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二人の友人

千夏は急いで仕事を片づけると、早々に会社を出た。まだ冬馬のことでイライラするし、ジムに行って、ボクササイズでもやるか。千夏はぶつぶつひとりごとを言いながら、駅に向かって歩いた。


千夏が契約している会員制フィットネスクラブ「オシアス」は、駅の北口側にあった。駅を挟んで南口側に会社や商店街、北口側にオシアスと閑静な住宅街があるため、会社の人間が南口側に来ることはほぼなかった。それもあって、千夏はオシアスに通い続けている。自分がジム通いしているなど、正秋と春菜を含め、会社の誰にも知られたくなかった。


入り口の自動ドアをくぐり、会員カードで受付を済ました直後、急にやる気が失せた。なんで自分が嫌な思いをさせられたのに、頑張ってボクササイズなどやらなくてはならないのかと、自分に疑問を投げかけた。千夏は回れ右して玄関に戻ろうとした。そのとき、背後から声がかかった。

「ちなっちゃん」

振り返ると、そこには年配で背の低い、上下セパレートタイプのトレーニングウェアを着た女性が立っていた。千夏のジム友、美穂だった。


美穂は千夏とは親子ほど歳が離れている女性で、長い髪を明るいライトブラウンに染めた、目鼻立ちの整った美人だった。よく鍛えていて体はスリムで、腹筋は割れていた。明るくポジティブで大らかな性格のせいで、ジム内でも美穂に寄り集まる会員は多かった。本人はトレンドにも敏感で、流行りのメイクやファッション、新しく始まったドラマやアニメにも詳しく、老若男女問わず会話をするのが苦ではないらしかった。千夏よりも年上の子どもが二人いるが、旦那とはずいぶん前に別れて、シングルを楽しんでいると過去に本人が言っていた。


生来、千夏はこういう陽キャ──はつらつとした人間は苦手だったが、美穂が思いのほか聞き上手で、思いやりのある受け答えをしてくれるので、心を許せた。同世代でも自分の両親とはずいぶん違うなと感心した。同時に、美穂の「今を生き切る」という言葉が好きだった。美穂はいつも度胸があって、これまでの武勇伝を聞くたびに心が踊った。ドキドキしたし、ワクワクした。私も美穂さんみたいになりたいと言うと、美穂は決まって笑顔を返した。


転職活動が落ち着いた、ビルの清掃の仕事を始めるんだと美穂が言うと、千夏はおめでとうございます、と言った。今日はやってかないのかとさらに美穂が尋ねたので、はい、と答えた。やってかないのはいつものことだけどね、と千夏は脳内でつぶやいた。美穂の言う、やっていく、というのはボクササイズをやることだった。


二人が知り合ったのは、ジムで不定期開催しているボクササイズのクラスだった。それを通じて仲良くなったものの、運動がもともと嫌いな千夏は続かず、ジムにはもっぱら風呂に入りにくるだけだった。千夏は家でほとんど風呂に入る必要がなく、ガス代が浮いていいと自分には言い聞かせていた。美穂もそんな千夏の怠け癖を分かっていて、浴室でのおしゃべりを楽しむのが常だった。


美穂に何かあったのか聞かれたが、千夏は曖昧に濁し、手を振って玄関を出た。バッグからスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを開いた。それから素早くメッセージを打った。送信先からはすぐに返信があった。千夏は駅に向かい、電車に乗った。


地元の駅に着くと、改札前で手を振る女性と目が合った。それは千夏の大学時代からの友人、沙耶香だった。

沙耶香は千夏よりも少し背が低いが、似たようなビヤ樽体型をしていて、普段から「Mサイズが入らない」と愚痴を吐き、いつも「ファッションセンターいまむら」の安くてゆったりした服ばかり着ていた。髪型は黒髪のボブで、丸顔に大きな目、形のいい鼻、さくらんぼのような血色のいい唇をしているものの、一つ残念なところがあった。それらのパーツが、すべて顔の中央に寄っていた。だけど、そんなうだつの上がらない見た目は千夏をほっとさせた。それに、沙耶香は基本的に穏やかだった。ネガティブではあるものの尖った意見は吐かないし、千夏の言うことを否定することもなかった。他の同級生とは違って結婚願望もないし、一緒にいて安心できた。


ただ、沙耶香には二つ、閉口していることがあった。一つは、本人はドラッグストアの店員として真面目に勤めているようだが、パチンコ狂で年中、負けていることだった。そのせいで月に一度の千夏との飲み会を金欠で行けないとか、奢ってくれれば行けるとか、そんなことばかり言っていた。倹約家の千夏にとっては月に一度の外食でとても楽しみにしているのに、そうやって浪費する沙耶香の行動が理解できなかった。


もう一つの問題は自称「恋愛体質」なところだった。本人の外見は千夏同様に冴えないが、彼氏はいた。それもたいてい五十代か、場合によっては六十代の男だった。沙耶香の歴代彼氏の画像を見る限り、イケメンは一人もいなかった。世の女達から相手にされなそうな気配に満ち満ちているのに、ジジ専の沙耶香はそれで満足しているらしかった。

交際期間はみな短命なようだったが、沙耶香の好みの彼氏ができた場合、しばらく千夏と音信不通になった。そして別れると、再び千夏との飲み会を再開した。この繰り返しが大学時代からの変わらぬパターンだった。


千夏と沙耶香は、二人の行きつけの沖縄料理屋「二ライカナイ」のドアをくぐった。アグー豚の焼きとんを看板メニューに掲げている店で、値段もリーズナブルなわりに接客もよく、二人は気に入って利用していた。店長は二人の顔を見て、「いつもありがとうございます」と笑顔を向け、窓際のテーブル席を案内した。


「ねえ、今日、奢ってくれるんでしょ」

向かい合って座る千夏に向かって、沙耶香がにやりとしながら尋ねる。千夏は嫌そうにため息をつきつつ頷く。これだからパチンコ狂は。突然の呼び出しをしたときは、開口一番、これを言ってくる。千夏はしぶしぶ頷く。


千夏はテーブルに肘をつき、側面の窓の方を見、フーッとため息をつく。窓と窓の間の壁には少し古くなった、大きなポスターが貼られていた。そのポスターのなかで、水着姿のグラビアアイドルがグラスに入ったビールを持って微笑んでいる。千夏は何気なくそれをじっと見つめる。若い頃の吉高由里香だ。今はドラマにもCMにもバシバシ出演している売れっ子女優だ。

店員がグアバサワーを運んでくる。テーブルに置かれたそれらを二人は手に取り、グラスをぶつけ合う。千夏も沙耶香も、昔からこれが好きだ。


「それで、どうしたの」

沙耶香がサワーをテーブルの上に置いて腕を組み、身を乗り出す。千夏が朝の出来事を話して聞かせると、沙耶香は神妙に頷く。

「えー? トーマ君って、あのトーマ君」

「そうだよ」

千夏は若干面倒くさそうに顎を突き出す。だが、自分が当時、沙也加に向かって散々、冬馬のことで騒いだのも事実だ。

「あんたも一途だねー。まだ好きだったの」

「悪い?」

「だって普通、顔も覚えてられなくない? 三年も経つと」

「あんなイケメン、忘れられるわけない」

「そっかあ。でも、それって仕方なくない?」

「うん。まあ」

「体目当てだったんだから。すごいイケメンだったわけでしょ、トーマ君て」

体目当て。嫌な言葉だ。店員がニンニクのアグー豚肉巻きと豆腐ようを運んでくる。沙耶香は一つ口に放り込み、皿を千夏の方へ差し出す。

「うん。本当にすごいイケメン」

千夏は肉巻きを箸でつまみながら眉間にシワを寄せ、素直に認める。


「しかも五個も下。そんなレベチ、無理だって。戦車に竹槍で突っ込んでいくようなもんだって」

沙耶香が両手をバンバン叩いてケタケタ笑う姿に、千夏は頭に血が上る。沙耶香の鼻の頭はメイクが落ちて、脂でテカッている。いっそのこと、竹槍でその脂ぎった鼻っ柱を突いてやりたい。代わりにサワーのグラスをギュッと握りしめる。

「せめて友達認定はされたかった」

「んー。そっか。でもさ」

沙耶香はニンニク臭いゲップを吐き出す。

「何?」

「そんなのほっといて、ほか、行きなよ。ねえ、焼きとん頼んでもいい?」

豆腐ようをつつきながら目を輝かせる沙耶香を睨みつけ、千夏はメニュー表を手渡した。


沙耶香を改札まで見送ると、千夏はくるりと向きを変えて歩き出した。闇夜に明るい光を投げかける商店街を抜け、大通りに出ると、歩道橋をのぼった。眼下には片側二車線の道路が貫き、左側は赤いテールランプが、右側は淡い橙色のヘッドライトが連なり、行き来していた。千夏は少し視線を遠くにずらした。次第に小さくなっていく建物群の先に、緩やかに蛇行した川が見えた。川は闇に溶け込み、深い藍色をしていた。


千夏は再び手前の大通りを見下ろした。盛んに行き来する車の走行音を聞きながら、千夏は叫んだ。あーとか、うーとか、言葉にはなっていなかった。とにかく体に溜まった不快成分を全部、吐き出してやった。そのとき、スマートフォンがコートのポケットの中でバイブした。メッセージの新着通知だった。


明日手伝って欲しいことがある、という正秋からの連絡だった。千夏は再びスマートフォンをポケットにしまいこむと、家に向かって歩き出した。

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