怪獣
千夏の声に、千絵は顔を上げた。
「千夏ー。きちゃったー」
千絵は立ち上がって両腕を伸ばし、ドスドスと音を立てながら、こちらに歩み寄ってくる。千夏は動揺を隠さず、身構える。そのまま抱きしめられてしまう。
千絵の腕の中で、千夏は過去を思い出した。
千絵は千夏の双子の姉だ。二人は関東近郊の田舎町に生まれ、豊かな自然のなか、のびのびと育った。一卵性の双子だったこともあり、二人ともそっくりだった。当時は両親ですら二人をよく間違えた。二人で面白がって、お互いのフリをして周囲を驚かせてからかい、遊んだことは何度もあった。二人は仲が良かったし、可愛い双子だと近所の大人達にもたっぷり可愛がられた。二人でアイドルになろうという計画まであった。結婚しても互いに隣の家に住もうと約束すらした。二人はいつも一緒で、最強のコンビだった。
二人は同じ高校に進学し、千夏は一人の先輩に恋をした。先輩は二個上でサッカー部に所属していた。その頃には二人ともじわじわ太り出し、自信が持てないながらも千夏は千絵に相談した。千絵はその恋を応援してくれた。千夏が告白することを決意すると、千絵は頑張ってと言い、告白場所の校舎裏にも、直前までついてきてくれた。千夏は先輩を呼び出し、告白した。あえなく玉砕した。
失恋して自宅の部屋に閉じこり、ベッドに寝転がって泣いていると、千絵が慰めにきた。辛いねと言って、一緒になって泣いた。千夏はうん、辛いと言ってますます泣いた。どうしたら忘れられるかなと千夏が尋ねると、無理して忘れようとしなくていいんじゃないと千絵が言った。千夏は頷き、また泣いた。千絵は千夏を抱きしめた。
なのに、千絵は裏切った。千絵と先輩は密かに付き合いだしていた。しかもそれを千夏が知ったのは、千絵が妊娠五ヶ月のときだった。まだ高校三年生だった。
千絵はおよそ二年間、付き合っていたことを千夏に隠し続けていた。千絵と先輩は双方の両親に激怒されたようだが、入籍することで最終的には許された。千夏にとって義兄となった先輩は、千夏の実家のそばにアパートを借り、働きながら千絵を養い続けた。義兄が両親に義理の息子として次第に受け入れられ、家族仲が良くなっていくに従い、千夏は家族達と疎遠になっていった。千絵が長女を出産した時、千夏はすでに東京で一人暮らししながら大学へ通っていたから、帰省することもほとんどなかった。千絵とも先輩とも、それを受け入れた両親とも顔を合わせたくなかった。生まれた姪も見たくなかった。
千夏はどうしても許せなかった。先輩への未練はないが、千絵が自分を裏切ったことが許せなかった。その思いは三十二歳になっても、成仏できずにいた。一言でいいから、ごめんね、が欲しかった。
千夏は千絵の腕をゆっくりふりほどき、玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込む。
「きったない部屋」
千絵は千夏の部屋を見るなり、笑い袋のように勢いよく笑う。靴を脱ぐと、遠慮する様子もなくずかずかと上がり込む。千夏は酔いが回っていたこともあり、玄関ドアに寄りかかる。千絵の姿を、まるでコンサートホールの観客席から見るように傍観する。
千絵は早口でまくし立てている。どうやら旦那とケンカして家を飛び出してきたらしい。子どもはもう中学一年生女子と小学五年生男子で、手はかからないから問題ないという。私は妻としても母としても必要とされてない、誰からも必要とされていないんだと言って笑う。笑いながら、涙が頬を伝っているのが見える。
千夏はその涙にまったく心が突き動かされない。ドアに寄りかかっているのに疲れ、靴を脱いで上がる。洗濯カゴを漁り、焦茶色の上下スウェットを取り出す。
「ほら、これに着替えなよ」
千夏がスウェットを差し出すと、千絵は頷きながら受け取る。千夏は再びカゴを漁る。まったく同じ焦茶色の上下スウェットを取り出し、自分もそれに着替える。それから床にしゃがみ込んだ。
酒臭いとか、自分ばかり飲んでてずるいとか、ベッドに座り込んだ千絵が何かわめいているが、だんだん何を言っているのか分からなくなってきた。千絵の声が遠ざかり、瞼が重くなる。視界が狭く、横長になる。それから、何も分からなくなった。
数時間後、千夏は目を覚ました。
顔だけ少し上げると、カーテンの隙間から窓の外が開け白んでいるのが見える。どうやら床で突っ伏していたらしい。上体を起こすと、頭が酷く痛む。ひどい二日酔いで、千夏はフラフラしながらベッドを見る。
ベッドでは千絵が寝ている。千夏はベッドに近づき、その姿を見下ろす。千絵は横向きになり、お腹の辺りに布団をかけ、眠りを貪っている。そのスウェットのトレーナーとズボンの隙間から、脇腹の肉が不格好にはみ出ているのが見える。
こうして改めて見ると、酷く醜い生き物だなと千夏は思う。太っているし、顔はむくんでいるし、女として魅力的な要素が一つもない。豪快なイビキもかいていて、焦茶色のヒグマというか、怪獣みたいだ。旦那に相手にされなくて当然だと、千夏は冷めた目で見る。
ふと、すぐそばにある全身鏡が目にとまる。焦茶色のスウェットを着込んだ自分の姿が映っている。千夏は目を疑う。今、目の前で寝ているスウェット姿の千絵と、鏡に映っているスウェット姿の自分はほぼ大差ない。というより、そっくりだ。鏡を見るまでは、千絵の方が幾分、太っているように見え、体重にして六十五キロくらいだと思ったのだ。
ここ数年、会った回数は数えるほどだったから、千絵もストレスで太ったのだろうと思っていた。でも、違う。千絵だけが太り、醜くなったわけじゃない。まるでシンクロするように、自分も太り、醜くなっていたらしい。離れて暮らしていても、二人は一卵性双生児であることを証明するかのように、そっくりのまま歳を重ねていたのだ。
急に、醜いのはベッドの上の怪獣だけでなく、鏡に映る怪獣も同じだと千夏は気づく。寒気がして、血が凍る思いがした。鳥肌も立った。それは自分自身だ。この怪獣は、着ぐるみだろうか。どこか、背中あたりにファスナーはないのか。これを脱いで、元の自分に戻ることはできないのか。無駄だと分かっているのに、千夏は鏡を凝視し、あちこち引っ張ってはファスナーを探すのをやめられない。頭を横に何度も振ると、今度は視界に千絵が入った。
「起きて」
千夏はパニックを起こしかけていたが、努めて深呼吸をし、低い声で言う。千絵は、ンーと唸って寝返りを打つ。乱れた髪が汚らしく顔に張りついている。その唸りよう、寝返るさまがひときわ、醜かった。
女ではない。人間でもない。ヒグマでもないし、怪獣だ。寒気に拍車がかかる。抑えがたい怒り、耐え難い拒絶感が湧いてくる。
「起きて。お願い」
千夏は語気を強め、激しく千絵の両肩を揺さぶり続けた。




