1 婚約破棄
「今まで僕を飾る花となってくれたこと、心から感謝するよ。リゼット」
この国の王子セドリックは、私リゼット・ロザベールの名前を呼んで、穏やかに微笑んだ。
眩しいくらいの、清々しい爽やかな笑みだった。
たった今、私に一方的に婚約の解消を突き付けたというのにも関わらず、その表情には一切の悪意を感じない。
「紹介するよ、新たに僕の婚約者になるルドヴィカだ」
そう言うと、セドリックは自身の隣に立つ可憐な少女の細い肩を抱いた。
私のローズピンクの髪とはまた違う、優しげなハニーピンクの髪が愛らしい令嬢。
人形のように整った顔立ちと、丸々とした可愛らしい目元。
彼女の姿を見た瞬間、思わず笑い出してしまいそうになった。
だって、私のすべて奪っていく彼女が皮肉なことに私とよく似た容姿をしていたから。
「初めまして、エルレイン男爵の娘ルドヴィカです」
「ルドヴィカはこの歳で突然王子の婚約者となったのだ。分からないことばかりだろうから、リゼット、君が彼女に色々と教えてやってくれ」
「王子、それは……」
「どうせ家に戻ったってやることは何もないだろう? だったら、長年婚約者だった僕の願いを叶えてくれたっていいじゃないか。いいだろ、なっ?」
笑顔でそう付け加えたセドリックに、私は返す言葉が見つからなかった。
彼はいつも、こうして私に面倒事を押し付けてきた。
本来は自分で解決するべきことも、婚約者なのだからと理由をつけては私に命じた。
そして自ら婚約破棄を言い渡した今も、私を利用しようとしている。
この男は世の中のすべてが自分中心に回っているとでも思っているのだろうか。
まあ、あなたなら本当にそう考えていそうね。
さすがは王子様とでも言うべき?
時折羨ましく思うわ。あなたのその図太さ。
捻くれた思考が頭を駆け巡るが、実際に王子にそんなことを言ってしまえば、この首に鋭い刃が振り下ろされるのがオチだ。
だから私は、至って普通に、いつものように愛らしく笑って見せた。
「その件は一度お父様に相談させてください。私は、何事も私一人の決断で決めることはできませんから」
「ふむ……確かにそれもそうだな。分かったよ」
私はドレスの裾を持ち上げて礼を取ると、先ほどからしつこいくらい私の様子を伺ってくるルドヴィカ嬢に向かって笑顔向けて部屋を後にした。
王宮の廊下を足早に進む。
太陽がちょうどてっぺんにいる今の時間には、王宮にはたくさんの人々が集まっている。
まるで何かから逃げようともがいている愚かな私を、彼らは好奇に満ちた瞳で見つめた。
『リゼット嬢……顔が真っ青だけど、どうされたのかしら?』
『以前の宴会で負われた傷が、まだ治られていないそうよ。もしも傷が残られたら……』
『美しさだけが取り柄のご令嬢でしたのにね。顔に傷のある王子妃など許されないことでしょうに。一体、どうなるのやら……』
囁かれる言葉が嫌でも耳に届き、私の心臓を苦しみに締め付けた。
私は片手を持ち上げると、額に貼られたガーゼを優しく撫でた。
その裏には、醜い一本の傷跡が刻まれている。
どうして。どうしてこんなことになってしまったの?
額にできた傷ひとつで、ここまで私の人生が狂うことになるなんて……。
今から、ひと月前のこと。
私は、自分の存在価値を失った。
セドリック王子のエスコートを受けて参加した社交界。
黄金の階段に足を下ろした時、ポキンと音を立てて折れたヒールの踵は見るも無残に転がり落ち、私の身体は地面へ叩きつけられた。
侍女たちが甲高く叫んでいたような気もするが、私は自分の心臓の音だけが脳内に鳴り響いていた。
真っ先に頭に駆け巡ったのは、身体に傷ができないか、それだけだった。
額に流れる血も、全身を駆け巡る痛みも、どうってことはない。
顔に傷ができていないか、残らない傷ではないか、それだけが気がかりだった。
女に生まれた以上、大切なのは夫を立てる美しい容姿だけ。
他がどれだけ優れていようと、男を飾る花になれない女に価値はない。
幸いなことに美しい容姿を持って生まれることができた私は、王子直々に婚約者に選ばれた。
万が一、いや、億が一にもこの顔に一本の傷でもついたら……これまでの努力は水の泡となり、私の価値はゼロになる。
たくさん、本当にたくさん祈ったけれど、結局私の額には一本の傷跡が残ってしまった。
傷を残さまいと奮闘してくれた医師には、心から感謝の意を述べよう。これは、私の不注意が招いた哀れな結末なのだから。
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「リゼット様! リゼット様!」
「う……レア? どうかしたの?」
何度も大声で名前を呼ばれ、一体何事かと布団の中から顔を出すと、そこにいたのは長年私の身の回りの手伝いをしてくれている王室メイドのレアだった。
普段温和にニコニコと笑みを浮かべている彼女が、苛立った様子で私を睨みつけている。
「どうもこうもありません。一体どんな夢を見ていたのやら。王子様から婚約破棄されたというのに、呑気なものですね。早く起き上がってください。あなたと違って私は忙しいのです」
「……ご、ごめんなさい、今起きるわ」
急いでベッドから起き上がり、部屋の隅へと移動する。
「まったく。すでに王子の婚約者でなくなったというのに、いつまで自分をお姫様だと勘違いされているのか。羨ましい限りですよ」
「…………」
親切にしてくれた人々が豹変する様には、まったく慣れそうにない。
私の額に傷が残り、王子の婚約者でなくなったあの日から、分かりやすいほど周囲の人間の態度が変わった。
令嬢という名の花たちが並べられた部屋で、セドリック王子が私の手を取って微笑んだことが、つい昨日のことのように思えてしまうのに……。
『君を僕の婚約者にしてあげる。だって、君はこの中にいるどんな花よりも綺麗だから』
私はこれから、どうなってしまうのだろう?
王子から婚約を解消されただけでも次の縁談を望むことは難しいだろうに、顔に傷まで作ってしまったのだから……。
そんなことを考えながら、私は私室の窓から外を眺めた。
自室と言っても、ここは実家ロザベール侯爵邸ではなく、王宮だ。
六歳の頃に王子の婚約者となって以来、私は妃教育を受けるために、この小さな部屋に閉じ込められた。
王族たちが住む宮殿から、少し離れた小さな離宮。
ここは代々、王子の婚約者たちを教育するために使われてきたという。
これまで私一人だけが使っていた宮殿だったが、今は……。
「……どういうこと?」
私の部屋にあるに大きな窓からは、宮殿の前に備わった広々とした庭園を見下ろすことができた。
日差しを浴びて黄金色に輝くハニーピンクの髪。
花の妖精のように愛らしく笑いながら、楽しげに庭園を駆けている少女に目が止まった。
「ルドヴィカ……」
私と代わって、セドリックを飾る花になったのでしょう。それなのに、どうして笑っているのよ?
王子の婚約者というものは決して簡単に務まるものではなかった。
要領の悪いセドリックに代わって、私はいつも彼の仕事をこなしてきた。
王室専属の教師が私を見る鋭い視線。
何度かけられたか分からない悲しい言葉。
『リゼット様は高貴なお方です。家畜のように鞭で叩かれなくとも、分かりますね?』
傷跡が残らないよう鞭の回数を調整していた教師は、時折、鞭を与えない代わりに言葉で私を脅した。
言葉の恐怖に押さえつけられるくらいなら、いっそのこと殴られた方がマシだった。
でも、それが王子の婚約者としての務めだから。
代々の妃たちが乗り越えてきたものだから。
たとえ、どれほどの努力を積み上げ、どれほどの成果を残そうと、褒め称えられるのが容姿の美しさだったとしても……。
「お待ちください、ルドヴィカ様!」
「そんなに言うなら私を捕まえてみて! 私、足の速さには自信があるんだから! あんな部屋にずっと閉じこもっていたら息が詰まっちゃうわ」
彼女を必死に追いかける見慣れた顔の夫人と、何が面白いのかヘラヘラと笑いながら芝の上を駆けるルドヴィカ。
胸の奥から何かが込み上げてきて、私は慌てて彼女たち視線を逸らした。
すると、自分が長年使ってきた机が視界に入り込んできた。
王宮に足を踏み入れたばかりの頃、背伸びをしてやっと座ることができた椅子は、今ではもう余裕で足が届くようになっていた。
この部屋には辛く悲しい記憶しか残っていない。
それほどまでに長い月日を私はここで過ごした。
家族が恋しいあまり両親と兄妹を模倣したたくさんの人形。
使い込まれた古びた家具に、左薬指に残った愚かな跡。
『よりにもよって顔に傷を作るとは……』
私が意図して怪我を負ったとでも思っているの?
彼は私の傷について色々と言っていたけど、私としては、この指輪の跡の方が恥ずかしくてたまらないわ。
腹の奥から何か熱いものが込み上げてきて、私は目元を乱暴に拭った。
王子から婚約破棄をされたというだけでも新たな婚約は望めないのに、私は傷アリになってしまった。
もう、私に幸せな結末を望むことは難しいだろう。




