「あら。本物ですの」
「ひぃっ――」
アズサちゃんが短く悲鳴をあげる。しかしその声は、雪の足場が崩れ落ちる音に一瞬でかき消された。
僕の服をしがみつくように握るアズサちゃん。僕達を支えるものがなくなった瞬間に、離れてしまいそうになったアズサちゃんを、僕は口を紡いでもう一度抱えるように腕の内に入れた。
へその下からは内蔵がヒュウッと上がるようななんとも言えない感じがする。でもそれが、落下をしているんだろうって気に確かにさせていた。
気にさせていたと言うのは、崩れた時に、僕たちは霧に包まれたままで崖が何処まで続いているかも見えなかったからだ。
僕には母さんからもらったお守りがあるし、アズサちゃんも恐らく同じものを持っているだろう。ギガントベアの攻撃を受けた時、僕と姉ちゃん二人のお守りがほぼ同時に発動した。なら今回も同じように僕たちの身を守ってくれるはず。無傷とはいかなくてもなんとかなるかも知れない。
結構楽天的に僕が考えていたところで、僕の前で霧が裂けて突如視界が広がった。
「嘘だよね?」
僕の第一声は小さかった。アズサちゃんに聞いて欲しいわけでもない。誰かが聞いてくれているとも思ってはいない。それでも僕は誰かに嘘だと答えて欲しかった。
空――。それが霧を裂いた僕たちのいた場所。それは地面からはなおも遠いところだった。僕の到達地点であろう場所から、今の僕たちのいるところを見上げるとしたら、僕が霧と思っていたのは雲と認識を変える場所で合っているだろう。
「もうダメですの……」
アズサちゃんは呟いた。アズサちゃんは目を閉じながらも正しく認識しているんだろう。
諦めたのか、気を失ったのか、空の冷たさに力が入らないのか分からない。不意にアズサちゃんの力が抜けて僕から離れそうになった。
大丈夫だよ。
僕は言うより強く抱き寄せる。
本当は大丈夫なわけがない。突然空でも飛べない限りは。
落ちる影からは最も遠く、全身に光を浴びれる位置で、僕たちの希望は黒に塗りつぶされている。それでも僕は諦めたくない。
アズサちゃんの僕の服を握る手に少し力がこもる。
大丈夫だよ。
今度もそうは言わない。今もなお地面には、巨大な鯨に吸い込まれるように近くなって行っているのだから。
時間がない。
僕はアズサちゃんを抱き締めたままくるりと体を返して僕の体をアズサちゃんの真下に入れる。
僕は反り返りながら地面を睨みつけると、僕はアズサちゃん越しに両手に印を結んだ。
「法力解放」
シンと静かになる心。空を裂く空気の音も、アズサちゃんの「何を?」と言う問いかけも僕の法域が呑み込み静寂に紛れる。普段ならこのままで何もしないでいいけれど、今は落下するほどに僕の法域が削られていくような感覚を受ける。
たぶん全部削られると強制的に解けてしまうんだろうと思う。僕は必死に法域に充満する法力を、引き寄せて維持できるようにへその下に力を込める。
ほどなくして法域の安定を確認すると、次に僕は両手を繋いだままイメージをする。
緑。青。そして詠唱る
「水は膜。風を包み封じ込め」
前にパルさんが作った触っても割れなかった水の泡。あれを元にイメージを広げる。
もっとやわらかく。もっと頑丈に。
珠の大きさは指定しないし、繋いだままの手では確認もできない。でも僕のありったけを両手に込めた。
珠から僕の体ほどある水の泡が一つ、ビーンズ状に広がり僕たちを空中で待ち受ける。それに僕たちが受け止められると、ビーンズ状の泡は大きく湾曲しながら接触した僕達を包み込んだ。僕たちは少しずつ勢いを落としながら、泡の中央に向かってめり込んでいく。やがて泡の中央から底までめり込みながら到達すると泡は弾けた。
泡に接触してから割れるまでの瞬間は、文字通り泡沫と言える時間だったかもしれない。でも確かに、僕たちの速度はいくらか確実に遅くなった。だけど、それもこのままだと結果は変わらない。依然僕たちを一飲みにするには十二分な速度を保ったまま地面に吸い込まれて行く。
僕はもう一度同じ泡を出す。次はほんの少しだけ長持ちはしたものの同じように、耐えきれなくなるとすぐに弾ける。
「それは西魔術? でも……」
アズサちゃんの掠れる様な声が僕の耳をわずかにかすめる。
まだ――
僕はアズサちゃんの抱えたまま後ろ向きに落下する。
僕のポケットに入っていたお守りがわずかに動くのを感じる。
――来た。
僕はこの時を待っていた。
式紙が飛び出して僕の背中に向けて踊り出す。
【甲は――】
飛び出した式紙の無機質な声。
だけどそれが言葉を発するのを僕は許さない。とたんに僕は背面の式紙に法力を乱暴に叩き込む。
中断される声。その直後予想通り式紙は異常音を発し出す。
僕は西魔術を使うために組んでいた両手を離すと、アズサちゃんの頭を抱え込んで抱きしめた。
後ろを向いていても眩しいと思える閃光が走る。僕たちから空に向かって影の帯が伸びた。
【甲は乙の願いにより丁を守る盾】
その影から飛び出したのは恐らくアズサちゃんのお守り。
フルパワーの喜樹のお守りの暴走は僕たちの落下速度を激しく相殺させる。それにはすごい力がかかっているのだろうからか、アズサちゃんの持っていた華樹のお守りが僕たちを守ってくれていた。
だけど、それも間もなくして陶器の割れるような高い音を発して破れた。
今度は僕の防御なしの背中に暴走した力が襲いかかる。
「がはっ」
それは背中を思いっきり叩きつけられたような衝撃だった。肺に入っていた息が勝手に全部吐き出される。背中の皮が全部剥がれたんじゃないかとも錯覚させる力は、僕たちの落下を相殺する力を超えて浮かび上がらせた。
その力で僕たちはわずかに錐揉みするように抱き合いながら回転する。ちらりと見えた地面は決して低いとは言えない高さだったが打ちどころが悪くない限りは大丈夫かとも思えた。
最後の正念場。うまく受け身を取らなきゃ。
だけどそこで、アズサちゃんが僕から離れて行くのを感じた。
違う。もう僕の腕に力が入っていないだけだった。
やれる事はやった。後は運任せかな……
僕は目を閉じて全身の力を抜いた――
その時、誰かが僕の服を掴むと引き寄せた。僕は薄眼を開いて見ると、それはアズサちゃんだった。
「法力開放」
アズサちゃんが印を結ばずにそのまま法力開放する。
「印を結ばなくても法力開放する事が出来るんだ――」
力を使いきって今の状況をどこか他人事のように感じてしまっていた僕は、アズサちゃんを見てのんきな感想を述べた。
すごいなぁ、アズサちゃんは――
僕がそう続けようとした先にアズサちゃんの口が開く。
「甲は壁。脅威を防ぐ盾」
凛と鈴のような声で紡がれる式。無機質な声じゃない。式を唱えるのはアズサちゃんの声だった。
僕は何の間違いだろうと目を見開いた。
アズサちゃんの流れる二房の髪が一瞬強く青白く光る。そして次の瞬間に、弾け、散る。
束ねる者のなくなったリボンは空中を途切れた髪と泳いだ。
「――何?」
僕が息を飲みながら声にすると、切れた髪を散らし、ショートヘアーになったアズサちゃんが閉じていた目を薄く開いて微笑む。
緑色の信を灯す右の目と、緑色の光を零す左の目。アズサちゃんのその両方が僕の目を覗きこむ。
「今度は私の番ですの」
そう言うと目を閉じて僕の胸に顔をうずめるように強く抱きついてくる。
どういう事だろう。
僕は把握できないままでいると、やがて弾け散ったアズサちゃんの青白く光る髪が動き出した。
加速しだす髪はそれぞれ青白い閃光となって、僕の背の方に行くと格子状に並んで僕たちを包んだ。
「ぐっ……」
直後に何かにぶつかるような感触を背中に感じると、反動で僕とアズサちゃんは投げ出された。
着地の衝撃で粉となった雪が舞い上がる。それと一緒に青白い閃光の格子は、役目を終えたように解けながら虚空に消えたのだった。
◇◆◇
投げ出された僕は雪の上で仰向けになる。
たぶん、僕たちが居たであろう場所からは、空で分裂しながら大きいものは真っすぐに。小さいものはひらひらと回りながら今も少しずつ落ちてくる。
体中が痛い。それも背中がヒリヒリする。特にギガントベアの残した傷痕に至っては焼けるような疼きも感じた。
力が入らない。これが魔力切れで腰が抜けるってのはこれの事なんだろうか。もしかしたら法力も切れてるからかもしれない。今はもう何もやる事が出来ない気がする。
そう思うと途端に不安感が襲ってくる。
「姉ちゃん……」
空を見上げながら姉ちゃんの顔を思い出す。じんわりと目頭が熱くなってきた。
「――カイト」
誰かが僕を呼ぶ声がした。
姉ちゃんの幻? 一瞬そう思ったけど、僕はすぐに考え直す。アズサちゃんが居るはずだ。
僕は目をギュッと閉じる。まだ泣いてる場合じゃない。腰から下は全く力が入らないものの、上半身に力を入れて起き上がる。
周りを見渡す。
「……うっ」
声の呻いた方を見ると、すぐにアズサちゃんを見つける事が出来た。まだちゃんと気が付いてはいないのか、アズサちゃんは雪の中で横向きに横たわっていた。
僕はすぐに立ち上がって駆け寄ろうとする。だけど腰に力の入らない僕は上半身だけ先行して前のめりに顔から倒れる。
「……冷たい」
派手に倒れた僕の形は、お尻をあげながら顔から雪に突っ込む姿勢。はたからみたらひどい姿勢なんだろうなと思いながらごちってみるものの、顔をあげる気力もいまいち湧かない。
うー。力が回復するまで僕も動けないか……
――あっ! そういえば僕にはもう一つのお守りがあるんだった。
ある事を思いだすと僕は勢いよく体を起こして、母さんのくれた喜樹のお守りが入ってた袋とは違うもうひとつ別の袋を取り出す。
これはドライ先生がくれたものだ。確か魔力とか法力が回復するって言ってたはず。
袋を開けると、中には簡素な作りの蓋つきの丸い器が紐で閉じられて入っていた。よく今ので割れなかったなぁと思って紐を解いて蓋を開けてみる。中には黒く丸めた粒々がところせましとたくさん入っていた。
鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。……臭いとは言わないけど、間違ってもおいしそうって言葉は浮かばない。
……僕はそっと蓋を閉じた。
だって、あからさまに苦そうなんだもの。少し待ったら魔力か法力か回復してるよねっ。
……僕はため息をつく。
そう思うものの。やっぱりアズサちゃんも心配だし。あんまりジッとしているのも寒い。
僕は再び蓋を開ける。相変わらず黒く丸まった粒々が憎らしい。
同じ丸いやつでもダンゴムシなら可愛いのに――。そうだっ! ダンゴムシだって思って食べ……。
よけい無理だよっ!
僕は自分でつっこみながら悶々とする。しかしこのままでは埒があかないと、意を決して丸い粒を一粒とって口に含む。
「――まーっ! んーっ! んーっ!」
まぁぁずぅぅいぃぃ。
そう言いそうになる僕は自分ですぐに口を手で押さえる。
口を開けば吐き出してしまいそうだ。
口の中で広がるのは、舌を麻痺させようとせんばかりの苦味。そこら辺に生えてる葉っぱを丹念に噛み砕いたような野生の苦味と、焼け焦げた食べ物の苦味を同居させた結果、更なる高みへと上り詰めたような感じだ。
わざわざ苦くするように作ったんじゃないかと思いながら、僕の意識はさっさと飲み下せと命令する。しかし、舌が、喉が、腹が、それを全力で追い返せと拒絶する。
やっぱりこれ食べたらダメなものじゃないかななんて思いがよぎりながらもなんとか飲み込んだ。
すると、お腹の中から暖まるような感覚が徐々に体の末端に広がっていく。同時になんだかやる気もわいてくる。
効果は確かにあるみたいだ。いける。
僕はそう確信して立ち上がる。先程までとはうってかわってあっさり立てた。
そのままアズサちゃんの方へ向かうと、アズサちゃんを覗き込むようにしゃがんだ。
「アズサちゃん。アズサちゃん」
「……うー、カイト?」
僕が声をかけるとアズサちゃんのまぶたが一瞬動く。僕は慌ててアズサちゃんのまぶたを手で押さえた。
「なっ? なんですの? 」
アズサちゃんが混乱しながら僕の手を剥がそうとした。
「目を開いちゃダメだよ」
「何を言って? ――あっ」
アズサちゃんの抵抗がほどなくして収まる。
「夢じゃありませんのね」
「……うん」
「カイト。もう大丈夫ですの」
「そっか」
僕はアズサちゃんから手を離す。アズサちゃんは目を閉じたまま上体を起こす。
「どうやら法力切れみたいですの。しばらく立ち上がれませんの」
「やっぱりあれも東法術だったんだ?」
「ええ。……むしろ原点と言ったところですの。普段は東紙が身代わりになってくれているだけ――」
アズサちゃんは解説してくれながら両手で自分の髪の毛を触る。正確には髪の毛のあった場所。そこはアズサちゃんのツインテールのあった場所だ。
いつもは解説してくれる時はどこか嬉しげだったけど、さすがに今回は悲しげだ。
アズサちゃんが大きくため息を打つ。
「ショッ、ショートヘアも可愛いよっ!」
僕は苦し紛れに声をかける。アズサちゃんは目を閉じながら僕の方に一度顔を向けると、興味なさげに顔をそらす。
「カイトが言うように私はどのようなヘアースタイルだったとしても、可愛く、可憐で、麗しく、華やいでいるのは当然として」
「あれ? 僕そんなに言ったかな?」
「カイトの貧相なボキャブラリーの中に、それくらいの意味が封じられているのは千里眼を持ってしなくてもお見通しですの」
「そ、そっか」
苦笑いする僕。アズサちゃん、そんなにへこんでないのかな?
「私は髪を解けば法力解放したソーラお姉さまとお揃いになるくらいの長さがありましたのよ? それが無くなったことに嘆息していますの。――ま、それはそれとして」
アズサちゃんは左手で左目を抑えながら僕の方を向き直す。
「カイト」
右目を開きながら右手を僕の顔へ伸ばしてくる。
アズサちゃんの真剣な眼差しに縛られた僕は微動だにする事さえ許されず、その右手に僕の頬が捕らわれ――
「いででででで」
「あら。本物ですの」
「本物って何さっ! ちゃんと僕だよっ!」
思いっきり僕の頬をつねるアズサちゃん。僕は振り払いながら抗議すると、アズサちゃんは口元を押さえてころころ笑いだした。
「ふふふ。おばけだったらどうしようかと思いましたの」
「もうっ! 大丈夫だよ。アズサちゃんの東法術がすごかったから」
「東紙を介さずに直接使う分、力のロスがありませんの。対価の分だけ力以上の効果も望めますし」
「……そうなんだ」
対価とはアズサちゃんの髪の事だ。雪のように白くて、光の当たり具合によっては銀色の煌めきを見せる艶のある髪。ツインテールだった頃はそれをほどけば腰よりも下まであったのに、それが今では肩にかかるほどもない。僕と変わらないくらいで、男の子くらいしかなかった。
「そうなんですの。――それにしても、カイト。あなたあそこから私の方まで来たんですのよね?」
アズサちゃんは僕の足跡をさかのぼって指をさす。
「うん。そうだよ」
「東紙の――ましてや、喜樹の東紙の暴走なんかさせたら、私でも法力根こそぎ持って行かれますのにあなた良く立てましたのね。――あれ? カイトには魔力があるからですの?」
「いや。たぶんどっちもスッカラカンだったよ。でもこれを食べたからすぐ回復したんだと思う」
アズサちゃんにドライ先生からもらった丸薬の入った器をを、蓋を開けて見せる。
「へー。見た感じ、色艶が前にお父様が下さったチョコレイトって言うのに似ていますの。……私にも下さる?」
「え? でもこれすごく――」
「なぁに? 嫌って言うんですの?」
「別に言わないよっ! あげるよっ! でも、怒らないでよね」
語気を強めながらズイッと顔を近づけてきたアズサちゃん。とんだ言いがかりだと思いながらアズサちゃんの前に器を差し出す。
「そんな。私が怒るなんてありえないですの」
アズサちゃんはそう言うけど、これすっごく苦いのに大丈夫かなぁ。でも似たようなの食べたって言ってたし大丈夫か。
僕が少し右に視線を外しながらため息をつく。アズサちゃんは丸薬を手に取る様子がない。それどころか目を閉じて口を開けている。
「どうしたのアズサちゃん」
「食べさせてですの。私、左手がふさがってますの」
「……右手は空いてるよね」
「ふさがってますの」
僕がつっこむとアズサちゃんは何ともない右目も右手で押さえる。
僕は仕方なく丸薬を一粒つまんだ。
「はい。あーん」
「あーん」
アズサちゃんは僕の言葉をオウム返しして口を開けた。僕はその口に食べさせてあげるために丸薬を持っていった。
「はむっ」
口を閉じるアズサちゃん。
その一瞬はなんだかすごい笑顔のようにも見えた。
あれ? 結構大丈夫なのかな? マッシュ様もナーグルの葉で作った苦いお茶が好きだし、こっちの村の人はちょっと味覚がアレでソレなのかもしれない。
僕は一人でそう納得しかけた時、アズサちゃんの顔が激変する。
眉間にしわを寄せて、歪みそうなほどに歯を食いしばった顔。まさしく苦虫をかみつぶしたかのような顔とはこの事を言うのだろう。
アズサちゃんは、唸りながらなんとかして飲み下した後に右目だけで僕をキッと睨みつける。
え? 僕のせいじゃないよね?
そう思って僕は顔を小刻みに横に振るも、アズサちゃんは勢いよく立ちあがって僕を見下ろす。
「なんてものを口にさせるんですのっ!」
やっぱり怒られた。




