美穂の仲間
どんなに揺さぶっても起きない千絵に千夏は匙を投げ、アパートを飛び出した。住宅街を駆け抜け、川沿いの道に出た。頭上を暖かい太陽が照らすなか、トレーニングウェアを着て走っている年配の男性や、自転車で通行する小学生達と行き交った。道端の雑草は青々しい葉を広げてその恵みを目一杯受け、川面は光を反射させ、キラキラと輝いていた。
額からじんわり汗が出るのを感じた。普段から走らないから、膝が痛くなった。数日前にくじいた足首は、一旦回復していたのに、わずかに痛み始めた。それでも走るのをやめるわけにはいかなかった。そんな気持ちになれなかった。
千夏は脳内で叫び続ける。
要らない。要らない。こんな自分は要らない。デブで醜くて汚い。若くないし可愛くない。
春菜はいい。女の自分から見ても若いし可愛い。あの小悪魔じみた仕草も、少し鼻にかかった甘くて高い声も、つけている香水も、全部が全部、男が肯定するものばかりだ。春菜は自分が欲しいものを全部持ってる。
橋の近くまで来たところで、ついに千夏は走るのをやめた。暑くて喉が渇いて死にそうだった。河川敷の公園がすぐそばにあり、自販機が目にとまった。千夏はゆっくり歩きながら公園に入り、自販機で水を買った。すぐそばにある背もたれのないベンチに腰を下ろし、息を整えた。
「ちなっちゃん」
聞きなれた声がする。顔を上げると、目の前にTシャツと短パン姿の美穂が立っている。
「美穂さん」
そう言いながら、千夏は背もたれに寄りかかり、息が整うのを待つ。
「どうしたのー。珍しい。走ってきたの」
美穂に差し出されたタオルを手にとり、千夏は思わず涙ぐむ。走るのが苦しいからじゃない。膝が痛いからでもない。
「はい」
千夏は顔の汗をぬぐうふりをして、こっそり涙もぬぐう。この人はどうしていつもこんなふうに優しいのか。女神か。そうだ、女神に違いない。千夏は顔からタオルをどける。美穂が優しく微笑んでくる。
「ねえ、会社じゃ全然、話せないよね。何があったの」
美穂に心配そうに聞かれて、千夏は涙ながらに話し始めた。三年前に会った冬馬のこと。その冬馬が中途入社してきたこと。冬馬は他の女子社員が気になっているらしいこと。その女子社員はとても美人で、とても勝負にならなそうなこと。さらに、千絵が乗り込んできて、その醜さに幻滅したこと。自分自身も醜い怪獣に思えてショックを受けたこと。
美穂は黙って聞いていた。ときどき相槌を打ったり、ちょっと質問を入れてきたりして、寄り添いながら聞いてくれた。千夏が話し終えると、美穂はゆっくり数回、頷いた。それから美穂が、うちのダンスサークルが向こうで練習しているからと、少し強引に千夏の手を引いた。千夏は涙を拭いて立ち上がり、ついていった。
河川敷の公園には自販機とトイレと水道があって、だだっ広いだけで何もなかった。ただ、住民たちから愛されているらしく、大勢の人間がスポーツに興じ、休日を謳歌していた。その一角に、ダンスの練習に励む一団がいた。全員女性だが、見たところ世代はバラバラだ。どうやら美穂がリーダーらしく、メンバー達に指示を送っていた。千夏はそばのベンチに座り、漫然とそれを見学することにした。
練習が一区切りしたらしく、美穂がメンバー達とともに千夏の元へ歩み寄った。
「ねー、どうだった」
美穂が爽快な笑顔で尋ねる。千夏も笑顔を返し、拍手を送る。
「皆さん、かっこよかったです。プロのダンサーみたいでした」
「ありがとう、アマチュアだけどね。七月のサマーフェスティバルに出場するんだ」
サマーフェスティバルというのは区が主催する夏祭りかと、千夏は記憶を頼りに思い出す。メンバー達は千夏を見て軽く頭を下げる。
「ね。これからランチに行くの。ちなっちゃんも一緒に行こうよ」
美穂が明るく誘うと、他のメンバーも是非、と愛想よく千夏に笑顔を向けてくる。
「でも…」
千夏は気後れして遠慮する。
「さっきの話。女同士で、ざっくばらんに話そうよ」
美穂は明るい太陽の光を瞳にたたえ、嫌味なく笑う。母のように、姉のように、優しく千夏の背中を叩く。
「そうだよ。ガールズトークしましょ。グワハハハハ」
そう言って豪放に笑うのは、最年長らしい七十代くらいの女性だ。
「はい」
千夏は急に勇気づけられ、誘いに乗ることにした。




