第30話 目で聞きなさい
わたしの声は、平坦だという。
抑揚がなく、作り物のようだと。
十二の年、それを嗤われた。
だから今日まで、黙っていた。
「王暦、四〇七年」
喉が震えた。
出ているらしい。
部屋の全員が、こちらを向いたままだった。
誰も、笑わなかった。
十二の年、広間の笑いが床を震わせた。今日は、床が震えない。
「春。ラングレー侯爵邸の、庭でした」
一語ずつしか出ない。
息が三語で切れる。切れたら、吸い直す。母に習ったとおりに。
「わたしは、庭に面した長椅子に、座らされておりました」
オーギュストは、動かなかった。
「生垣の、向こうに、四人おられました。三人は、お若い方。おひとりは、白髪でした」
彼の顎が、一度引かれた。
「その方は、こう仰いました」
わたしは、息を吸った。
「よく聞きなさい。三人。三人いれば、それは真実になります」
書記の羽根ペンが、止まった。
「日付は、こちらで合わせます」
誰も動かない。
「東の、あの家です」
オーギュストが、口を開いた。
彼は激昂しなかった。この人は、たぶん一度も怒鳴ったことがない。
「証人資格を持たぬ者の言葉は、この国には存在いたしません」
ゆっくり。粒を揃えて。
「あなたが何を見たと申されようと、法の上では、あなたはその場におられなかったのです」
正しい。
わたしの言葉は、証拠にならない。
この部屋で、それは最初から分かっていた。
わたしは勝ちに来たのではない。
この人の前に立って、この人の唇を見に来た。
わたしは、もう一度言った。
「よく聞きなさい。三人。三人いれば、それは真実になります」
三度目を言おうとしたとき、リリアが立ち上がった。
「あたし」
妹の声は震えていたのだろう。唇の形が乱れている。
「あたし、それ、聞いたことある」
彼女はこちらを見なかった。オーギュストを見ていた。
「お母様が、家で言ってた。三人いれば大丈夫だって。誰かの真似みたいな言い方で」
テオドールが控帳を開いた。
ノエルが一歩前に出た。
オーギュストは、それでも動じなかった。
彼は王の名代のほうへ体を向け、袖を直した。
顎を、一度引いた。
彼は、こう言った。
「よく聞きなさい」
ゆっくり。
万人に届くように訓練された、この国でいちばん読みやすい唇で。
「あの三人は、正しく選ばれたのです」
彼は言った。
「国のために」
部屋が、止まった。
書記の羽根ペンが、紙の上で止まっている。
王の名代の口が、開いたままになった。
バルトロメが、顔を上げた。
五年前の証人三名のうち、痩せた男が、椅子から半分腰を浮かせた。
全員が、聞いた。
声に出された言葉は、複数の証人の前で効力を持つ。
この部屋には、二十人以上いた。
三人いれば、それは真実になる。
この人が、そう言った。五年前の庭で、粒を揃えて。
オーギュストは、自分が何を言ったのかを、まだ分かっていなかった。
彼はこちらを見て、それから王の名代を見て、そこでようやく、部屋の様子に気づいた。
彼の唇が、開いた。
開いて、何の形にもならなかった。
言い直そうとしたのだろう。
言い直せない。声は、あとから作れない。この人が、四百年ぶんの重みでそう言った。
声は、残る。
だから、正しく残さねばならない。
この人は、生涯そう言い続けてきたのだと思う。
言い続けて、そのとおりになった。
バルトロメが、席から立った。
わたしは、彼のほうへ体を向けた。
紙を出して、書いて、渡した。
『大司祭様。
神は声を聞くと、教えていらっしゃいます。
では、神が唇を読まぬ道理が、どこにありますか』
バルトロメは、それを読んだ。
読んで、二度読んだ。
三度目に入って、紙から目を上げなかった。
彼は、答えなかった。
この人が答えられないことを、わたしは知っていた。
答えは、四百年前に決められている。神は声を聞く。だから聞こえぬ者は届かない。
その一行を書いた人は、耳を持っていた。
審議は、その日のうちに差し戻された。
五年前の宣誓は無効とされ、ライナルト・カルネイドの名は戻った。
三名の証人は、それぞれ別の場所へ送られた。
書庫でミハイルを殺した男は、王都の外れで見つかった。灰色の外套は、着ていなかった。
オーギュスト・ラングレーは宰相の職を解かれた。
証人資格の条文を見直すという話が、王城で始まったらしい。
始まっただけだ。四百年動かなかったものが、ひと月で動くことはない。
わたしが生きているあいだに、変わるかどうかも分からない。
春になって、大神殿から使いが来た。
洗礼名を授けたいという。
この娘は神に届く者であった、と改めたいのだと。
わたしは断った。
紙に書いて渡した。
『わたしは、届かない者のままでおります』
使いの者は、その先を待った。
わたしは、書き足した。
『届かない者がいることを、この国が忘れないように』
使いの者は、その紙を持って帰った。
断られた理由を、あの人は神殿でどう伝えるのだろう。声に出して伝えるのだろう。
それでいい。
カルネイドへ帰る道は、来たときより乾いていた。
街道の脇に、芽の出た草が並んでいる。
東の関を越えると、風の匂いが変わった。砂を含んだ、あの風だ。
途中の宿で、ヴァイスが正面に立った。
わたしは、紙を出した。
『婚礼の日、最後に、何と仰ったのですか』
書いて、渡した。
あの日、宣誓が済んだあと、この人は証人に聞こえない声量で唇だけを動かした。
だから、あんたは、ここで。
そこまでは読めた。次の一語で速くなって、形が崩れた。
ヴァイスは紙を読んだ。
読んで、しばらく黙っていた。
それから、こちらの正面に回り込んだ。宿の廊下で、窓の光が横から当たる位置に。
身を傾けて、目の高さを合わせた。
いつもより、ずっと遅く、口を動かした。
「だから、あんたは、ここで」
わたしは、その唇を見ていた。
「黙っていなくて、いい」
最後の一語で、彼の下唇がわずかに内へ入った。
半年前、読めなかったあの動きだ。
この人は、最初からそう言っていた。
わたしが読めなかっただけだ。
読めなかったものは、追いかけない。母はそう教えた。追いかけたところで届かない、と。
届いた。半年かかった。
この人が言ったことを、わたしは全部覚えている。
十二日かかる。今夜は冷える。助かった、というのは、俺が礼を言っている。増やせばいい、それだけのことだ。使わなくていい。
どれにも、そういう言葉は入っていなかった。
代わりに、この人は正面に回り続けた。灯りを自分の顔の下に構え続けた。書庫に燭台を四本運んだ。雪の中で、四枚の紙を外套の内側に入れた。
わたしには、そちらのほうが読める。
この人は、たぶん、それを知らない。
その夜、宿の部屋で、母の手鏡を出した。
柄の銀は黒ずんだままだ。握るところの模様が擦り切れている。
ノエルが湯を持ってきて、卓を回り込み、正面に立った。
「よろしいですか」
一拍。
彼女は、そこで一度、目を伏せた。
伏せてから、上げた。
「あの日、あたくしは、あの部屋におりました」
わたしは、顔を上げた。
「奥様の。……お母上様の、最期の日でございます」
ノエルの唇が、ゆっくり動いた。
「あたくしには、聞こえておりました」
十二年、この人は言わなかった。
言えば、わたしが読めなかったことを、突きつけることになる。
だから言わなかった。荷造りの日、母の手鏡を見て、口を開きかけて、閉じた。
わたしはあの日、形になる前のものを読み損ねた。
ノエルは、こう続けた。
「お母上様は、こう仰いました」
彼女は一語ずつ、口を動かした。
「あなたは目で聞きなさい」
わたしは、その形を見ていた。
「それでいい」
読めなかったのではない。
あの夜、母は、わたしに読ませる必要がなかったのだ。
それは、とうに知っていることだったから。
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