「メンマは違うくない?」
「凍って無い時はこの滝に打たれて集中力を高める修行をしますの」
「へー。それは良いね」
凍てついた滝。
それを見ながらアズサちゃんは胸を張って語るも、僕の言葉にアズサちゃんは少し怪訝な顔をする。
僕はそんな事には気に留めず、氷瀑を滝壺から遡って見上げた。
夏の暑い時なら滝の飛沫が気持ちが良いだろう。それだと快適に修行ができるかもしれないね。暑い中でジッとしてるよりかは集中できそうだ。実に理にかなっている。
「それよりアズサ。スケートってやつ教えてよ」
「あっ、はいですのっ。ソーラお姉さまっ」
姉ちゃんは膝ほどまである岩に腰かけて、靴の裏に一枚の刃の付いた靴を履いて靴紐を結ぼうとする。この刃は八足馬の脛の骨から作られている。
正直変わった靴だと思うんだけど、あれをするためにはこの靴が必要だって言うからしかたがない。
「んー……。カイト。ん」
「はいはい」
姉ちゃんが紐の端を両手に持って、催促するような目で僕の方に靴紐を引っ張って見せる。
僕は姉ちゃんの前にしゃがみこむと、代わりに僕が靴紐を結んであげる。だいたい紐を結ぶみたいな細かい作業が苦手な姉ちゃんは、僕に細かい作業をよく任せようとするのだ。
「できたよ。姉ちゃん」
僕はギュッと姉ちゃんの靴紐を蝶々結びをして、立ち上がった。
「ん。ありがと、カイト」
座っている姉ちゃんは、僕を見上げてニカッとした笑顔を見せてくれた。
このためにやっていると言っても過言でない。
けれど姉ちゃんが今回見せる僕を見上げる形と言うのは、あまりに眩しくて新鮮で、僕は思わず目そらしてしまった。
「あっ。アズサちゃん。それ縦結びになってるよ?」
逸らした先にいたアズサちゃんの片方だけ結び終わった靴紐を見て僕は教えてあげる。
「え? あれ? あれ?」
僕の指摘にアズサちゃんが再び紐を結び直す。だけど、また縦結びになる。そして再三やるもまた同じ結果に。
むーっと唸るアズサちゃん。僕は今度はアズサちゃんの方に行ってしゃがみこむと、アズサちゃんから靴紐を受け取ろうとする。
「貸して。アズサちゃんのも結んであげるよ」
「あ、別に……」
一瞬何かを言いたそうにしたアズサちゃん。だけど、紐を持つ力が緩むのを確認した僕は、構わず取りあげて靴紐を結んであげる。
「紐のここを通す時にね、さっきと逆にするとうまくできるんだ。ついでにこっちの足も。はいっ、出来たよっ」
「あ……。ありがと……、ですの」
僕の顔を一瞬だけ見ると、アズサちゃんは顔を横に背けて口を尖らせながらボソッと言った。
アズサちゃんは手を行儀よく膝の上に乗せて、白い尻尾は横にフリフリ。
表情ではああだけど喜んでくれているんだろう。
「どういたしまして」
僕はアズサちゃんにニッと笑って返した。
アズサちゃんはふんって言いながら立ち上がる。ちゃんとあの靴でも立てるんだなぁと思いながら、僕はアズサちゃんと入れ違いに岩に腰を掛ける。
準備ができていないのは僕だけだ。急いで準備をしよう。
僕はカンジキの付いた靴を脱いでスケート靴を履いた。そして紐を結ぼうと身を屈めた。
そこで突然、僕は上から肩を押さえ付けられる。
「ちょっ、ちょっとっ。なに?」
「ごっめん、カイト。でも、この靴変だよぉ? ほんとにスケートってこんなので出来るの?」
僕の肩を押さえつけていたのは姉ちゃん。姉ちゃんはバランスが取れなくて僕にもたれ掛かっているようだ。
そういう事なら、ちょっと息が苦しいけど僕もやめてよって言うわけにもいかないか。そう思って、改めて姉ちゃんのおぼつか無い足元を見る。
しかしながら、足をプルプルとする様はまるで生まれたての小鹿みたいで面白い。
それもそうだ、あんなに地面に接触してる部分が少ないんだから。バランス取れないよね。
「ソーラお姉さまなら楽勝ですの」
アズサちゃんの声が雪を踏む音をさせながら少しずつ遠ざかる。
アズサちゃんは簡単そうに言うけれど、今度ばかりは跳ねたり走ったりは百点満点な姉ちゃんも勝手が違うだろう。
僕はこっそりほくそ笑む。
スタートラインは同じ。なら、僕が先に上手くなることも十分にあり得ると。
いや、それより姉ちゃんは今どんな顔をしているんだろう。僕は下を向いたまま肩を押さえられてるから姉ちゃんの顔が見れないけど、きっと今の姉ちゃんはめったに見れない顔をしているに違いない。
僕は肩を押さえられながらも、姉ちゃんの顔を一目見てやろうと思って首を上げようとした。
「あっ、そうか。そう言う感じか」
さっきの不安げな様子から一転、あっけらかんとした声の調子をさせる姉ちゃん。
姉ちゃんはスッと僕の肩から手を離した。
「あれぇっ? わあっ!」
突然肩にかかる力がなくなった僕は、首を上げようとした勢いが余ってひっくり返った。
その一瞬僕が見たのは、しっかりとした足取りでアズサちゃんの方へ向かっていった姉ちゃんだった。
僕はまだ靴紐も結んでいない。
まだ僕はスタートラインにも立てていなかった。
◇◆◇
「いよっ、と。あはははは」
姉ちゃんが氷の滝壺の上で跳ねてくるっと三回転をする。尻尾の青が尾を引いた。そして着地すると、笑いながら後ろ向きに滑り出す。あっという間に慣れてしまったようだ。
僕はと言うと。
「カイトはてんでセンスがありませんの。なぜですの?」
「……すいません」
アズサちゃんに両手を引かれながら聞かれて恐縮する僕。
なぜといわれてもなぁ……。
「グズでノロマでメンマでトンマ。まったく仕方がないですの」
「メンマは違うくない?」
そうつっこむものの、確かにずっと女の子の手に引かれたままなのはカッコ悪い気がしないでもない。
それに僕は手を引かれたままだけども、氷の上にもずいぶん慣れたような気がしていた。姉ちゃんほどとはとてもとても言えないけども、実は結構うまくいくのでは?
アズサちゃんから目をそらして姉ちゃんをちらっと見てみると、根拠もなく自信が出てきた。
「もう大丈夫だよっ。アズサちゃんの手を借りなくても行けると思うからっ」
アズサちゃんから手を離して二、三歩川下に向かって歩いて足を止める。少し腰を後ろに落とすような変な立ち方だけど、それでも転ばずににつるつると滑る事が出来る。
白く吐いた息が顔に勝手に当たる。息の切れ目に当たる冷たい空気が気持ちいい。
ふっふーん。なーんだ、結構簡単じゃない?
そう思うと得意げに鼻歌なんかも歌ってしまう僕。
さて、そろそろアズサちゃんの方に戻ろう。アズサちゃんには、僕もやればできる男なんだよって言ってあげなきゃいけないからね。僕は一人で口の端を上げる。
しかしそこで、ある事に気がついたのだった。
……どう止まるの?
「とっ、止まらないいいいいぃぃ」
「こけなさいですのっ」
僕の叫び声のような訴えに、即座にアズサちゃんの声が飛んでくる。
そうか、スケート靴だからこれだけ滑るのか。カンジキみたいに地面に当たる部分を大きくすればいいんだ。僕はアズサちゃんの言う通りに自分で身体を丸めてわざとこける。
体に伝わる鈍痛。氷は硬くて痛かった。
だけど、そのおかげでゆっくりスピードを落とすとすぐに止まることができた。
ふう……。一時はどうなるかと。
僕は安心してため息を吐くと、アズサちゃんが僕の方に滑ってきてピッタリと僕の横で止まる。
僕はアズサちゃんを見上げた。
「カイト。その先はまた滝になってますの。あんまり勝手をすると危ないですの?」
「滝ぃっ!」
アズサちゃんのセリフに僕はもう一度川下の方を見る。川下の先は軽い霧がかかっていて見えづらい。
アズサちゃんの言う通り滝があるとして、小さい滝だとしても落ちたらすっごく痛いだろう。転んだだけで痛い氷の上だ。そうなったらきっと痛すぎて泣いてしまう。
ましてやそれが大きい滝だったとしたら……?
僕は一瞬身を震わせた。
「や、止めるっ、僕もうスケートは十分だから。あー、楽しかった。あー、楽しかった」
僕は四つん這いになって氷の川の上を横に横断して河原の方へ向かうと、すぐにスケート靴からカンジキ付きの靴に履き替える。
ああ。僕、土のあるちゃんとした地面が大好き。
ほぼ雪に埋まってて土とか見えないけどね。
「カイト。スケートやめるの?」
「あらら。私としたことが怖がりさんを脅かしすぎてしまったですの。次の崖までに岩がいくつか水面から出てますから、運が悪くなかったら大抵どっかに引っ掛かると思いますし、おそらくは大丈夫ですのに」
後から来た姉ちゃんのほうに、肩をすくめて見せるアズサちゃん。
それ、運が悪かったらやっぱり真っ逆さまって事だよね。
「かっ、勘違いしないでよアズサちゃん。べべ、別に怖いから止めるんじゃないよ。ほら、あの草はウルブ村で見たことないから何かなぁって思っただけなんだからねっ」
「あはは、カイトってばツンデレになってるよ」
苦し紛れに雪から飛び出ている草を指さしていると、姉ちゃんが僕を指差して笑う。
どうかなぁ? これもツンデレなのかなぁ?
僕は姉ちゃんの言葉に首を傾げているところで、偶然自分が指さした草を見て気がついた。
その草は、中心にはキャベツのように丸くなった結球が付いているけど、結球から外れてびろーんとした葉っぱはギザギザというかモラモラとしている。
あれは、父さんが前に採ってきて母さんに渡したやつにそっくりな気がした。
「――あれ? あれってもしかしてナーグルってやつ?」
「もしかしなくてもナーグルですの」
間髪いれずに言うアズサちゃん。
何を言ってるの? と言わんばかりに不思議そうに僕を見る。
「いや、ウルブ村では見た事ないんだ」
「へぇ……、そうなのですの?」
「ほんとに見た事ないよ。レタスっぽい変な草だね」
僕の言葉にアズサちゃんは確認をとるように姉ちゃんの方を振り向く。姉ちゃんもうんと頷くと、僕の隣に腰をおろして同じように靴を履き替える。それに倣うようにアズサちゃんも履き替え始めた。
僕はナーグルを少し遠巻きに眺めてみる。
「これって、マッシュ様の飲んでるお茶になるんだよね?」
「ええ、そうですの。……あっ、カイト。なら、摘んで持って帰ればマッシュ様きっと喜びますの。うぷぷぷ」
そう言うと口元を押さえて笑うアズサちゃん。
なんかあやしい気がするけど、確かに喜んでくれるかもしれない。
「これは真ん中の玉になってるのを採ればいいの?」
「いいえ、玉から外れた端の葉ですの。真ん中の葉は若い葉で、力が溜まって無いから意味ないですの」
そう言えば父さんの持っていたナーグルの葉は玉になっていなかった。一株丸ごととってこなかったのはそのせいだったのか。
納得して頷く。僕はナーグルの葉を摘むためにナーグルの前に腰を下ろした。
「へぇ。じゃああたしもマッシュ様のために摘もうっかなっ。カイトにばっかりいい顔はさせないんだから」
姉ちゃんは立ち上がると、少し離れたとこでもう一株生えているナーグルのところに屈む。
「あっ! ソーラお姉――」
アズサちゃんが言いかけた。だけど、それより先に僕たちはナーグルの葉に手を触れる。
「あべしっ!」
僕の目の前が突然真っ暗になったかと思うと。僕は空を見上げていた。
えっ? 僕どうなってるの?
「何っ? 何っ? これ攻撃してくるの?」
横から姉ちゃんの驚くような声がした。
ナーグルは姉ちゃんが葉っぱを触ろうとする度に、真ん中にある結球から茎を伸ばして、拳のようにして攻撃していた。
飛び退いて回避する姉ちゃん。
「もう、わかっちゃったんだからっ!」
姉ちゃんは顔に少しばかりの笑みを浮かべるとナーグルの葉っぱを握る。
すかさずナーグルは姉ちゃんの顔に向かって攻撃をする。
姉ちゃんは飛んでくるそれを今度は首だけでかわす。
ブチンッ。葉っぱを引きちぎって、その勢いでナーグルから離れた。
「ナーグルの葉ゲットっ!」
誇らしげにナーグルの葉を掲げる姉ちゃん。
アズサちゃんは感嘆して拍手をする。
「さっすがソーラお姉さまですのっ! ナーグルの攻撃を華麗に避けるばかりか、収穫まで出来るなんて。今日初めてなんて信じられないほどの素晴らしさでしたのっ!」
「えっへっへ。これくらいはチョロイチョロイ」
「だいたいはカイトみたいに一発ポコーンとやられてひっくり返りますのに」
アズサちゃんが僕の方を見てクスクス笑う。
「あ、ほんと。つぶれたカエルを仰向けにしたみたいになってる」
「姉ちゃんひどいっ!」
「あははは。ソーラお姉さまさすがにそれは……。あははは」
僕は起き上がって姉ちゃんをに抗議をする。ごめんごめんとあんまり反省していない様子で笑いながら僕に謝った。
ツボに入ったのかアズサちゃんはお腹を抱えて笑う。
笑わせるのは良いけど、笑われるのはあんまり気分が良いものじゃない。僕は不満で口を尖らせながらアズサちゃんの方を見る。
「あははは――」
そこでアズサちゃんの笑いが突然止まる。それと同時にアズサちゃんは左目を押さえた。
「アズサ。どうしたの?」
姉ちゃんが首を傾げてアズサちゃんに問いかける。だけど、アズサちゃんは返事をしない。
「目にゴミでも入ったの?」
僕も少し心配になって立ち上がって尋ねる。
「……いたい」
ぽつりと呟く小さく動く口。
「痛い。イタイイタイイタイイタイっ!」
アズサちゃんはだんだん声を大きくしながら蹲くまると、左目を擦りだす。
どうしたんだろう。なんにせよ、そんなに目をこするのは良くない。僕はそう思って、アズサちゃんの顔を覗き込む。
アズサちゃんの左目の瞳の色が少しずつ明かりを増していく。
「目が焼けるっ! 頭が割れるっ! なんですのっ、助けてっ!」
狂うほど叫び出し、顔はくしゃくしゃになる。
アズサちゃんは零した。右目からは涙を。左目からは燐光を。
これって……
「お父様とお母様が見える。どうしてですの? ああ、助けて――。助けてお父様ぁっ!」
「ちょっとアズサっ?」
蹲るアズサちゃんが立ちあがると、ふらふらとおぼつか無い足取りで走りだした。
突然の事に、動けなかった僕と姉ちゃん。
アズサちゃんの向かった方向は川下の方角。その藪の中を入って行った。
「姉ちゃん。すぐに伯父さんか誰か呼んできて」
アズサちゃんが変な幻覚を見ているわけじゃないのは、僕も姉ちゃんもすぐ察しがついた。左目に見えたあの光は、母さんのとそっくりだからだ。
「カイトは?」
「僕はアズサちゃんを」
「わかった。頼んだよっ」
「任せて」
あっという間に青い風となって駆けだす姉ちゃん。
僕もすぐにアズサちゃんを追いかける。
アズサちゃんは川下は滝だと言っていた。ならその方角の方に行き続ければ、その先は崖になっている可能性が高い。その前にアズサちゃんを止める。
僕は必死になって走る。
ふらふらと走るアズサちゃんの姿はすぐに捉える事が出来た。それと同時に、その藪の先が開けているのが見えた。そして、その先は間もなくして空になるのも確認できた。
「あぶないっ!」
僕はスパートをかけて飛び出すと藪を抜けた瞬間にアズサちゃんの腕を掴んで引っ張ると、抱き抱える。
間一髪――。藪と崖の間には少しだけ、雪だけが見える地面があった。僕とアズサちゃんはちょうどそこで止まる事が出来た。
「痛い。痛いですの……」
僕の腕の中で泣くアズサちゃん。アズサちゃんの服は藪にひっかけて少し破れ、小枝が代わりに突き刺さっている。顔も少し切ったようで小さな傷からは血が滲み出ていた。
アズサちゃんはそんなのも気に留めず左目を手で押さえる。
そしてその指の隙間からは緑の燐光が漏れ出る。
「大丈夫だよ、アズサちゃん。それはたぶん千里眼だよ。落ち着いて目を閉じて」
静かにコクリとアズサちゃんは頷く。そして両目を閉じた。たぶん、片目だけを閉じるのは難しいんだろう。僕だってウィンクが出来ない。
「今姉ちゃんが伯父さんを呼びに行ってくれてるから、戻って待――」
僕はそう言いかけた時、足元に異変を感じた。
「どうしたんですの?」
アズサちゃんが不思議そうにそう言うと同時に、僕達の左右に広がっている雪だけが見える地面が崩れ落ちる。
「ひぃっ。何の音ですのっ?」
その崩れ落ちる音にアズサちゃんは一瞬身を震わせる。それを僕は黙って抱きしめる力を強くした。
――僕は気付いた。
地面なんかは初めからなかったのだ。僕達は地面からせり出した雪だけにささえられた足場に立っていた。
「大丈夫。落ち着いてゆっくり行こう」
僕はアズサちゃんの質問には答えなかった。今この事実を教えて下手に教えて、パニックになられると余計に危ない気がしたからだ。
僕はそう判断した。この判断は間違っていなかっただろう。
だけど、無慈悲にもその瞬間に僕達の足元も崩れ落ちたのだった。




