちの老舗旅館の前で降ろされた彩夢は、不可解な思いで梶山を見る。
てっきり本家へ行くものとばかりと、思っていた彩夢である。
良からぬ予感がして、彩夢は眉を顰める。
梶山は玄関先で、深々と頭を下げた姿勢で、彩夢を見送った。
考えたくはない。そうあっては欲しくない。そんな思いが入り混じらせながら、彩夢は女将に先導され、廊下を進んで行く。
開けられた障子から見えた光景に、彩夢は察しはついた。
躰を硬直させる彩夢を、上機嫌になっている源次郎が手招く。
「おじい様、何の真似ですの?」
「まぁそう怒るな彩夢。良いからこっちに来て座れ」
源次郎に向かい合わせ座る男性に、彩夢は見覚えがあった。チラッとだけだが、確かにその顔はあの写真男性だった。
「まさかおじい様」
「彩夢、察しが良いな。彼は十三丘祥希君だ。なかなかの好青年だろ。隣に行って、酌をしてやりなさい」
「おじい様。そのお話は、お断りしたはずですわ」
「まぁそう言わず。一度話してみなさい」
「彩夢さん、僕がお嫌いですか?」
「好きも嫌いもございませんわ。わたくしはこのような形での結婚は、嫌だと申しあげているだけですわ」
「僕にも覚えがあります。若気の至りってやつですな。お互いを知る機会なんて、本当はどうでも良いってこと、僕が必ず証明させて見せますよ。さ、そう固く考えず」
余裕の笑みを見せる祥希に、彩夢は閉口してしまう。
「いやぁ嬉しいな。やっと会えました。会長、僕は運命とやらを信じなければならない様です。僕がこの年まで独り身でいなければならなかったのか、それは、彩夢さんと出会うべくためだったと、今はっきり確信しました」
大げさすぎる表現もすだが、時折彩夢を見てくる目に、薄気味悪さを覚える。
「待たせてすまなかった。育て方が悪かったのか、自分の実力を試させろなんぞ、女がてらに言い出しましてな」
彩夢は失意のどん底に突き落とされた気分で、返盃しあう二人を見ていた。
「会長から、彩夢さんのお話は兼ねてから伺っておりましてね。想像した以上にお美しい。その上、ハーバード大学で、経済学を学んでいらっしゃったなんて、実に素晴らしい。僕の人生でこれほど才色兼備という言葉が相応しい女性に会ったことはありません。綾夢さん、これも縁だ。出会うべくして僕らは出会った。そう思いませんか?」
源次郎の手前、ここは大人になって口を合わせるべき。そう頭では分かっている彩夢だったが、どうしても我慢が出来ず、彩夢は襟を正し祥希を見る。
「十三丘様。お言葉ですが、あなた様がどう思われようと勝手ですが、わたくしの気持ちは変わりませんわ。それと過去形でお話になられていた大学の件ですが、わたくし、辞めた覚えはありませんわ。存じ上げない事を、軽々しくお口にするのは慎まれた方がよろしいのでは」
面を食らったものの、祥希は直ぐに笑いに変えていた。
「これは大変失礼しました。もうすでに、働かれていると会長からお聞きしていましたもので、僕はてっきり。いやいや早とちりをしてしまって申し訳ない」
何を言っても通用しないことに、彩夢は苛立つ。
「コラ綾夢。お前の方こそ口を慎みなさい。生意気だぞ。祥希君、こんな大口を叩いておるが、所詮、世間知らずの小娘。働くと言っても、ただの見習い。働かせる方も馬鹿ではない。たいしたことはさせていない様です。さ、もう一杯」
「いや僕はますます気にりました。女性とは言え、このくらい意見は持つべきです。どんな仕事にも前向きな姿勢で働けるとは、なかなかできることではありません。彩夢さん、是非僕とおつきあいをして下さい」
「こんな跳ねっ返りで申し訳ないが。女将、じゃんじゃん酒を持って来てくれ」
「会長、今日は美味しい酒になりそうです」
彩夢は呆然とし立ち尽くしてしまっていた。
「彩夢、いつまでそんな所で突っ立ているんだ。祥希君に失礼だぞ。さっさとこっちへ来て座りなさい」
「さぁ彩夢さん。遠慮なさらずこちらへ」
立ち上がった祥希に取られ、彩夢は躰を固くする。
「わたくしは」
「もしかして、まだ未成年でしたっけ?」
「いいえ。ですが」
「だったら舐めるだけでも」
差し出されたグラスを、彩夢は拒む。
「綾夢。いい加減にしなさい。失礼にも程がある」
源次郎に叱咤され、綾夢は渋々、グラスを手にするが、その手は僅かに震えてしまっていた。
「彩夢さん、僕にも軽く自己紹介をさせてください。彩夢さんも聞かされてはいると思いますが、十三丘ホールディングの三男坊です。専務という肩書はついていますが、実質は二人の兄が運営している次第で。僕が会社を継ぐ必要も、その気もありません」
始終笑みを浮かべ話す祥希に見詰められ、彩夢は曖昧な笑みを繕う。
「あなたの写真を見せられた時、僕は一瞬であなたに惹かれてしまったのです。西園寺会長には大変申し訳ないが、僕は社長の座などどうでも良い。そんなものは自分の努力でどうにでもなる。しかしですよ。こんな美しくて若いあなたを手に入れられる機会など、そうそうあることではない」
「おいおい、祥希君、もう酔ってしまったのか。つまらん冗談は言わんでくれ」
「言葉が過ぎましたが、彩夢さんには、僕の本気を知って欲しいのです」
「彩夢、女冥利に尽きるな」
笑えない源次郎の言葉に、彩夢は吐き気さえ覚える。
彩夢がそんな目に遭っていることなどまるで知らない晟也だったが、ふと足を止め振り返っていた。
なぜか、そこに彩夢が立っているような気がしたからだ。