クイーン・オブ・インセクト
そこは駅だ。
プラットホームを見上げる線路わきの扉から出てみれば、異様な虫のねぐらが広がっていた。
鈍行や急行を乗り分ける各階プラットホームはもちろん、隣接する小田急百貨店の天井をもブチ抜いて女王蟻の巨体が壁にうっそりと張り付いている。
「ここをコロニーにするつもりか」
今までの虫は外形こそ地球の虫を模していたが、生態は画一的に非社会性昆虫の形態を取っていた。つまり、産んでお終い、あと頑張ってね。
さらに言えば、巨大化に偏重する進化は恐竜的ともいえる。強いこと、力があること、領域を制圧できること……それが今までの虫が選んだ"適者生存"だったのだ。
しかし、生態も蟻や蜂に似てきたとすれば、それは脅威だ。
巣を固めて充分に繁殖するまで守られてしまうと、これまでの比ではない危機となる。なにせこの"虫"には天敵がいない。
「いよいよ人類滅亡まで秒読み、ってところね。……この"虫"を見過ごしてしまったら」
鉈を強く握る。
強引すぎる作戦の理由が分かった気がした。
この繁殖方法を生得した虫を生かしてはならない。
ここで全ての卵を潰し、根絶させなければならないのだ。
だけど。
背後を振り返る。
片腕が歪にねじれ、脂汗で前髪を貼りつかせる少女を。
「ごめん。私、逃げる手伝いはできないみたい」
「謝らなくていいですよ」
青い顔のまま彼女は笑い、拳銃を構えた。
「あたしも同じですから」
「……ありがとう」
改めて虫を見据える。
目的の卵は女王蟻の足元にあった。
さぞ大量に産んでいるかと思いきや、たったの三十個ほどだ。カエルが一度に一万個産卵することを考えると過少に過ぎる。巨大化しすぎたため繁殖しづらくなったのかもしれない。
蟻に見られる"お世話係"は、この虫にも存在していた。四匹だ。巨体の割に慎ましい生活習慣には感心だ、殺しやすい。
プラットホームの階段は、瓦礫こそ多いものの通れそうだった。上層から頭に直接飛びつけるだろう。
あたりをくまなく探して、ため息を吐く。
「誰も、たどり着いてない……」
味方の影ひとつ見当たらない。
極論を言えば、仲間の死体があっても嬉しかった。武器や物資を回収できるからだ。私たちの装備はそれほど逼迫している。
「立往生しているのかもしれません。新宿駅の地下が崩れたから」
「なるほど……作戦目的がコレなら、中断が許されるわけもない。今ごろ、穴を掘ってるかもね」
だとすれば気の毒な話だ。たかってくる虫に対応しながらの掘削は厳しい戦いになるだろう。
私たちも、手持ちの札で勝負を仕掛けるしかないらしい。
私たちが作戦を達成すれば、ひいては今も生き残っている少女兵士たちを助けることにもつながる。失敗はできない。
「ねぇミカ。武器、交換しない? ブースターがないと的確に虫を刺せないと思うんだ」
「ダメです。おあつらえ向きに、接近できる足場が伸びてるじゃないですか。囮にブースターを使わせてください。その足じゃ陽動しながら逃げ回ることはできませんよね?」
私はため息を吐いた。
時間は限られている。結論は急がなければならない。
「私が先行する。階段で回り込んで女王蟻に接近しよう」
「フォローします」
身を低くして急ぎ足に飛び出していく。
狭い空間なら蟻の触角が空気の動きや臭いの成分に気づいたかもしれないが、伽藍と化した地下空間では望めないらしい。卵の周りをうろつく"お世話係"に気づかれることなくホーム出口の階段までたどり着けた。
装甲の筋力補助はありがたい。不自由な足でも蹴れば跳べるし、不器用ながらも走れる。瓦礫を避けながら階段を駆け上がり、拍子抜けするほど簡単に私たちは階層を登っていった。
「しっ!」
踊り場から顔を出して、彼女を手で制する。
蟻がいた。
「支援射撃はなしで。音で気取られたくない」
「……分かりました」
「幸い、女王蟻の顔はこの先だ。虫を潰したら、そのまま一気に仕掛ける。想定外があったら臨機応変」
虫の動きが止まった。
ささやきを感じたらしい。あれが蟻なら、襲われたときに警戒フェロモンを発するのだが……"虫"であればどうだろう。
そんな疑問を心から蹴り出して、拾った瓦礫を遠くの壁に投げる。衝突音に顔と触角を向けた虫に目がけて駆けだした。死角から鉈で斬り殺す。
一息つく暇もあればこそ。無事な片足の駆動を全力で回し、疾駆する。
駅ビルの商店街だったフロアを抜け、崩れたテナントを踏みにじり、傾いた床を跳ぶ。縁から女王蟻の頭が見えた。
「しゃっ」
幅跳び。
浮遊感に脚と腰と胃の腑の底を洗われる。ぶち抜いた高さは伊達でなく、見える床は眼下に遠い。迫る虫の黒い眉間に向けて鉈を振り上げ、
叩きつけた。
が、
「浅い?!」
ぐらりと体が傾く。
刃渡りの半ばまで埋めた鉈が糸を引いて抜け落ちた。腕を振って姿勢を立て直し、虫の胴に鉈と指を突き立てて留まる。身体の重さでずり落ちて、虫の表皮を削っていった。
「え……あれ?」
おかしい。
漠然とした違和感が形を成す前に、絹を裂くような悲鳴が上がる。
「ひぃぃ! 虫、虫がッ!」
「っ、逃げて! 跳べ!」
頭上のミカがハンドガンで応射しながら穴の端を走っている。数匹の蟻が垣間見えた。鉈のない彼女は満足な応戦ができない。
私は女王蟻の肉を握り、登る。今一度、女王蟻の頭蓋に鉈を叩き込むために。
非情だが、優先順位はそちらが上だ。忸怩の思いを蟻の肉ごと握りしめて、折れた脚で蹴りながら、可能な限りの全速力で這いあがった。
首にたどり着いて、気づく。
遅かった。あまりにも頭が鈍い。根本から間違えていた。
致命的なドジを、また踏んだ。
「こいつ、死んでる!」
鉈は脳に達しなかった。私という邪魔者が胴に入るあいだもそうだ。
身じろぎひとつしなかった。
この虫はとうに死んでいる。
はっとして顔をあげた。
蟻を押し留めきれなくなった彼女は、穴から跳んだ。ブースターを噴射して“女王蟻”から離れていく。
「違う! 逃げて!」
叫びながら見下ろして探す。
足下、見えた。
お世話係であった蟻たちが、守っていたはずの"女王蟻"から離れていく。侵入者に怒りを表すように触角を振り回し、ミカの着地地点へと。女王蟻の死体を尻目に、落ち行くミカを殺しに向かう。
「くっ!」
跳べない。私の推進剤は切れている。
ミカに届かないばかりか、高所からただ落ちるだけでお終いだ。
拳銃を抜き、三匹の蟻に向けて連射する。遠い。有効射程外だ。肢の一本も落とせずにストレージすべて撃ち切った。三匹の進撃は食い止められない。
鉈を。投げてどうなる? 彼女は片腕が折れている。受け取ってもらうにしても、一匹仕留めるにしても、同時に追撃する三匹すべてには対応できない。
……三匹?
「まさか!」
三十個ある卵の一つが、一回り大きくそして黒い。卵に人間大の蟻が寄り添っている。お世話係だと思ったうちの一匹だ。
女王はこの巨大蟻じゃない。
この群れに女王蟻がどこかにいる。でなければ、この場に蟻の群れはいない。
つまり。
あいつを殺せ。
「くっ、おぉ――おぉおおおおおおおお!!」
跳んだ。
噴射ができれば下に加速するところだ。地球だけを味方につけ、体重と膂力の全てを鉈の切っ先に込める。
気づいた虫がたじろいで、
その首の隙間に打ち込んだ。
ばごんと駅のホームが砕ける。
足から緩衝剤が蒸発し、陽炎が周囲に立ち上っていく。
虫を殺す特別な鉈は、未だ折れもせず歪みもせず、屹然と刃をたぎらせた。
手首を返し、切っ先を脇の後ろへ流して腰を落とす。
「もう誰も、お前らなんかに――殺させない!!」
走る。
女王蟻の、断末魔のような警戒フェロモンが攻撃の標的をミカから私に向けさせていた。三匹のお世話係が私を振り向き、顎を掲げて迫ってくる。
すれ違うように虫の顔面を斬り捨てた。腹を足場に跳ぶ。
鉈を肩に担ぎ、突進してくる虫の首に切っ先を引っかけて、鉈で受けて撥ねられる。虫は首を傾げたような恰好で、千切れかけた首を追ってプラットホームから転落した。
そして、最後の生き残りに向けて鉈を振りかぶり、
「だァッ!」
全力で、投げた。
びッと空を裂いて飛ぶ鉄塊は、過たず蟻の胴を串刺しにする。
それで私の役目は充分だ。
「とぉおおおおおおう!!」
リミッターを解除して推進剤の限り浮遊していたミカが、串刺しにされて悶える蟻に飛びついた。鉈を握り、振り抜いて、真っ二つに引き裂いていく。
吹っ飛んだ蟻の頭蓋が転がって、顎の動きがゆっくりと止まる。
ミカは鉈を振り上げたままへたり込んで座ってしまった。
「仕留め……ましたか?」
虫は動かない。
不安そうに私を見る彼女に向けて、親指を向ける。
「ナイス」