第一話 居酒屋『竜神』
西暦2025年7月 宮城県・竜ヶ守町
燃えるような夕焼けに染まる海岸沿いの道を、よく日焼けした肌の大柄な男が歩いている。服装は薄汚れたTシャツ一丁、頭髪は角刈りといかにも仕事帰りの職人を思わせる風体なのに、さっきから口ずさんでいるのはかの「踊る大捜査線」の主題歌『Love Somebody』だ。
顔に似合わない―――とかの以前に季節はずれである。残り一週間弱で夏休みになろうかというタイミングで何もクリスマスソングを歌うこともないだろうに。
だが、ドラマや映画がやっていたのは今から20年近く前のことだ。彼にとってはこれが”思い出の曲”なのかもしれない。その見た目も一見、三十前後といった具合だ。
水平線に沈み行く太陽から目を逸らしつつ進むと、男の前方右手にガードレールの途切れた場所があった。そこから道路脇の小高い丘目掛けて、傾斜のゆるやかな石段が続いている。男は何も迷わずその石段を登りはじめた。彼の目的地はこの小さな丘の頂上にある。
日没前の、薄暗い森林公園を左手に見つつ職人風の男が石段を登りきったところで、目的の店が見えた。
『竜神』
それがこの小ぢんまりした居酒屋の名前である。
居酒屋というのは普通、仕事帰りの客などが立ち寄りやすいことを考慮しこんな丘の上に建てられることは無いのだが、この『竜神』という店だけは特別であった。石段を登る手間を差し引いても、「来たい」と思わせる何かがこの店にはあるのだ。
その日は何を注文しようかと考えて職人風の男が店に入ろうとすると、突然目の前の引き戸が音を立てて開かれ、屋号を描いた暖簾の下から別の男が一人、顔を出した。
まず最初に目についたのはその顔に残る大きな傷跡だった。左の頬骨から鼻の頭まで、顔面を一直線に横断する細長い傷跡だった。一見すると刃物で切り裂かれたかのようである。ついでにその傷跡の上にある二つの眼は、やたらと暗い鈍い光を放っていた。まるで何も見えていないかのような。
ふと、その虚ろな目が職人風の男に向けられた。じっと見つめてくるその顔立ちをよく見ると、まだかなり若い。それに顔が赤くなっていて妙に酒臭いあたりからすると、既にかなり飲んでいるようだった。それから顔に傷のある男はその表情を僅かに歪めると、
「・・・・・・チッ!」
あからさまに舌打ちなどしてきた。初っ端から険悪ムードである。
こんな顔で睨まれたら普通の人間なら萎縮しそうなものだが、職人風の男は大した威圧も感じることもなかったらしく、逆に相手を睨み返してやった。
「なんだニイチャン、俺になんか用か?」
柄の悪い男相手に、ある意味挑発とも取れる行為。入り口でにらみ合いが続き一触即発かと思われたが、しばらくして顔に傷のある男のほうが再び「チッ」と舌打ちして職人風の男を避けると、そのまま丘のふもとに広がる森林公園へ早足で歩き去っていった。
職人風の男は少しの間その後姿を眺めていたが、すぐに顔を背けて店に入った。
「・・・・・・へっ、おととい来やがれ。さーてと、マスター、いつものやつ!」
そう言ってその職人風の男は、暖簾をくぐって開きっぱなしだった入り口から店内へと足を踏み入れた。どんな店でもそうだが、一度入るとその店独特の”匂い”が漂ってくる。
「―――なーんて言うとカッコいいんだけど、あるのは所詮、ビールと焼き鳥なんだよなぁ」
「ぶつぶつ言ってないで、座ったらどうです?」
「あ、名ばかりマスター」
「管理職みたいに言わないでもらえます!? って言うか正式なマスター・・・・じゃなくて店長ですから!」
「でも残業代出てないだろ?」
「出るわけ無いでしょ、全部一人でやってんだから。ほら、座った座った」
そう言って着席を促すサングラス男。カウンターに立つ彼の頭上からは蛍光灯の光がさんさんと降り注ぎ、その目元を隠す茶色いレンズに反射して鈍く光っている。といっても、別に目が悪かったりするわけではない。ただ単に本人の趣味である。
似合っているのかと問われると正直微妙なのだが、どういうわけか当人はコレをいたく気に入っており、人前に姿を現すときは常に装着していた。そのため開店以来、彼の素顔を見たことのある者は皆無であった。そんな微妙にミステリアスな部分も相俟ってか、彼は居酒屋の店長ながら『マスター』の名を頂戴していたのだった。
「吉田さんのことだから、ハツとアカでいいんですよね?」
「ああ、言っただろ、”いつものやつ”って。俺ぁ、アレ食わないと満足しないんでね」
『吉田 義一』・・・・・・この職人風の男の本名である。吉田はカウンター席でマスターの眼前に座ったが早いか心臓に肝臓という、なんとも好き嫌いの分かれそうなメニューを2つまとめて注文した。こういう好みになるのは、果たして力仕事に従事しているためだろうか。
目の前ではすぐさまマスターが金網の下に火を入れ、肉を焼き始めた。焼き鳥が焼きあがるまでの時間を潰そうと、吉田は席の右手奥に設置されたALBINO製22型液晶テレビの電源を着けに立ち上がった。フルハイビジョン画質でもなく、ブラウン管がほぼ絶滅したこの時代ではいささか低スペックな部類に入るが、居酒屋に置くならば充分ともいえた。
吉田が座っていたカウンター席の背後には、六畳半ぐらいの座敷タイプの座席が広がっている。普段は中年が何人も座布団に胡坐などかいてわいわいやっているものだが、その日は来るのが早かった所為かまだ他の客は姿を見せていなかった。そう、他の客といえば―――、
「・・・・・・あいよ、ハツとアカ一丁あがり!」
「おぅ、待ってました」
考えてる間に早速出来上がったらしい。先ほどから、カウンターのほうから肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。『竜神』店内でいつもかかっている民放ニュースにチャンネルを合わせつつ、吉田はもといた席に戻って焼き鳥が二本ずつ乗った皿を引き寄せた。
「さてと、いただきま―――ってちょっと待て。なんでカッパが一本混じってるんだ?」
そう言って、手をつけるのを寸前で止めた吉田の皿の上には、赤茶色に焼けた心臓と肝臓の切り身が2本ずつに加え、それとは別の種類で三角形で白っぽい色合いのものが1本余分に乗せられている。これは所謂『カッパ』『やげん』などと呼ばれるもので、要は鶏のなんこつである。白い具材のところどころに軽い焦げ目が入っていて、なかなか美味そうな様子だ。
「なんでって・・・・・・僕がたった今焼いたからですけど?」
「違う、そういうことを聞いてるんじゃない。俺は一度も注文して無いだろ!?」
「気にしないで、サービスですから」
「いや、だからそういう問題じゃなくてだな・・・・・・」
「あ、1本じゃ足りないのね。しょーがないな、特別にもう1本だけサービスしますよ」
「・・・・・・・・・なんつーか、客という客になんこつ食わせないと気が済まないのかココは?」
呆れ顔の吉田。ソレもそのはず、こういうことは今回が初めてではないのだ。吉田はあえてツッコミを入れていたが、『竜神』の常連客の間ではもはやマスターのなんこつ好きは伝説になりつつあった。とにかく、来る客来る客全員になんこつを振舞おうとするのだ。それも、吉田のように注文した覚えが無い客にまで。
「しかもやたら美味いのが、余計に腹立たしい・・・・・・」
既にあったなんこつ一本をかじりつつ、吉田はボソッと呟いた。焼けた軟骨自体から湧き上がる香りと、そこにかかったタレから湧き上がる香りとが絶妙なハーモニーを奏でて鼻腔を這い上がり、普段はそこまで神経質でもないハズの吉田の味覚と嗅覚を刺激する。こんな素晴らしい味を生み出せるなんて君はなんという男だ、マスター。
「・・・・・・そういや、さっきそこで出くわした客なんだが―――」
「はい、2本目完成~」
「増やすなよ、頼むから! ハツが食えねぇじゃねーか!?」
吉田の幸せそうな悲鳴は、その後も幾度と無く繰り返された。
* * * * *
「で、さっき出て行った客は誰なんだ?」
マスターの執拗ななんこつ攻めも終焉を迎え、最初に注文したハツとアカの焼き鳥をようやくの思いで口にすると、入り口のほうを見つめて吉田が言った。それは、その日の夕方店に着いてからずっと気になっていた内容でもあった。
「顔にやたらデカい傷があったけど・・・・・・・この辺じゃ見たことないし、牌満点会の組員かなんかが引っ越してきたのかな?」
「ぱい・・・・・・? 何ですかソレ、聞いたことないですけど・・・・・・」
「組長がタヌキとか言われてる暴力団だよ。仙台のほうで活動してる連中だけど、聞いたことないか?」
「『仁義なき戦い』は観たことないんで・・・・・・」
「いや、映画の話じゃねーよ」
とぼけた答えを返しつつ、マスターは焼き鳥の保管に使っていたトレイを重ねて流しへと運んでいく。桶にトレイを突っ込む動作の後、ジャアアアと水を流し入れる音がする。
「よく分からないけど、警察官みたいですよあの人」
「へぇ、警察・・・・・・って何ぃ! アレが警察官って、流石にソレは無いだろ!?」
「あの人の愚痴ってた内容が本当なら、警察官で間違いないです。なんせ一人でビール四本も開けたんですからね・・・・・・そんなペラペラ嘘つけるほど、頭働かないでしょ」
こともなげに言うマスター。そう言われて思い出してみれば、すれ違ったあの男の上半身は水色のYシャツ姿だった気がするし、下のズボンが藍色ならその格好はまさしく警察官の夏服姿である。その目つきといい、顔の傷といい、出会い頭のインパクトが強くてあまり印象に残らなかったが、もしかすると階級章なんかもあの時確認できていたかもしれない。しかしそうだとすると、
「アイツ、やたらと制服着崩してなかったか? おまけにあんな格好でうろついてて、日も沈まないうちに酒浸りって・・・・・・色々とヤバイだろ。派出所か交番か知らないけど、上の連中は何やってんだ?」
吉田の口から出る、至極真っ当な疑問。
「たぶん、上司も黙認してるんじゃないですか?」
「親が警察のエリートで口が出せない、とかそんな感じなのか? 七光りのドラ息子とか」
「・・・・・・だったらまだ良かったんですけどねぇ・・・・・・・・・・・・」
そう言って何故か窓の外に目を向け、考え込むような口調のマスター。サングラスで眼元は見えないが、その口元は思い詰めるように閉じたまま。吉田はそこで、マスターの様子が少々おかしいことに気がついた。思わせぶりな口調。あの男について何か知っているのだろうか。
そうして少し経ってからマスターは軽い溜息をつくと、吉田のほうを向いた。
「客の事情にいちいち首突っ込むのは気が引けるんですけど・・・・・・」
「つまり、何か知ってるんだな?」
「確証は無いんですけどね。吉田さん、前に仙台でストーカー事件あったの覚えてます?」
「ストーカー・・・・・・つっても沢山あるしな。それって何時ぐらいの?」
「5月ぐらいです。ほら、ちょうど吉田さんが四丁目のタバコ屋改装してた頃・・・・・・」
「四丁目の――――あぁ、思い出した思い出した。アレって学生がやらかしたんだっけ?」
吉田も漸く思い出した。そのときも今のように、仕事帰りに『竜神』に立ち寄って焼き鳥をほおばっていたのだった。店の隅っこに置かれた液晶を見ながら、そこから聞こえてくる陰惨な事件の詳細に店内がやたらと騒がしくなったのを覚えている。
* * * * *
ことのあらましはこうだ。
仙台市内に住むある大学生が、同じ大学に通う女子大生のことを好きになった。交際を断られた学生のほうはそれ以降も幾度と無くアピールを続けたが結局受け入れられることがなく、ついには自宅周辺を深夜まで徘徊したり、相手の携帯電話に異常ともいえる回数の着信を入れたりした。俗に言う『ストーカー』と化したのである。
そしてここからが重要なのだが―――耐え兼ねた女子学生のほうはごく自然な流れで警察署へと相談に出向いた。宮城県仙台市周辺を管区とする仙台警察署にも当然ながらストーカー対策室は設置されており、被害者の学生はそこで事情を説明し不安から開放される・・・・・ハズだったのである。ストーカー本人が警察署までついて来てさえいなければ。
相談後、署から出て帰ろうとする女子大生の前に、なおもストーキングを続けていた学生が姿を現した。そしてあろうことか、隠し持っていたナイフで女子大生を刺し殺そうとしたのである。そこに間一髪、相談を受けていた巡査がストーカーの尾行に気づいて駆けつけ、男を取り押さえようとした。だがその瞬間―――、
* * * * *
「―――ってことは、まさかアイツが?」
吉田はその事実に気づいてから、思わず愕然とした。マスターがその問いに答えるかのように、軽く頷いてみせる。
そうだったのだ。あの顔に傷跡のあるガラの悪い男こそ、身を挺して女子大生を守り、その結果ストーカーに逆に斬りつけられて負傷した”勇気ある警察官”だったのだ。そうだとすれば、顔の傷はそのときつけられたものに違いない。
事情が事情だけに少し前まではマスコミも相当取り上げていたハズで、名前こそ覚えていなかったとはいえ、吉田も「大したヤツがいる」と感心したのを覚えている。しかしだとすると、吉田には分からないことがあった。
「なんで、こんな片田舎の町にいるんだ? 仙台でストーカーの相談受けてたなら、あっちの警察署で働いてたハズだろ?」
「ひどい怪我した警察官が田舎に来てて、酒浸りになって、挙句ヤケクソになって周りに当り散らしてるってなったら、もう答えなんて限られてくるでしょ?」
「・・・・・・・・・まぁ、な」
ハッキリ言えば”飛ばされた”のだろう。おそらくは顔に傷を負って風貌が変わり、市民に与える印象が悪くなる、とかなんとかその程度の理由で。事情を知らない殆どの人間は、その第一印象だけで彼という人物に勝手な結論を下してしまうだろうから。そう、吉田自身が当初そうであったように。
そういう事情が飲み込めてからだと、考えれば考えるほど吉田の心には罪悪感しか沸いてこなかった。知らなかったとはいえ、一時でも彼をヤクザなどと勘違いしてしまったからだ。マスターの話が本当なら、彼の背負った背景はあまりにも理不尽に思えた。
「・・・・・・ん?」
ちょっと気まずくなった吉田が、アレっきり無言でコップを拭いている目の前のマスターから顔を背け、先ほど自分で点けたテレビのほうを向いたときだった。靴底に何かを踏んだような感触を覚えて足元を見てみると、吉田の汚い靴の下に縦長で平べったく、少し黒っぽい色合いのものが落ちていた。吉田はその正体になんとなく察しがつき、拾い上げてみる。
案の定だった。それはあの男のものらしき、一冊の警察手帳だった。どんな人間であれ、持っていればその人物が警察官であることを示すことが出来る、また公務執行にも必須である強力な身分証。
吉田の記憶する限り警察手帳というものは紛失するとかなりの厳罰が科せられるシロモノだった気がするのだが、あの男のものだったら返してやったほうが良いのではないだろうか。そんなことを考えつつ、吉田は手帳をぱかっと開いてみた。
思ったとおり、そこには男の名前と、警察官としての階級が印字されていた。
『水岡真悟 ―警部補―』
『水岡』・・・・・それが彼の名前らしい。警部補というと劇場版第3弾での青島刑事と同じ階級だ。懐かしい、とか考えているほどの余裕は吉田にはなかった。キャリアかノンキャリアかは知らないが、彼は見たところ二十代前半といった具合であった。その若さで警部補というと、出世の速度はかなり早い部類に入る。
よっぽどのことがない限り警部補なんて立場の人間がストーカー相談の対応に出ることは考えにくいから、事件があった当時はまだ水岡はこの階級ではなかったのだろう。おそらくは竜ヶ守に左遷される際、『建て前』として昇任させられたのか。
そうだとしたら、水岡には相当な屈辱だったことだろう。命がけで人命を守り職務を果たしたにも拘らず、形だけの階級を与えられた挙句こんな田舎の町へと左遷。あの様子ではおそらく、まともに仕事などしていないに違いない。いや―――したくても”させて貰えない”のだろう。
吉田は、手元にある水岡の写真に視線を落とした。まだ傷ひとつ負っていなかった頃の、水岡の若々しい顔写真。吉田の見たところ、その顔つきはむしろ端正なタイプに分類されるものだった。だからその写真を見れば見るほどに、吉田の心はちくりと痛むのだった。
手帳に貼られた水岡の顔写真は、刃物で鼻の部分から横一直線に切り裂かれていた。
* * * * *
その晩、夜も更けきったころ。道々に置かれた小高い街灯から漏れる白銀の光だけを光源に、かろうじて歩き回れるような闇の中の森林公園。その中を幾重にも通り抜ける灰色の石畳の上を、ふらふらと足取りもおぼつかず歩いてくる男の姿があった。一見端正なようにも見えるその顔には鼻の頭を通り抜ける一直線の傷跡が残り、さらにその下の地肌は火照ってでもいるのか妙に紅潮した様子だ。水岡真悟である。
「ヒック、ヒック」と時折しゃっくりを上げているのが聞こえる。テンプレートだろうが、どう考えても飲みすぎが原因だろう。酔っ払っているためか、その目も焦点が合っているようには見えない。一体何が、彼をここまで自棄にさせるのか。
水岡はいま、森林公園の西の出入り口から顔を出して町外れの小さな商店がいくつも立ち並ぶ場所に来ていた。彼自身、この町に来てから大して日数が経っていない。森林公園内を通る道も半ば適当に彷徨っていただけで、別段目的地があってここに出てきたわけではなかった。
それに今の水岡にとっては、どこに出ようが何が起ころうが、もはやどうでもいいのだった。たった一度の誠実さのために、何もかもが破壊された今となってしまっては。
―――ふと、傍のゴミ捨て場に水岡は視線を飛ばした。そこには大きな姿見の鏡が捨てられていた。ガラスと水銀とで構築された表面に、見事なまでの亀裂が入っている。そのせいで鏡面に映る像も不自然に途切れて見える。尤も、今の水岡にはそのほうがありがたいのだが。
潮風が吹いてきて、彼の足元に何かが飛ばされてきた。地面と擦れて乾いた音を立てているそれは、くしゃくしゃにされた古い新聞の切れ端だった。頭のぼんやりしたまま、ソレを手にとって拾って読んでみる水岡。
次の瞬間、水岡の目が大きく見開かれた。酔っていた頭がさーっと醒めてくる。そこに書かれた内容。それは彼の記憶と密接にリンクし、酔うことで忘れられるかもしれなかったあの出来事を呼び起こす。
水岡は再び、さっと傍のゴミ捨て場にあった鏡に目を向けた。醜くひび割れたその表面。街灯の光でそこに映し出される自分の顔もまた――――。
「うああああああああああっ!!」
水岡は思わず叫んでいた。傷跡で引きつったような顔を歪ませ、そこにあった自分の胸ぐらいの高さがある鏡を掴み上げると、感情にまかせてコンクリートの床に叩きつける。凄まじい音がして鏡の破片がそこらじゅうに飛び散った。何度も、何度も叩きつける。そうしてゴミ捨て場の敷居内が銀色の破片で埋め尽くされ、台座にへばりついてた残りの鏡面も粉々に粉砕されるまで腹の底から叫び続けた。
もしかすると、寝静まった住民が目を覚ましてきて人を呼ばれるかもしれなかった。正直、そうなればいいのにと思った。このまま気の狂った警官として同じ警察官に逮捕され、大勢から白い目を向けられることを願った。
* * * * *
粉々になった鏡の破片の中で、中が空っぽになった金属製の台座を掴んで立ち尽くす水岡の姿があった。あれから結局、誰も起きてくることはなかった。水岡の叫びは、何もその目に映ることがない深い闇の中に、むなしく溶けて消えていった。不気味なぐらいしんとして、何の音も立たない夏の夜だった。
しばらく立ち尽くしていた水岡は憮然とした表情で持っていた台座を放り捨てると、最初と同じくふらふらとした足取りで、何処へともなく歩き去っていった。粉々になった銀色の破片だけが、静かに街灯の光を反射して煌めいていた。
(第二話に続く)