序章 プロローグ
絵の具で塗りつぶしたように灰色の雲が、見渡す限りの空一面を覆っている。
その下の大地に広がる広大な山脈の稜線も、普段は山頂の雪で白く染まっているのが一変し、漆黒の影で埋め尽くされていた。空間全体に不吉さが充満していた。
そこに存在するのは、ただ暗闇だけだった。
その中でいま、生きるものたちの戦いが繰り広げられていた。
* * * * *
暗闇の中に煌々と光り輝く灯りの姿が見えた。暗黒を照らし出す希望の光だろうか?
いや、違った。ソレはすべてを焼き尽くす灼熱の光であった。
赤色に、オレンジ色に、瞬く間に形を変えて揺らめきつづける。その威容。
森が、炎に包まれていた。
その中にある小さな村。そこら中で美豆良の人影が逃げ惑っている。
6歳ぐらいの女の子がひとり、その足元で腰を抜かしてわんわんと泣き叫んでいた。
その少女は、母親の姿を探していた。
少し前、突如として現れた恐怖から逃げ惑い、走り回っているうちにはぐれてしまったのだ。
”それ”は何の前触れも無く現れたのだった。
予告も警告も発さず、突然姿を現したかと思うと、彼女の目の前でそれまで遊んでいた仲の良かった女の子数人をものも言わさず死体へと変えた。
それは一瞬の出来事だった。どうすることも出来なかった。
彼女らの命を奪った”それ”は容赦が無く、あまりにも一方的であった。
まるで――――「弱いお前たちが悪い」と言わんばかりに。あっという間にその存在を消し去ったのである。
少女は本能的に感じ取っていた。次は自分の番だ、と。
恐怖に駆られ、母親の姿を探し、無我夢中で逃げているうちにこの場所に来ていた。
逃げ回る大人たちの中に母親の姿を探すが、一向に見つかる気配は無い。
突然、うずくまる少女の脇を大人の戦士たちが駆け抜けていった。
口々に叫びながら、皆一直線に人々が逃げるのとは逆の方向に向かっていく。
それは当然だ。彼らは、あらゆる脅威に立ち向かい、自分たちの家族を守るためにその称号を与えられているのだから。
「化け物がァ・・・・・・子どもたちはやらせんぞ!!」
「行くんだ、ヤツを取り囲め! 全員で一斉に射掛けりゃ、生きていられるはずがねェ」
「ソレッ、死にさらしゃーっ」
屈強な戦士たちが”それ”の周囲へと展開すると、自分たちの十倍の大きさはある目標目掛けて一斉に頑丈な弓を構え、膨大な数の矢を放つ。
放たれてから一瞬で、数十本の矢が怪物の全身に突き立った。
怪物の動きが僅かに止まる。だが戦士たちが安堵する間も無く、不意に怪物の体表が不自然に揺らいだかと思うと、ズズズ・・・と音を立てて矢の形が溶けるように崩れ去り、突き立ったハズの怪物の体に吸い込まれていった。その後に、傷跡は一切無い。
その怪物が、黄色く爛々と光る眼で戦士たちを睥睨した。
「バ、バカな・・・・・・っ」
戦士たちが狼狽する。
それもそのハズ、彼らは日ごろから多くの獣と渡り合い自分たちの肉体を鍛え上げている。その筋骨隆々の腕で放たれる弓矢はあらゆる野獣を打ち砕き、その息の根を止める。
彼らに倒せない敵はいないハズだったのだ・・・・・・ソレが、彼らの理屈が通じる相手なら。
そして今目の前にしている相手は、残念ながら一切の理屈が通じない相手であった。
「ぎゃああああーっ!?」
「タケーっ! くそ、この化けも・・・・・・・・・へ? あ、ひ、ひぎゃあああ!!」
「うわぁぁぁぁぁ」
「諦めるな、ここで俺たちが退いたら子どもたちが死ぬんだぞっ!」
阿鼻叫喚、という言葉が相応しい光景であった。
果敢にもその怪物に立ち向かっていった戦士たちはことごとく蹴散らされ、崩れ落ちた物見櫓や竪穴住居の残骸に叩きつけられて気を失っていた。
しかしそれはまだ、マシな方であった。戦士たちの何人かは怪物の巨大な足に踏み潰され、元が人間だったのかも分からないような肉片へと変わり果てていた。またある者は、怪物が時折吐き出す灼熱の火炎で身を焼かれ、身悶えしながら息絶えていった。
その光景は、あまりにも惨たらしかった。
遠くからその戦いを見つめていた先ほどの少女は、もう涙も枯れ果てて座り込んでいた。
もう駄目だ・・・・・・そう思ったら自然と、泣く気持ちさえ失せたのだった。
たった今も、諦めずに弓を構えようとした戦士が一人、怪物の口から吹き出した真っ赤な炎を全身に浴びて倒れたところだった。今は大地の上でのた打ち回っているが、他の戦士同様に、じきに動かなくなるだろう。
しかもその戦士は、少女が知る限りその村で最も強い戦士の一人であった。
もうおしまいだと、確かにそう思った。
少女の目の前には、まごうことなき『死』が広がっていた。
* * * * *
ぷん、と肉の焼ける匂いが漂ってきた。地面が微かに振動し、それが幾度も繰り返される。
それまで呆然としていた少女が顔を上げると、戦士たちをことごとく殺し終えた怪物が、こちらへ向かって歩みだしていた。
そこらかしこで、戦士たちの亡骸が炎に包まれている。
皆、一様に目の前の怪物が吐き出した赤い炎で焼き尽くされたのだ。戦士だけではない。家も、倉も、友達もだ。いま、この村中で物を焼いている全ての炎は、このたった一体の怪物の口から吐き出されたものなのだ。そう思ったら頭が真っ白になった。
再び地面が揺れる。一歩、また一歩と怪物が歩みを進めてくる。
不思議と頭は冷静であった。もしかすると、異常な環境に置かれて感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
いずれにせよ少女にとってはどうでも良いことだった。そう、どうせ自分は死ぬのだから。
考えるだけ、抵抗するだけ無駄だと悟っていた。
まだ幼い少女にも、そのことだけはハッキリと理解できた。
圧倒的な力。それは絶対の正義だった。
ずん、と大きく鈍い音がして少女の視界が真っ黒なものに覆われた。
ゆっくりと見上げると、そこには全てを消し去った元凶である怪物が聳え立っていた。
怪物の背後で燃え盛るオレンジ色の光が、その巨躯を暗闇の中にくっきりと浮かび上がらせた。
怪物には爪が生えていた。その手と足に、巨大なものがそれぞれ。それは少女がそれまで見たことのあるどんな獣よりも鋭利で、長大であった。
背中にはこれまた巨大な翼が広げられていた。鳥とは違う、もっと邪悪な雰囲気の。
そしてその口元には、爪と同じぐらい鋭利で、もっと細長い牙が無数に生えそろっていた。そこからずっと低いうなり声が漏れ出ている。それは図らずも、この異形の怪物が”生きた存在”であることを知らしめていた。
そして少女の目線は、その”目元”へと向いた。
暗闇のような漆黒で覆われた怪物の表皮。その中でも鈍く黄色く光るその眼光だけが、ひときわ目立っている。怪物の視線が、足元の少女の姿を捉えた。
「・・・・・・・・・ミ・・・・・・ミミ・・・・・・ミミーッ!!」
突然、背後で母親が少女を呼ぶ声が聞こえた。
『ミミ』。母がくれた少女の名前。自分の無事を祈ってその名を叫ぶ母親の声。
その途端、少女の心にドッと恐怖心が甦ってきた。
もう死ぬしかないと、何も考えられなくなっていた少女の心に、「生きたい」という渇望が湧き上がってきた。
もう出会うのを諦めていたあの母と、もう一度会いたい。
そう思ったら死ぬのが怖くなってきたのだった。
少女は懸命に足を動かそうとした。――――が、完全に力の抜けた下半身は言うことを聞いてくれない。その間、徐々に怪物の顔が近づいてきた。
近くで見る怪物の頭部には、よく見ると無数の角が生えていた。今までに見えた牙や爪と併せると、この怪物の姿は少女のよく知る『龍』のソレに近かった。
そのとき、少女は自分の目を疑った。
顔を近づけてきた龍が――――その黄色い目を細めたのである。まるで笑うように。それはあたかも、逃げ出そうと必死にもがく少女の姿を見て、喜んでいるかのようであった。
少女の恐怖心が加速した。
ますます必死に足を動かそうとするが、もう間に合わない。龍がその口を開けた。
喰われるか、焼かれるか。少女は思わず目をつむった。
次の瞬間、体の近くで凄まじい音がして、体にびりびりと衝撃が伝わってきた。
何が起こったのかよく分からなかった。
恐る恐る少女が目を開けると、視界から龍の姿が掻き消えていた。
いや、違う。よく見れば龍は少女の視界の遥か彼方でひっくり返り、懸命にその巨体を起き上がらせようと四苦八苦していた。どうやら、向こうまで吹っ飛ばされたらしい。
それから少女は、自分の周囲が妙に暗いことに気がついた。
それで顔を上げてみて、少女は思わず言葉を失った。
そこにいたのは・・・・・・・・・全身が赤い表皮に包まれた、もう一体の龍だった。
* * * * *
「ガルアアアアアッ!」
少女をその体の内側に擁した真紅の龍は、自らが突き飛ばした漆黒の龍に向かって威嚇するように吼え声を上げた。黒い龍もようやくその身を持ち上げると、赤い龍に対して牙を剥き出した。
「フシュルルルルル・・・・・・」
赤と黒の龍が、互いを牽制しあっている。呻る以外には身動きしないが、今にも飛び掛りそうな雰囲気である。一方逃げ惑っていた人々は、
「見ろ、竜神さまだーっ!」
「おおぉ、竜神さまが助けに来てくださった・・・・竜神さま・・・・竜神さま・・・・」
「「うおおおーっ!」」
赤い龍の出現でにわかに活気付き、歓声など上げている。村人たちの表情から一気に絶望の色が消えていった。それから彼らは勇気を出して火の中に飛び込み、気を失った戦士たちを救出したりし始めた。姿を見せただけで、この効果であった。
しかし当の赤い龍に救われた少女だけは、違った想いを抱いていた。
曇りの無いその眼にはハッキリと映っていた。赤い龍は黒い龍とまったく同じ姿をしていたのだ。体の大きさから輪郭、角の本数まで殆ど一緒であった。違うのは、赤と黒というその色合いと、それからもうひとつ。”少女を救った”という事実だけ。
―――そう、確かにこの赤い龍は自分のことを助けてくれたのだ。
だから同じ姿でも、少女はこの龍のことは怖がらなかった。同じようでも本質がまったく違うのだということが、少女には大人たちとは違った理由だが理解できていた。それゆえに、
「・・・・ありがとう」
「グルルルルル・・・・・・・・・」
少女の静かな礼に応えるかのように、赤い龍が低くうなり声を上げた。
しかしその状態は長くは続かなかった。それまで様子を見ていた黒い龍が徐々に姿勢を屈め、それから不意に飛び掛ってきたのだ。赤い龍も地面を蹴って突撃していった。
「グオオオオオッ」
「シャアアアアアッ」
燃え盛る村のど真ん中で二体がぶつかり合ったとき、大地に凄まじい衝撃が走った。それは遠く離れていた少女やほかの村人たちのところにも届く。地面にうずくまったままの少女が、思わず悲鳴を上げる。
黒い龍が赤い龍の頭を鷲掴みにすると、力任せに大地に叩きつける。赤い龍は負けじとその爪を黒い龍の顔面に見舞う。幾度かの掌底を叩き込まれ、黒い龍が仰け反った。すかさず赤い龍がその口を開く。
それから赤い龍の喉の奥が青白く光り、一瞬の後にそこから灼熱の火炎が吐き出されて黒い龍の頭を直撃する。―――ただし、その色は敵のものとは対照的で真っ青だが。
黒い龍は、頭部を炎に包まれてよろめきながら後退しつつ、まるで犬が水滴を振り払うかのように鼻面を振るってこびり付いた炎を払った。それまでの敵の束縛から逃れた赤い龍は、ゆっくりと立ち上がる。
黒い龍は赤い龍を睨み付けた。その目は変わらず黄色くよどんだ光を放っているが、同時にどこか憎々しげで、言いようのない憎しみに満ちている。
そのとき黒い龍は、敵がその背後に匿っている人間たちの存在に気づいた。それから不気味に目を細め、大きく背中の翼を展開すると、地面を蹴って高空へと飛び上がった。
空高く飛び上がった黒い龍の姿を、赤い龍も、その背後の村人たちも目で追った。
翼を広げたまま空中で静止した黒い龍の口が開かれる。その口内が光り輝き―――、
―――ッ!。
地上の赤い龍が、咄嗟にその背中の翼を展開した。ただしソレは飛行するためではなく、背後の村人たちを庇うために。
閃光と共に赤い龍の体の正面で何度も爆発が起こり、猛烈な爆風が吹き荒れた。村人たちは思わず顔を覆うが、赤い龍が展開した翼に阻まれて破壊力が弱まり、彼らには届かない。しばらくして、大きく広がった黒煙を掻き分けながら赤い龍がその姿を現した。
自分ではなく、背後の人間たちを狙う。そのやり方に、赤い龍は強い怒りをたぎらせていた。
「ガアアアアアアッ!!」
雄たけびと共に自分も空に舞い上がる赤い龍。その体目掛けて灼熱の火球がいくつも飛んでくる。だが、避けられない。自分が避ければ火球の餌食になるのは村人たちだ。
赤い龍の体に火球が次々と命中した。流石に無茶なのか、飛ぶ速度が徐々に落ちていく。
そこへ突然、拡散した黒煙を切り裂いて黒い龍が突っ込んできた。煙にまぎれていたその姿は、赤い龍に接近を気づかせなかったのだ。咄嗟に腕で庇うが間に合わない。
再び衝撃が空間を伝う。敵の体当たりを受けた赤い龍は、易々と地上へ落下していった。
* * * * *
赤い龍が落下した場所には、猛烈な砂埃が舞っていた。そこに翼を広げた黒い龍が、ゆっくりと降下してきて着地した。心なしか、その黄色い眼は踊っているようだった。
黒い龍は敵にとどめを刺そうと、横たわって動かない赤い龍のところへ歩んで行こうとした。
そして、違和感を―――”彼にとって不穏な空気”を感じ取った。
その正体は、赤い龍の傍にあった。
人々が赤い龍の傍にひざまずき、一心に祈りをささげていたのだ。殆どの者が両手の指を組んで目を瞑り、ブツブツと何かを呟いている。またある者は幼い子供か、あるいは老いた親をその胸に掻き抱いて目を瞑り、やはり必死の表情で赤い龍へ祈っている。
”ミミ”と呼ばれた少女もその中にいた。
そう、彼ら全員が「生きたい」と願うがゆえに、赤い龍に「勝ってくれ」と。
ただ純粋に彼ら自身の未来のために。
突然、赤い龍の身体が光り輝き始めた。金色の光を放ちながらその足が大地を踏みしめ、その腕が倒れていた肉体を持ち上げる。こちら側に向かって見開かれた敵の瞳を見て、黒い龍は思わずぎょっとした。
その目には、怒りでも憎しみでもなく――――
「ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!」
次の瞬間、天を衝くような咆哮と共にボロボロだったハズのその翼が広げられ、赤い龍の背後に金色の翼が出現した。
爆発的に溢れてくる光は、暗黒が支配していた周囲の世界全てを照らし出した。
その迫力に、黒い龍は狼狽して後ずさった。
敵のソレは、決して自分には発揮することが出来ない力だった。
金色の光を纏った巨大な翼が音も無く振り下ろされ、黒い龍を目も眩むほどの光の奔流に巻き込んで大爆発を起こした。決着はその一瞬で着いた。
* * * * *
村人たちは恐る恐る顔を上げた。何が起こったのかを知るために。
そこで彼らが見たものは立ち上る巨大な爆炎と、そこから弱々しく不規則に羽ばたきながら逃げ去っていく黒い龍の姿だった。
その光景だけが全てを物語っていた。自分たちは救われたのだ。
続いて彼らは、傍に立っていた赤い龍を見た。
光が消えていった。その背中から広がった翼も、そして赤い龍自身も細かな光の粒に分解して消滅し、ちょうど吹いてきた風に乗って流れ去っていく。村人たちは思わず息を呑んだ。
そして彼らは目撃した。赤い龍の変化した光の粒子が飛んでいく方向で空を覆っていた暗雲が霧散していき、雲間から白い光が降り注ぎ始めたその瞬間を。それはあまりにも神々しく、まるで神の祝福だった。
その瞬間、人々は喉が張り裂けんばかりに歓声を上げた。
自分たちが受け取った『未来』を確かめ、”そこに生きている”という事実を祝うために。
いつの間にかあの少女も若い女性の胸元に飛びつき、そこで声の限り泣いていた。
母親と再会できたようだった。
おそらくは彼ら全員がこの瞬間、最大限に幸福を謳歌しているハズだった。
* * * * *
その少年は、赤い装束に身を包んでいた。
歓声を上げる村人たちから少し離れた茂みの中に一人、若いいでたちの男が隠れていた。
彼は先ほどから村人たちの様子を眺めているのだった。何処の誰かは分からない。
ただ何故か、彼の眼差しは優しげだった。
それから静かに踵を返すと、その場を後にするのだった。一言だけを呟いて。
「――――ありがとう」
いつしか少年は、森の暗闇の中へと消えていった。
(第一話に続く)




