06 終劇
昭和十三年晩秋の候、あの事件の半年後。
私は夕暮れ、神戸市にあるパリハート貿易社の社長室ベランダで向かいの神戸オリエンタルホテルから出てくる白い制服姿のドイツの少年たちを、熱狂的に送り出す群衆を見下ろしていた。
パリハート貿易社は、欧州向けに皮革製品の輸出を行う貿易商社だったが、実態は陸軍省憲兵隊防諜班が所有する民間企業に偽装した活動拠点である。
「遅かったじゃないか」
「本物の少佐は、あんたより人使いが荒くてしゃあないわ」
「あの人を内地に召還したのは、君の上司じゃないか。でも正直なところ、彼は新京に残ってドンパチに付合う人ではなかっただろう。私の尻拭いが、黒羽武を穴蔵から外洋に引き摺り出したと思えば満更でもない」
「参謀本部が英国通の政信議員に纏わる事件の隠蔽に協力する代わりに、手駒だった兼久の犯行を伏せた。しかし痛み分けとはならず、犯行を事前に予見できた黒羽少佐を罷免して内地に戻す……どこまでが、あんたの思惑通りだった?」
「私と君は、そもそも敵ではない。関東軍は欧州やロシアを牽制するために英国の後ろ盾を重視していたが、今となっては主情的なものの見方を捨てるべきだと考えた。全ては結果論だがね」
目深に被ったイタリア製の帽子を脱いだ私は、ベランダに出てきた背広の男にワイングラスを手渡すと、ハーケンクロイツと日章旗を両手に振る群衆に視線を戻した。
九十日間の訪日を終えたナチスユーゲントの少年たちが、神戸港から故郷に向けて出立する。
アメリカ主導で調印された四カ国条約が、我が国の太平洋方面の進出と日英同盟の破棄を狙ったものが明らかであり、海を挟んで利権を奪い合う米国との条約は、親米派だった政治家の後押しが裏目にでた格好だ。
国際連盟で人種差別撤廃を提案した日本が、アジア地域での植民地政策を進めていた英国と角を突き合わせた結果、日米英仏の交戦協議を前提にした四カ国条約を有名無実化させている。
そして我が国の盟友が『シオン賢者の議定書』なんて偽書を論拠にして、人種差別を正当化するカルト集団に成り代わったとは笑えない冗談だ。
「日露戦争では、英国との戦争を嫌った欧州各国が参戦しなかったことで勝利した。それに英国が欧州でバルチック艦隊を足止めしていなければ、日本海海戦だって勝てたかどうか――。我々は日英同盟の恩恵でロシアから関東州の租借権を取り上げたにも拘らず、軍部は英国を軽視していたと思わないかい」
「どうですかね。アメリカ主導の四カ国条約が日英の離間工作なのは見え透いていましたが、日本が欧州方面の牽制にドイツやイタリアとつるんだのは、それこそ結果論でしょう。けどね、こうしてナチスユーゲントに熱狂する大衆を見れば、この流れは止められませんぜ」
卵が先か鶏が先か。
軍部の扇動で異国の少年たちを歓待している大衆は、既に自分たちが悪縁の旗を降ることに疑うこともなく、いずれ取り返しのつかない事態に飲み込まれる。
政治家に大衆迎合主義が蔓延すれば、軍部はますます暴走するだろう。
戦争に正義なんてものはないが、それでも大義名分は必要だった。
白人至上主義からアジアの解放がおためごかしでも、大義を失った我が国が、慢心のツケを払うときは近いと思う。
「大衆は残光の中、これが夜明けと浮かれているが、これから訪れるのは長い夜である。これが宵闇だと知る者は、いずれ来る夜明けに備えよ……か」
「誰の言葉です?」
「中華民国に宥和的な陸軍関係者が、記者との対談で語った一節だよ。こいつは反米思想の強い関東軍の兵隊で共産主義者と目されているのだが、なかなか尻尾が掴めないんだ」
「ここに来ますかね」
「いいや、そんな陸軍関係者が実在するのかも疑わしい。反戦記者が捏造した架空の兵隊だと、もっぱらの噂だ」
「この界隈にいると、何が真実なのかわからねぇや」
かつて高平家の運転助手を名乗った彼は、手酌でワインをグラスに注ぐと、私の横に並んで路地の暗がりに目を細めた。
目下の任務は、過激思想の反戦活動家から日独親善を象徴する白い制服を着たナチスユーゲントの彼らを守り、無事に日本を立ち去るのを見送ることである。
そして彼らが旅客船に乗船するのを確認した私は、ベランダの柵に背中を預けると、香りだけを楽しんでいたワインに口をつけた。
任務は一先ず終了した。
「そう言えば、高平和政が父親の政治秘書についたらしい。華族会の噂では長男の世襲工作も始まっているし、あんたの言ってたとおりの展開になってきたな」
ワインを一気に飲み干した彼は、私の鼻頭を指差して真顔になる。
「あんたには、どうして長男の和政が飯田良夫に強請られていたとわかったんです?」
「節子夫人の行動原理を考えれば、全てが長男の和政のため犯行だったとわかる。彼女は、自分を二の次にして家族に尽くしていたのだから、良夫の殺害だって息子のための犯行だ。良夫の計画に従っていた和政だが、それが本意ではなかったのは明らかだよ」
「子供たちのために命まで投げ出した母親が、息子の意に反して政治家にしようとは思わんね。俺は和政が本気で商人を目指していると思っていたが、言われてみれば、そもそも裏社会と繋がりのある良夫に師事する必要もない」
二人の娘たちには『自由に生きてほしい』と言った母親が、息子に限っては世襲議員の道を歩ませるのか。
矛盾なく考えれば、良夫殺害も息子のためだと推理できる。
良夫がトライデント城を購入するために、高平家の嫡男の弱味を握り強請っていた。
彼は醜聞を嫌う政信の息子である。
容易に想像できた。
「ああ、政信氏は夫人が政治家を嫌っていると言っていれば、貴子が亡くなった十年前の事故も『兼久さんに死んでいただきたかった』と、心情を吐露している。それに夫人は、朱美が夫の三徳に虐げられている事実も知っていた。政治家の男を嫌っていた夫人が、息子を政治家にしたいと考えるわけがない。夫人は死を覚悟して服毒した後、長女の恵子に詫びているが、息子の名前を一度も口にしなかった」
「節子は和政の願いを叶えて死んでやるんだから、長男に詫びる必要がなかった……あんたは、それで節子のために汚れ役を買ってでたのか?」
私は首を横に振って『和政の醜聞は、この先にも利用価値がある』と嘯いたものの、節子の強い想いに当てられたのが本音だろう。
親の愛情を知らない私は、子供のために身を呈する母親を不憫に思った。
和政は事件が起きる度に、判で押したように妹たちの部屋を訪ねてアリバイを確保しており、事件には第三者として無関心を装っている。
第一の犯行では恵子の部屋に、第二の犯行では彩子の部屋に、まるで自分は無関係だと宣伝して歩いていた。
彼は自分のために人殺しを続ける母親を見ても、それが当然だとして、何の感情もわかなかったのだろう。
息子のために台本を書き上げた母親は、それに従って犯行を成し遂げたにも拘らず、息子が本性を知らぬままに、ただ身を削って子供に愛情を注ぎ込んだ。
そんな彼女に同情したのは、私の偽らざる気持ちだ。
「事件は、和政の窮状を見兼ねた節子が勝手に計画したのか、それとも妾腹の息子の存在や良夫に弱味を握られていた息子が、母親に泣きついたんですかね。まあ知っていて恍けてやがったんだから、そこは聞くまでもねぇか」
彼は旅客船からテープを投げる若者と、それを見送る群衆を交互に指差して『ドイツもこいつも甘ったれてやがる』と、自分で言った冗談を鼻で笑った。
笑い終えた彼は『政信が、節子の偽装工作に手を貸した理由を聞かせろよぉ』と、私の肩に手をかける。
馴れ馴れしいのは、この男の性分なのだろう。
「政信氏は署長が搬送されると、殺害現場に残される弾丸に意味があると知った。彼は、第一の犯行に【嫉妬の弾丸】が用いられたことで妻の犯行を疑った。事件が政局絡みならば、政信と兼久には互いに嫉妬の感情がないのだから、そこで十年前の事故に思い当たったのだろう。では十年前の出来事、彼らが貴子を巡って互いに嫉妬していたと知る人間は? 兼久と貞治が退場しているのだから、妻の節子しかいないと考えた」
「ああ、それで節子は残りの弾丸と口紅のついたティーカップを用意して、榊原夫妻を犯人役に仕立てたというのに――」
「政信は玄関ホールの弾丸を隠して、犯行発覚後に優馬が自殺したように偽装した。節子が恵子のためを思うならば、優馬に濡れ衣を着せるつもりはなかったのに、余計なことをして捜査を混乱させた」
「先輩は、どうやって政信の口を割らせたんだ。後学のたに教えてくれよ」
私は『あれは――』と、胸ポケットのハンカチーフを少し引き出して、真犯人が彼を殺そうとする証拠だと、務室で取出した薬包紙に見立てた。
「政信氏に『あなたの胸の痛みは、食事に盛られているコレのせいです』と脅してやると、簡単に口を割ってくれたよ」
「胸を患っていた政信は、それを身内に盛られた毒のせいだと勘違いしたわけだ。だから妻が亡くなったと聞かされても、あんたの指示に大人しく従った。あんた、夫婦仲を壊すことには遠慮がないんだな」
「政信氏が妻の犯行を偽装したのが、妻への愛だったなら、そうかもしれないね」
「なあ、なんで節子は、あんたを彩子の許嫁として祝宴に呼びつけた? 切れ者と評判だった黒羽少佐を舞台に上げれば、犯行を見破られる危険があったじゃねぇか」
「夫人の胸中まではわからないが、政治家と縁遠い男に嫁がせたかった」
私は節子に『貴方は娘を守ると約束した』と、真剣な顔で詰め寄られた夜のことを思い出す。
次女の彩子には、身勝手に振舞う政治家より国を守る軍人と引き合わせたかったのかもしれない。
「節子が黒羽少佐を呼びつけた理由が、じつは犯行を止めてもらいたかったとするとだなぁ。少佐の代役は、あんたじゃあ荷が重かったってわけだ」
私は苦笑いで応えると、帽子を被り直して室内に戻ろうとした。
旅客船が出港していれば、私に与えられた次の任務は、先ほど彼に聞かせた共産主義に傾倒する陸軍関係者の洗い出しである。
「あの事件は、不如帰に托卵された鶯の所業だった。私なんかが、彼女を止められるはずがない」
「鶯の所業? つまり事件の発端は、当主の政信が貴子に産ませた妾腹の息子が、節子の城だった高平家に近付いたってことか」
私は深く息を吐いてから、帽子のつばを引いて目深に被る。
同僚となった彼は黙ったまま、ベランダで雑踏する街を背負っていた。
夜が始まったばかりであれば、夜明けに備えてどうするか、彼と酒を酌み交わすのも悪くないと思い顎をしゃくる。
「なあ、どうなんだよ」
彼は、私の心象が気になる様子だ。
あの事件の発端が不如帰に愛情を注いた鶯の所業であれば、高平家で孵化した不如帰は次期当主の和政だった。




