表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鶯の抵抗  作者: 梔虚月
PR
28/29

05 鶯の抵抗

「気休めかもしれませんが、附子は古来から解熱剤や鎮痛剤にも用いられてきました。苦しいのはいっとき――」

 鶯色の着物を着ている節子は、胸を突き出すように大きく跳ね上がると、痙攣しながらソファから転げ落ちた。

 強心作用を引き起こすアコニチンを服毒すれば、痙攣や呼吸困難を伴う心臓発作により数分で死に至る。

 これが自作自演であれば、致命傷とならぬ適量を服毒したと思われたが、優馬の処方だとすれば、毒を適量に手加減していたのだろうか。

 夫人は優馬に騙されたのか。

 いいや、私の腕を掴んで離さない彼女は、それが死に至ると覚悟して毒を飲んだに違いない。

「少佐……私には、そうした相手がいなかったから、夫や娘たちの色恋に憧れも嫉妬もあったわ……私には誰もいなかったから、せめて家族のために――」

「署長の貞治は貴女の犯行を目の当たりにしても口にせず、優馬くんの死は政信氏が偽装しています。兼久だって、貴女を信じて片棒を担いだのではありませんか」

「違うわ……あの人たちは、自分のことばかり……私が、どんな人間なのか見ていなかったのよ」

 節子は駆け寄った私が問いかけると、袖を強く引いて縋るような目で呟いた。

 良夫殺しのアリバイを偽証した貞治は、夫人に殺されかけているものの、事実を口にすれば犯人隠避罪に問われるので口を噤む。

 政信は前夜、署長が【暴食の弾丸】に裁かれたのを知って、真犯人が兼久に渡した【嫉妬の弾丸】の意味が理解できたから、妻の犯行だと見抜いていた。

 だから夫は玄関ホールで【怠惰の弾丸】を見つけたとき、天井に吊られた優馬を妻が殺したと勘付いて隠匿すると、私と岩壁が応接室に駆け付けるのを待ってから弾丸を元の位置に戻している。

 優馬と節子の殺された順番を偽装することで、自作自演で倒れた妻のアリバイを作っているが、偽装の訳合いが妻への愛情ではないのは、ちょっと脅せば口を割ったことから明らかだ。

 私怨で拳銃を構えた兼久だって、同情で手を貸していなければ、自分の復讐に夫人を利用したに過ぎない。

 傍観者を気取って夫人の犯行を止めなかった優馬も、貴族の令嬢だった恵子を本当に愛していたのか疑わしいだろう。

 節子を取巻いた男たちは、自分の都合だけを考えて、誰も彼女のことを見ようとしなかった。

「私は両親の顔すら覚えてなければ、親の愛なんてもの信じていない。いいや、愛なんてものは、そもそも信じるに値すると考えたことがない。それでも貴女が、夫に、息子に、娘たちに近付く身勝手な連中から、家族を必死に守る姿に『愛』の片鱗を垣間見た気がしている」

「少佐は優しい……わ、でもこんな醜い女は、いっそ死んでしまえば良いのです」

「兼久は夫の政信氏の失脚を願っていたし、良夫は長男の和政くんに詐欺の片棒を担がせて、署長は自らの保身に走ったに過ぎない。それに貴女は、優馬が恵子さんを幸せにできないと考えて殺したのでしょう? 貴女が誰のために、こんな事件を起こしたのか考えれば、この事件が、不如帰の托卵から巣を守る鶯の所業とわかる」

 私が覚えている一番古い記憶は、銃弾が飛び交う戦場で、私の手を握って草地を走る人民服の男が、後頭部を撃ち抜かれて死ぬところだった。

 そいつが誰かわからなければ、なぜ私を連れていたのかもわからない、ただ私と手を繋いだ男が死んだ。

 そして銃弾が頭上を飛び交う中、次に現れた黒羽家の家長が馬上に引き上げてくれたので、私は死屍累累の戦場で生き残ったが、そこに生死を分かつ訳合いなんてなかった。

 あれから戦場で死線をくぐり抜けた私は、銃口を向けた相手より、一瞬でも早く引き金を引いた者が生き残り、少しでも躊躇えば死ぬと学んだ。

 私が敵に先んじて引き金を引くのは生きるためであり、それが任務であるからだ。

 誰も私のために無償で引き金を引かなければ、家族のために引き金を引いた節子には、なぜそこまで家族に尽くしたのか問いたい。

 生きるためでもなく、まして任務ですらない。

 誰かのために死ぬ。

 私に家族がいないので、自死を選ぶ夫人の気持ちが理解できないのだろうか。

「きっと少佐にも、そのうちわかるときが――」

 節子に殺された彼らには、それに足るだけの罪があったのか問われれば、死に至る罪なんてものはなかっただろう。

 ただ美しく小さな鶯には殺されないと、高を括って巣に近付いて殺された。

 事件は、鶯の抵抗だった。

「警察は優馬が貴女より後に縊死したことで、この事件に纏わる事実に辿り着けません。貴女が昨晩、朱美の部屋に隠した拳銃と二発の弾丸も、首を吊った彼の仕業と思うでしょう。結果的には貴女の計画通りなのに、それでも誰かに愛されていないと死なねばなりませんか」

「恵子には……」

 節子の苦痛に歪んだ顔が刹那、口角を上げて微笑んで見えた。

 真犯人だった彼女は結局、誰のために犯行を重ねて、何を守って自ら命を絶つのだろう。

 それが愛だというのならば、諜報に生きる私の理解に遠く及ばない心理であり、不必要な感情のように思える。

 節子は苦悶に満ちた表情のままだったが、襟がはだるほど胸元を掻き毟っていた手が止まり、荒々しかった呼吸も静まった。

 夫人を抱きかかえた私は、ソファに寝かせて息を引き取ったのを確認すると、見開いている目を閉じてやった。

「全ては貴女の思惑通りになったのに、死んでしまうなんてナンセンスだ」

 日本は欧州大戦の終戦後、日本の覇権的な振舞いに警戒したアメリカの思惑により日英同盟が解消されていれば、与党にあって英国政府とパイプを持つ政信を失脚させるわけにいかなかった。

 政信が言うように、帝国議会が平時において戦時に必要な物資を備蓄する国家総動員法を制定したにも拘らず、大陸の北支那方面軍と中支那派遣軍は、参謀本部の意に背いて江蘇省の北西端・徐州でじょしゅうかいせんを開始している。

 近衛文麿首相が蒋介石の率いる国民政府がオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の和平案提示に応じないと、対中講和の交渉打ち切りの声明を発表したからだ。

「議会が国家総動員法を制定しているのだから、現内閣や参謀本部は作戦を停止して国力を蓄えたかったはずだ。それに徐州会戦は参謀本部の作戦課長が現地で説得していたが、現地軍が応じなかったばかりか、作戦課長は帰京後に詰め腹を切らされた――となれば、軍部の暴走は既に始まっているのだろう」

 遅きに失した感があるものの、英国との同盟が日本の安全保障に果たした役割を理解している政治家ならば、余人をもって替えがたいのは確かだ。

「大局観に立てば、必要なこともある――か」

 満州事変を首謀した参謀陣が画策した陰謀劇に、口を塞いだ上司の言葉を思い出した。

 関東軍憲兵隊の本分は、殺人事件の犯人を捕まえて警察に引渡すことではない。

 私は胸ポケットから薬包紙を取出すと、節子が飲み残したティーカップに青酸カリを注いで溶かした。

 事実を隠蔽するのならば最善で、これで恵子にも言い訳が立つだろう。


 ※ ※ ※


 玄関ホールには高平家の者が集まっており、そこから見えるエントランスでは警察車両に先着したダットサンセダンから降車した甚平が、岩壁から昨晩の事情を聞き出していた。

 私に近付いた政信が『妻はどうなった』と、声を潜めて聞くので首を横に振ると、夫人のためを思うならば、弾丸の偽装工作を警察に伏せておくように伝える。

 夫が妻のために玄関ホールの弾丸を取り上げたのか、それとも保身のために妻の犯行を偽装したのか、そんなことはわからない。

 しかし過去が変えられないのであれば、彼の弱みを握って手駒に加えれば良い。

 事実は変えられないが、真実はいくらでも塗り替えられる。

 事実は私の手中にあり、彼らは好きなように真実を騙れば良い。

「政信氏に、一つお願いがあります」

「なんだ?」

「内地の市警察に私の身分を調べられるのは、任務の性質上よろしくありません。私は帝都に戻りますが、車と運転助手の甚平くんを預けてもらえませんか」

「甚平を……わかった」

 政信は腑に落ちない顔だったが、それでも私の身分詐称が警察に追求されれば、自分も痛くない腹を探られるのだから、事件が決着していれば厄介払いしたいはずだ。

 私は部屋で荷物をまとめると、予定を前倒しに満州に帰ることにした。

「少佐は、いつ迎えにきてくれるの?」

 鞄を手にした私が客室の廊下に出たところで、彩子が壁に背もたれて聞いてきた。

「そうですね。満州あちらの戦況が落ち着いた頃、お迎えに参りましょう」

「それは、いつ頃なんですか」

「私には、この国のすうせいがわかりかねます。いつになるのかわからなければ、ここでお別れしましょう」

 彩子が突然、抱きついてきたので思わず背中に手を回したが、私のような偽者が想いに応えられるはずもなく、頭をひと撫ぜして距離を開けた。

「私は、少佐を――」

「その言葉は、別の誰かのために取っておくべきです。彩子さんはあのとき、この世界に鏡がなければ、自分の顔は自分だけが見られないと言いました。でも鏡に映らない心中は不確かで、私のことは誰にもわからないと思います」

 私が彩子の肩に置いた手を離せば、それ以上にかける言葉がなく、立ち尽くした彼女を残して玄関に向かう。

 甚平に目配せした私は岩壁と入れ違いに彼の前に立つと、顎をしゃくってダットサンセダンの運転席のドアを開ける。

「政信氏とは話をつけたから、甚平くんも車に乗りたまえ」

 私はハンドルを握ると屋敷を振返り、客室廊下の窓から見送る次女に頭を下げた。

「少佐、いったい何があったんだい」

「甚平くんも容疑者となれば、市警察が素性に探りを入れるだろう。君には悪いが、私の共犯者になってもらうよ」

「節子夫人が毒を飲まされて、犯人の優馬が首を吊って自殺したんだよな? 屋敷にいなかった俺が、警察に疑われる筋合いはねぇだろう」

 助手席に座った甚平は、岩壁から事件のあらましを聞いていたものの、事情を飲み込めない様子で聞いてきた。

 彼は署長の貞治から優馬が政信の隠し子だと聞き出したのか、縊死した青年が真犯人だと決めつけている。

 警察が青年の下宿先や大学を捜索すれば、暴発した拳銃による殺害方法やアコニチンの精製方法などを調べていた証拠も見つかり、彼が真犯人として被疑者死亡のまま書類送検されるだろう。

「それでも良かったが気が変わった。君の身分も使い捨てなら、この国のために一肌脱いでもらおうじゃないか」

「少佐が節子夫人を殺した――という静書きだと、アリバイのある俺が良夫を殺したってわけですか。先輩にしちゃあ、穴だらけの偽装工作ですねぇ」

「貴院議員絡みの事件なのだから、中央の憲兵隊が介入できるだろう。甚平くん、同業のよしみじゃないか」

 私と甚平のダットサンセダンは、警察車両がサイレンを鳴らして屋敷に向かう中、英国から移築されたトライデント城を遠ざかる。

 助手席に座る陸軍省の諜報員は、統制派の息がかかった貴院議員を失っているが、それが彼自身の私怨によるものとわかれば公にできず、外地の軍令憲兵の尻拭いに事件の隠蔽に手を貸さざるを得なくなった。

 この貸しは小さくなかった。

次回が最終話ですが、エピソード前に登場人物の紹介を追加しようかなと考えています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルファポリスのホラー・ミステリー大賞にエントリーしております。面白かったら、投票していただけると嬉しいです!
cont_access.php?citi_cont_id=228176209&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ