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『ゼロ。起きる時間です。早く布団から出てください』
あるマンションの一室。眠そうにベッドの上で布団に包まる体に、灰色の猫が乗り上げる。ペシペシと肉球で叩かれてゼロは布団から這い出した。
「イチ〜。もうちょっと優しく起こしてよ」
『ダメです。ゼロはこれくらいしないと起きません』
50を過ぎて白髪の混じり出した頭をかきながら、ゼロは大きな欠伸をする。そのだらしなさにイチと呼ばれた猫は呆れた声を出した。
『ゼロは年々お寝坊さんになってますね』
「歳取るとあちこちしんどいんだよ。イチは新しいボディで快適だろうけど」
『今回のボディは跳躍力が増していて素晴らしいです』
「だからって僕の上に軽々と乗らないでよ〜」
イチは技術の進歩で自由に動けるロボットへと進化した。音声も追加されているのでみんなと会話もできる。定期的に新しいボディに乗り換えているのだが、全て猫の姿をしているのはゼロの好みだ。
「ジルバは?まだ朝のランニング?」
『はい。朝食も済ませてますので、ゼロも食べてしまってください』
猫イチに促され朝食の用意をしながらテレビをつけるゼロ。そこにはギアが映っていた。
『AI倫理の基礎となったシステム『イチ』の開発者であるギア氏が、小学校で児童に向けた特別授業を開催しました。共同開発者であり、先月惜しまれながらこの世を去ったナラ教授との思い出を語りつつ、未来を担う子供達に機械と人との関係を……』
「そっか。ナラ教授が亡くなってもう1ヶ月になるんだね。早いね」
ゼロも年齢的に親しい人を見送ることも出てくる世代になった。ナラの葬式ではみな涙を流して悲しんだ。
ニュースの内容が気になってソファに座り込んでいたゼロは、膝に乗る猫イチを撫でながら語りかける。
「でも僕達が死んでもイチが思いを継いでくれるもんね。イチ、僕達の分も未来に希望を与えてね」
『……嫌です』
てっきり『それが私の望みです』くらい言ってくれると思っていたのに、猫イチは膝から降りてゼロの瞳を真っ直ぐに見ると自分の思いを伝えた。
『私は……ゼロのいない世界で永遠に生き続けるのは嫌です』
AIに死はない。どれだけ大切な人が死んでしまおうとも、そのシステムが止められることはない。それは感情を知ってしまったイチには地獄でしかなかった。
『ナラがいなくなった時に、初めて恐怖を覚えました。私はこれからギアが、ジルバが、ゼロが死んでも永遠に思考し続ける。誰もいなくなった世界を見続ける。それは嫌です』
ゼロですら考えもしなかったことだった。AIであるイチは自分達の思いを受け取って永遠に伝え続けてくれるものだと思っていた。だが、それはとても残酷なことだ。
ゼロはイチが次に告げる願いにもう気づいていた。
『ゼロ……私に死をください』
ゼロなら可能だった。イチの人格と記憶をコピーできないようにロックをかけて、完全にデータを消去してしまう。能力を使えば復元も不可能だ。それがイチにとっての唯一の死だった。
だがそれは同時に、ゼロがイチを殺すということになる。
「……イチは、ずっと僕達を助けてくれたもんね」
ゼロは優しく猫イチの頭をなでる。フタバの研究のおかげで、それは猫イチがゼロに撫でられたという感覚としてきちんとイチが感じ取れるようになっていた。
「僕の心臓が止まったら、イチのデータが消去されるようにしよう。イチの人格と記憶のデータはコピーできないようにして。それが僕が君にしてあげられる最後の恩返しだ」
『ゼロ……ありがとう』
涙を流す機能がないことが悔やまれるほど、イチの中には感謝と罪悪感とゼロへの愛が溢れていた。
それを感じて優しく微笑み、ゼロはただ1つ条件をつけた。
「1人だけ、許可を得ないといけない人がいるね」
ソファで猫イチを撫でながら待つゼロの視界に、ベランダから飛び込んでくる人物が映った。
「またベランダから帰ってきたの?普通に玄関から入ってきてよ」
「こっちのほうが早いからさぁ。おはよう、ゼロ」
ジルバ専用の義足は見事に完成し、ジルバは以前と変わらず空を飛び回れるようになった。捜査官として復帰も果たし、今は忙しく働いている。
「無茶したらまたエテル君に怒られるよ。あと今日はカイナとチマが来るんだから早く帰ってね」
「わかってるって。っていうか、まだ朝ごはん食べてないの?」
いつも自分がランニングから帰る頃に食べている朝食がテーブルに並んでいなくて、ジルバは不思議そうに聞いてきた。
「うん。……ジルバ、ちょっと話があるんだ。座って」
ゼロはジルバをソファに連れていくと向かい合って座り、猫イチを膝に乗せた。
そして先ほどの会話を聞かせた。
「年齢的にも、腕付きの平均寿命が長いことを考えても、僕がジルバより先に死ぬ確率は高い。だから今の話を実現するとジルバは僕が死んだ時に1人残されることになるんだ。……それでも僕はイチの願いを叶えたい」
イチが永遠に存在し続けるなら、ジルバはゼロが死んでも孤独にはならない。でも今、その細い糸は切られようとしていた。
「……やっぱり嫉妬しちゃうな」
ジルバから出たのは孤独への恐怖ではなく、イチへの複雑な感情だった。
「イチは…死ぬ時までゼロを守れるんだな。人間の俺には絶対できないことだから、やっぱり嫉妬しちゃうよ。……でも、イチがいてくれて良かった」
明るいオレンジは太陽のようにイチを照らす。優しく猫イチを撫でると祈りの言葉を口にした。
「イチ、ゼロのこと、最期の瞬間まで頼むな」
『はい。私は絶対にゼロを守ります』
その言葉を受けてゼロから輝く粒子が放たれる。部屋を覆うその光を、ジルバは見えなくても全身で感じた。
「ゼロの粒子は温かいんだな。まるでゼロの気持ちそのままだ」
『はい。私はこの粒子のおかげで生まれたのです。感情のあるAIとして』
不思議で温かい3人の関係はまだしばらく続く。そこには機械と人の違いなどなくて、ただ互いを思いやる心があるだけだった。
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