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第六章


   6


「ね、その前にちょっと沼津港に寄ってよ。お土産買うの忘れてた」

 木箱に収まったマコちゃんを抱き上げ、私は助手席に収まった。

「オッケイ。近くだし、私も酒のつまみでも買おうかな」

 理名ちゃんは快諾してくれた。

「そう、お酒のつまみ。輝美さんがビールに合うもの買って来いって」

「じゃあますます沼津港がいいね」

 理名ちゃんは車を発進させた。

 昨日は寝てしまったので知らなかったが、千本浜と沼津港は目と鼻の先だった。

 私たちは魚の匂い漂う魚市場を回った。

「沼津と言ったら干物だよね」

 理名ちゃんが言った。

「うーんでも、カバンに臭いが付くのは嫌だな」

「真空パックのやつにしたら?」

「えーせっかく干物買うならそのままのほうが良くない?」

「じゃあ干物はパス?」

「そうだね。理名ちゃんは何か買うの?」

「うん。サバの缶詰。普通のじゃないよ。燻製してあってオリーブオイルに漬けてあるの」

「へー、おいしそう。ビールにも合う?」

「当然」

「じゃあ、私もそれにする」

 私たちはそのサバ缶の直営店で、オシャレなパッケージの缶詰を買い込んだ。それから大きなお土産屋さんで、河野家の住人たちに向けて無難にお菓子をひと箱。

 磯臭い海沿いにずらりと並んだ漁船を眺めていると、巨大な遊覧船が目に留まった。私は理名ちゃんのTシャツの袖を引っ張った。

「ねえ、遊覧船乗ろうよ」

「ええ? 昨日酔うから乗らないって言ったじゃん」

「いまは大丈夫な感じなの。ね、乗っちゃお。地元民だとかえって乗る機会ないでしょ? せっかくだし」

 理名ちゃんはその言葉に反応した。

「……乗っちゃうか! せっかくだし!」

「うん、せっかくだし!」

 チケットを買って、十一時出港の船に乗った。観光客やカップルで賑わう船内で、私たちは並んで窓から海を眺めた。

 この二日間散々海を見た。ダイビングでの浅い海中、水族館で作られた深海、理名ちゃんの車の窓から、千本浜の夕日の下、一人きりの夜の海、荘厳な朝の風景。

 マコちゃんの言う通り、海は様々な顔を持ち、ひとつとして同じ表情の海はない。人の持つ多面性のように、海はその都度、別の角度から語り掛ける。だが、語り掛けるだけだ。普通の人はそのいちいちに耳を傾けない。

 私はいま海の上にいる。船の揺れが、波の上に立たせているのだと知らせる。360度海が見える。夜中の海よりも背筋に寒気を覚えた。届くロープがないほどの遠くまで来た。人は海では生きられない。そう、船が沈んだり、身を投げでもしない限りは、ひとつにはなれないのだ。

 私は顔を上げた。

 小難しいことばかり考えていてはもったいない。私は頭を切り替えて、美しい景色をそのまま美しい景色として、ただ目に映した。

「すいませーん」

 船を降りると一緒に乗っていたカップルに写真を撮ってほしいと頼まれた。

 ほいほいと引き受け、彼女さんのスマホで二人を撮影した。大学生ぐらいの初々しいカップルだった。

「ありがとうございました。そちらも観光ですか?」

 スマホを返すと、彼氏さんのほうが私たちにたずねた。

 私と理名ちゃんは顔を見合わせた。

 私は笑った。

「観光です!」


「マコちゃんの部屋にはよく行ったの?」

 車中、私は理名ちゃんにたずねた。

「ううん。何度か送ったことがあるくらい。飲むときもうちに来てたしね」

「中に入ったことは?」

「ないね。なんか入れてって言い出しにくい空気出す子だった」

「なんかわかる。でも部屋わかるの? 多分アパートでしょ?」

「どの部屋に入って行くまでは見てないのよね。表札を見て回るしかないね」

「ますますドロボーっぽい」

 辿り着いた先は何の変哲もないアパートだった。海からは近かったが、海が見えるとかそういうわけでもなかった。住宅地にある普通の二階建ての建物だった。

 理名ちゃんは二階を、私は一階の表札を見て回った。

 しばらくして二階から声がした。

「みのりちゃん。あったよ」

 私は外壁の階段を登って、理名ちゃんの元へ向かった。

『真琴』

 表札には確かにそう書かれていた。珍しい苗字なのでまず間違いないだろう。

 私はポケットの中で握りしめていた鍵を、おそるおそる鍵穴に差し込んだ。鍵は抵抗なく吸い込まれ、回すとカチャっと音がした。巨大なパンドラの箱は難なく解除され、鍵はするりと抜けた。

「……開いちゃったね」

「……うん、そうだね」

 私たちはしばらく通路で立ち尽くした。中に首吊り死体が待っているわけでもないのに、まるで人間の死そのものと対面するようだった。

 ――せっかくだし。

 頼りそうになった魔法の言葉を飲み込んだ。

 このドアを開けるのは自分の意志だ。流されたのでも操られたのでもない。

 私は深呼吸をしてドアノブを掴み、一気に右にひねった。


 扉を開けると涼しい空気が隙間からあふれ出てきた。どうやらエアコンはつけっぱなしらしい。彼女がここを出て何日経つだろう。その電気料金は彼女の口座から引き落とされるのだろうか。

 飛び込んできた景色は、なにもない部屋だった。人間が生きていくうえで必要な本当に最低限の家具しか置かれていない。死を悟り処分したという感じでもない。水族館の水槽のように完結した部屋だった。

 その片付いた玄関で靴を脱いでいると、キッチンの床に巨大なジグソーパズルが置かれているのに気付いた。私は部屋に上がり、回り込んでまじまじと観察した。飲食店などで見かける、魚の泳ぐイラストのパズル。

 私はしっくりこないものを感じていた。彼女はまがい物の海を好まない。写真ではなくイラストというのが感覚的にマコちゃんっぽくなかった。

 見るとパズルはあとほんの少しというところで完成していなかった。四隅を埋め、中央にぽっかりと丸い穴が開いていた。私は暗い洞窟の入り口のようなその穴を見ると、動悸が早まり、脇がむず痒いような落ち着かない気分になった。

 床に膝をついて、箱に残っていたピースをパズルにはめ始めた。後方で理名ちゃんが腰を下ろす音がしたが、構わず手を動かした。どうにかして、この穴を埋めたかった。強迫めいた衝動が私を動かしていた。

 ピースをひとつはめるたび、まるで心が切り取られてパズルの絵に移っていくようだった。私の心は徐々に静けさを取り戻していき、まるでマコちゃんの氷の精神に身体を乗っ取られたようだった。

 粛々と、ひとつまたひとつと乾いたピースをはめていく。

 やがて、パズルは最後の1ピースまで組みあがった。

 だが、その最後の1ピースはどこにも見当たらなかった。箱をひっくり返しても、冷蔵庫の下を覗き込んでも、その姿はない。

 血の気が引いていくのを感じた。

 私は呆然と未完成のパズルの前に跪いた。そして気付いた。きっとマコちゃんが持って行ったのだ。

 パズルが完成する前に死の準備を整えてしまった彼女が、せめてもの未練にひとかけらのパズルをポケットに忍ばせたのかもしれない。

 そう思うと、もうピースを探す気にはなれなかった。きっとそうだ。根拠もないのに私は納得してしまった。


 ガラガラと音がしたので振り返ると理名ちゃんがベランダに出ていた。外には洗濯物が干しっぱなしだったが、彼女はお構いなしにタバコに火を点けた。

 私は部屋の中央に足を踏み入れた。

 ベッドの隣に小さなちゃぶ台があった。これには見覚えがあった。マコちゃんが施設のころから使っていたものだ。私が貼ったスヌーピーのシールもそのままだった。

 ちゃぶ台には便箋とボールペンが置いてあった。便箋にはびっしりと文字が書き連なっていた。


 これを読む誰かへ


 私、真琴詩織はこの手紙を最後に、死を選びます。

 私はこの手紙の前に、三枚の遺書を書きました。

 警察に。この町で出会った唯一の理解者に。一年前になりますが、故郷に残した妹の如き存在に。

 最後にこの手紙。この手紙は誰が読むのでしょうか?

 警察? 遺品を片付けに来た業者の人? それとも親愛なる人?

 誰にも読まれず闇に葬られるかもしれません。

 だからこれは私が私に向けた手紙です。

 こうして筆を取っているあいだも、私は私が止まることを期待しています。ですがそれは無理だと諦めてもいます。鋼鉄の巨大な歯車が、ガタンガタンと音を立てながら一歩ずつ私を死へと運んでいます。

 七歳の夏、後部座席で受けた何の前触れもない無色の強い衝撃。両親の死を目の当たりにしたあの日から、私の無なるものへの渇望はすでにはじまっていたのかもしれません。

 私は無になりたかった。

 嵐の夜に窓辺に腰掛け飲むコーヒーのように、あらゆることから自分を遠ざけたかった。

 それでもなお、あの騒々しい施設での生活は素敵な思い出です。職員さんは私を我が子のように愛し、私も気付けば子供たちに囲まれていました。

 真琴詩織さん、あなたは幸せでした。本当に、本当に幸せでした。

 どうかそのことだけは疑わないでください。

 高校一年生の夏、アルバイト代をはたいて行った日帰りの沼津旅行。私を死へのレールに乗せた運命の日。海。

 海よ、海よ。

 私の大恋愛はあの日から始まったのです。

 あなたは大きく、あらゆる全てを拒みませんが、私の問いにはなにひとつ答えてくれません。

 その波に揺られながら、私は歯痒くて、歯痒くて。

 すべては私の片思いです。片思いの惨めな女が、悲恋の果てに死ぬのです。

 私は少ない荷物で、本当の無になります。

 無とはもっともほど遠い巨大な質量の塊に飲み込まれ、この世から完全に消えてなくなるのです。

 ですが私の死体は警察が引き上げるでしょう。解剖なんかもされるのでしょう。そして焼かれ、灰になり、集合墓地などで無縁仏となるのでしょうか。

 人は一人では海で死ねないのです。

 そればかりが心残りです。

 最後に、もしこの手紙を私の愛する人が読んでいるのなら、私のブログを読んで下さい。私がこの港町に来てからの一切を人知れず記した、私の生きた証です。


 さようなら、私。

 さようなら、愛する人。

 さようなら、さようなら。

 さようなら。


                               真琴詩織


 ブログのURLを最後に、その手紙は終わった。


 私たちは本当にコソ泥みたいに部屋中を引っ掻き回した。

「なんかいいものあった?」

 私は化粧台を開いていた理名ちゃんにたずねた。

「これ」

 理名ちゃんは右手の人差し指のシンプルな指輪を見せた。

「これ、たまにつけてた」

「いいねドロボーじゃん」

「そっちは?」

 私は背中からじゃじゃんとドライヤーを取り出した。

「結構いいやつじゃない? 海に潜るからかな」

「そうかもだけど、ドライヤーなんているの?」

「うん、うち女の子多いから結構取り合いになるんだよね」

「なるほどね、でもカバンに入る?」

「多分」

「じゃあ、もらっちゃえ」

「うん」

「でさー、どうする?」

 理名ちゃんはブーンと音を立てる冷蔵庫を見た。

「あー、私も気になってた。まだそんなに日は経ってないから悲惨なことにはなってないと思うけど……」

「開けてみる?」

 私は無言でうなずいた。

「よーし、じゃあいくよ」

 理名ちゃんは冷蔵庫の取っ手を掴んだ。

「なむさん!」

 私は勢いよく開かれた冷蔵庫の中を覗き込んだ。

 マコちゃんと部屋と同じくさみしい冷蔵庫だった。上段の棚には寝かされた野菜ジュースのペットボトルがひとつあるだけ。下には大きな紙袋がひとつあった。

 理名ちゃんは紙袋をそーっと引っ張り出した。

「軽いね。なんだろ?」

 理名ちゃんは袋を開いた。中にはぎっしりとパンが詰まっていた。

「パンだ」

 私は言った。

「パンだね」

 理名ちゃんが言った。

「あの子自炊しないって言ってたからまとめ買いしていたのかも」

 理名ちゃんはそう言うと、チーズとベーコンが乗ったパンを取り出し一口かじった。

「大丈夫なの?」

「うん大丈夫大丈夫。カビてないし多分まだ新しいよ。もったいないから昼食にしちゃおう」

 それから私たちは床に座って、パンを平らげていった。

 冷たいパンをひとつの野菜ジュースで飲み込むさまは、異国の儀式のようだった。

 パンは全部で6つあった。七日前に買ってひとつ食べたのだろうか。

 保存の効きそうな硬いパンたちは、私の胃袋をすぐに圧迫し始めた。

「パン食べるならオーブントースターくらい買えっての」

 理名ちゃんがつぶやく。

 私はうんうんとうなずきながら、ザラザラとしたガーリック味のフランスパンに食らいつく。

「あの手紙どうする?」

 不意に理名ちゃんが言った。

「置いていこうよ。理名ちゃんが欲しいならいいけど」

「ドライヤーは持って帰るくせに?」

 理名ちゃんは笑った。

「置いていこう。それがいい」

 パンを食べ終わえると、二人して満腹で寝転がっていた。ジュースを飲み干してしまったので喉が渇いている。

「食べてる最中に業者が来なくて良かったね」

 私は笑いながら言った。

「うん」

 とうなずいて理名ちゃんは言った。

「私たち詩織ちゃんを食べたのかもね」

「そうだね」

 まっすぐと天井を見上げる。私も同じことを言おうとしていたのだ。

 私は体をよじって理名ちゃんの手に手を合わせた。

 生暖かい手の感触の中に、二つくすねておいた硬くひんやりとした塊の内の一つを滑り込ませる。

 理名ちゃんはその真っ青なパズルのピースを受け取ると、天井にかかげた。

 彼女が手を動かすと、窓から差し込む明かりに反射して、パズルは光を放った。まるで海中に差し込む太陽の光のようだった。

 胃袋が泥のように重く、地球の重力に沿って床に沈み込みそうだった。

 やがて私は目を閉じ、ほんの一瞬だが意識を失った。

 マコちゃんの背中が見えた。

「待ってて」

 私は彼女に言った。

「大丈夫、完璧にわかったよ」


 行先も告げずに車は発進した。

 この奇妙な旅で、もう他に行く場所はそこしか残されていなかった。

 お互い喋りに喋り、車内は賑やかだった。

 人と話をしていないと、また乗り物酔いをしてしまうからだ。

 そうこうしているうちに、私たちはあっけなく、本当にあっけなくその岬に着いてしまった。

 切り立った崖の穂先にある名もなき小さな展望台。

 車を降りるとむせかえるような潮の香りがして、それに手をひかれるように、私は駆け寄った。

 鉄柵にしがみついて下を覗き込む。真上から見る海は、灰色のスープのように静かだった。

 崖の下で、波の音が、ずいぶん遠くの出来事のように聞こえた。

 海と同じ色をした、固まった泥に似た丸い岩肌に、押し寄せた波が染み入っては消えていく。

 呼吸を止めていたことに気付き、勢いよく顔を上げた。うっかりすると、このまま本当に何時間でも、無心で見入ってしまいそうだった。

 私はそのままよろよろとおしりをついて、鉄柵に抱き着いた。

 硬い鉄に頬を食い込ませると、錆臭い匂いが鼻をつき、海の匂いと混ざって酸っぱかった。

 理名ちゃんが私の隣に座った。彼女はサンダルを脱ぎ、柵から足を投げ出した。

「みのりちゃんもしなよ。気持ちいいよ」

 そう言って彼女はタバコに火を点けた。

 私は理名ちゃんに倣って靴も靴下も脱いでしまうと、足を崖に放り出した。

 足の指のあいだを風がすり抜けていくのが心地よく、足をぶらぶらしていればじめっとしたものは空に流されていった。

 潮風の隙間に、理名ちゃんの甘いたばこのにおいが混ざっていた。

「ちょっと、あんたたち、こんなところで何やってるの!」

 突然背後からした男性の声に、私は振り返った。

 見ると壮年の男性が、まだ日も高いというのに、懐中電灯をこちらに向けていた。腕には町内パトロールの腕章があった。

「そんなとこ危ないよ! 離れて離れて!」

 慌てて靴下を履いていると、理名ちゃんは裸足のまま釈明に走った。

「ちょっと海を見ていただけなんです。危ないことは何も」

 すると男性は言った。


「もしかしてあんたら、この前ここで死んでた人の知り合い?」


 私は目を見開いた。

 ひときわ強い風が、背後から海に向かって吹き付けたようだった。私は唖然として、身じろぎもできず、しばらく固まっていた。頭の中が空っぽで何も考えられなかった。

 だが我を忘れていたのも数瞬。

「プッ」

 私はその言いように思わず吹き出していた。

「あはは」

 乾いた声が漏れる。彼は過不足なく見事に言い当てた。

『ここで死んでた人の知り合い』

 失礼だとか、デリカシーに欠けるだとか、そんな感情が芽生える隙間もないくらいまさしく〝その通り〟だったのだ。

 そのあまりの無駄のなさに、笑いが止まらなかった。

「はははははは!」

 私は気が狂ったように大口を開けて笑った。

 笑いながら、現実味とでもいうのだろうか、ずっと寝ぼけていたような、頭に張り付いていたもやが晴れた。

 消えてなくなって、初めてもやがかかっていたのだと気付かされた。

 度の合ってなかったメガネが外れたみたいに、視野がぐんと広がって見えた。

 太ももが熱い。

 胸から汗のにおいがする。

 まぶたが熱い。

 腰が少し痛む。

 ちょっとだけ頭が痒い。

 そういえば、のどが乾いている。

 そういった当たり前の感覚が、思い込みやメンタルうんぬんといったフィルターを通すことなく、ありのまま肉体の重さとして感じ、味わうための主導権のようななにか、そのなにかが精神から肉体へ戻った。帰ってきた。なにかが救われたわけでもない。でも帰ってきた。たったひとつの的を射た失礼な言葉で。

 なんの誇張もなく、それは奇跡だった。

 痛みは残っている。

 でも悲劇の真ん中で、自ら背負いこんでしまった重荷を、いったん地面に置くことができた。

 そう、実際に起こったこと以上のことを、私は自らに課していた。恋に恋するように、悲しみに悲しんでいた。

 いつもどこかで心にも思っていないことを言っている気がしていた。自分は本当は悲しくなんかないんじゃないかと疑っては、違うと首を横に振っていた。

 強く胸を押さえる。いまここにある痛みが、最小であり最大、すべてなのだ。

 私はマコちゃんの死んだ海を見つめた。

 ここにお墓はないけれど、故人を悼むことはどこだってできる。それは岐阜の児童養護施設だって、喫茶店の上でだって、できたはずだった。

 私がこんなところまでバスに乗ってやってきたのは、マコちゃんを連れて帰るためでも、いてもたってもいられなかったからでもない。

 自分以外の誰かに、この感情をまき散らしてやりたかった。

 本当にただそれだけだったのだ。

「理名ちゃん、ちょっと車開けて!」

 私はまだちょっと笑いながら、スニーカーをひっかけて言った。

 理名ちゃんはパトロールの男性に深々と頭を下げながら、遠隔で車のロックを解除してくれた。

 助手席の扉を開け、そこにあった木箱の蓋を開け、骨壺を引き抜いた。どこかの誰かが形作って焼いた土くれ。人の命だったものの重み。その蓋を押さえて、崖に向かって全速力で走った。

 この二日間、散々歩き回って疲れたふくらはぎが悲鳴を上げる。

 本当はさらさらと波に流してあげるつもりだった。

 でも

「わがまま、ばっかり、言う、なっ!」

 私はそのままの速度で柵に激突し、その反動で力いっぱい壺を放り投げた。

 きしむような肋骨の痛みに耐えながら、私はその行方を目で追った。

 壺は空を切り、簡単な蓋がすぐに空中で口を開いた。そして白い粉を四方八方に吐き出しながら真っ逆さまに崖下に転落し、遠くで小さく乾いた音を立てた。

 かつてマコちゃんだったものは、風に舞いながら少しのあいだ宙を漂い、太陽の光を反射するとキラキラと光を放った。

 人は一人では海で死ねないから。

 私は私の手で、彼女を海にばら撒いた。


 パトロールの男性から、文字通り逃げるように車に乗り込んだ私たちは、目を見合わせるとゲラゲラと笑った。

「お客さんどちらまで?」

 笑いながら理名ちゃんが言って

「運転手さん、駅までお願いします」

 私も笑って言った。

 車が走り始めると、理名ちゃんは窓を開けてタバコに火を点けた。

「おわった、おわったー」

 理名ちゃんは窓の外にタバコの灰を落とした。

 私は言った。

「私たちいい役者だったね」

 シートベルトの下で胸がまだひりひりとしていた。

「うん、名優だった」

「施設の人に謝らないと、供養したいって言ってたのに」

「そりゃ大変だ」


 いろんな話をしていたら、あっという間に三島駅に着いてしまった。

 電光掲示板が次の「ひかり」の到着時刻を知らせていた。出費は痛いが、乗り物酔いのリスクは少ないほうがいい。

 あんなのは、もう、たくさんだ。

 切符を買って、私と理名ちゃんは改札の前で抱き合い、別れを惜しんだ。

「またいつでもおいで、それでまた一緒に潜ろう。私は年中海のそばにいるから」

「ありがとう。大好き」

 昨日出会ったばかりの泣き虫な女性、その体温を、胸に刻み込むように強く抱きしめた。

 改札の向こうでいつまでも手を振り続ける理名ちゃんに背を向けて、私は静かに階段を登った。

 ちっとも揺れずに三島駅を発進した新幹線の、凄まじい速さで流れる景色を眺めるのにも飽きると、私はポケットからスマホを取り出した。

『マコちゃんと海』

 そう題されたそのブログは、彼女が沼津に引っ越したその日から更新された、一人のインストラクター候補生の成長と苦悩の物語だった。

 海の画像であふれたそのブログは、彼女の小さな幸福や小さな痛みにあふれていた。それはマコちゃんがあの港町で息づいていたことの証明だった。

 SNSとは違う、気取らぬ彼女のありのままの姿。

 写真の中の彼女は笑顔だった。もしかしたら理名ちゃんが撮ったものかもしれない。めったに笑わない彼女の、屈託のないその顔を私は見たことがなかった。

 そして、人知れず、とマコちゃんは書き残していたが、ブログにはコメントがたくさんついていた。海のすばらしさを称えるもの、彼女を励ますもの。彼女は生きていた。

 気付けばスマホの画面が水浸しになっていた。

 あるいは彼女は走り切ったのかもしれない。ここがマコちゃんの寿命だったのだ。私は彼女の生命を讃えた。許してなんかいない。私は自殺を肯定するほどお人好しでもロマンチストでもない。けれど、彼女の歩んだ道のりをねぎらうことぐらいはしても良いと思えたのだ。

 寄り道ばかりだった一泊二日の旅と違い、新幹線は一直線にレールを進んだ。

 流れる景色を横目に、たった二日の旅を終えようとして、私は生とか死とかいろんなことを考えようとした。だが、途方もないことばかりに頭を向けていると、いつの間にかうとうとして私のまぶたは静かに幕を下ろしていた。

 念のため仕掛けていたスマホのアラームで飛び起きた私は、なんとか無事乗り換えをこなし、またうとうとしていたら、あっという間に故郷に着いていた。

 所要時間二時間十分。

 運賃は倍以上かかったが、やはり新幹線は快適だった。

 二度と高速バスなんかに乗るものか。私は昨日のセリフを反芻した。

 さて、駅から家までは目と鼻の先だったが、帰る前にもうひとつ済ませておきたいことがあった。


『駅まで迎えに来て♡』

 LINEを送ると、一孝は律儀に駅まで自転車でやってきた。

 岐阜の町は風がなく、夕暮れでもまだじめじめと蒸し暑かった。

 駅前の広場で、私は彼に今回の騒動を一から話した。輝美さんは約束を守ったようで、一孝はマコちゃんの身に起こったことを何も知らなかった。

「黙っててごめん」

 私が手を合わせると

「自分から謝るなんて珍しいな」

 一孝はちくりと言った。

「うん」

 私は言った。

「今回は気を遣ったとかじゃなく、私がそうしたかった、私のわがままだから」

「いつものことだろ」

 一孝は言った。

「でも不思議と腹は立ってないよ。でもそうか、マコちゃんはもういないのか」

「好きだったんでしょ? 悲しい?」

「どうだろう。麻痺してるみたいだ。何も感じないわけじゃないけど、うまく整理できないな。いまは何も考えられない。ただ、そうしたかったんだろうなとしか」

「そうだね」

 一孝のほうがよっぽどよくわかってる。彼女はそうしたかった、そして、そうした。それだけだ。

「思い出に骨のひとかけらでも持ってきたほうがよかった?」

 その言葉に、一孝は少し考えてから首を横に振った。

「そんなものもらってどうするんだよ」

 一孝は小さく笑った。彼の声は悲しみを纏っていたが、同時に憑き物が落ちたように澄んでいた。

「そっか」

 私は自分たちがもう高校生なのを忘れて、昔のように彼の頭をなでそうになった。

「ね、一孝。私がすごい熱出して入院したこと覚えてる?」

 私は彼にたずねた。

「帰ってきたら破られた絵本が新しくなってたの。あれ一孝?」

 彼は首を横に振った。

「ずいぶん古い話だな。違うよ俺じゃない。マコちゃんが急に買い物に行こうって俺の手を引いて本屋に行ったんだ。お金もマコちゃんがお小遣いから払った」

「そっか。……マコちゃんはやさしかったね」

「うん、やさしい人だよ」

 一孝は言った。その目はうっすらにじみ始めていた。

「いい加減帰ろう。緑が夕飯作って待ってる」

「そうだね、一日空いただけなのにすごく懐かしい」

 私たちは自転車に二人乗りして帰った。

 夏の長い日を、暗がりが覆おうとしていた。理名ちゃんもこの夕焼けを見ているだろうか。ここに海はないけれど、私たちは同じ空を見ている。


 夏休みも残り数日になっていた。

 私は今日も今日とて施設のボランティアに精を出していた。

 遺灰を供養したいと言っていた施設の人たちは、手ぶらで帰ってきた私にあきれはしたが、それが彼女の望みなのだろうと納得してくれた。

 休憩時間。私は施設内の木の下にスコップで穴を掘った。

 子供たちが、なにをしているのかとたずねてきた。

 私は答えた。

「お手紙もらったから、お手紙を返すの。掘り返しちゃだめだよ」

 もしも魂というものがあるならば。

 身も心も海とひとつになったその孤独な魂に、ほんの少しでもこの場所の未練は残っているのだろうか。

 そう祈りながら、私は短い手紙を書いて、真っ青なパズルのピースと一緒に、彼女の育った施設の片隅に埋めた。

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