最終話 アルカ、その人生
微睡みから目覚める――はずが、時計を見ると十五時を過ぎていた。ちょっとの昼寝のつもりで椅子で眠っていたというのに。
――まずい
どうやって遅れを取り戻すか考えながら、リズリアは急いで椅子から立ち上がる。だが、なぜか足が動かない。足がもつれ、立ち上がる勢いのまま、床に投げ出される。
「大丈夫か?」
しかし、床と激突することはなかった。アルカが受け止めてくれた。
「ええ……ありがとう。足が動かなくて…それより――早く公務に戻らないと」
「リズリア」
リズリアには、アルカの声が随分と老いたように感じた。が、それより寝坊の遅れの挽回に思考を切り替える。
「もう、公務は無いんだ」
「? どういう…ことですか」
その言葉に思考が中断される。アルカから伝わる感情に嘘はない。余計に混乱を招く。
「そうだ…! ヒオリは…? ヒオリはどこですか?」
「ヒオリは――死んだよ。リズリア、俺の手をよく触ってくれ」
思考が追いつかない。だが、アルカの言う通りに差し出された手を、検めるように触れる。
「――そう…そう、でしたわね」
その手は、まるでしわがれた枯れ木のようだった。かつての十四歳の少年の若さは、とうに過ぎ去っていた。
おかげで思い出す。あれから五十二年が経過したことに。
ヒオリは最期まで元気だった。日課の運動をこなしたあと、昼寝をしたと思うと静かに逝った。享年六十八歳、安らかな死だった。
「あれからもう…それだけ経ったのですね…」
リズリアはぼやけた記憶を懸命に手繰り寄せる。しかし、思い出せない。寄る年波に蝕まれ、丸ごと洗い流されたような感触に頭を抱える。
「大丈夫だ。俺が憶えてる」
欠落した記憶を補うように、アルカが一から話してくれた。王国のこと、世界のこと、身近な人たちのこと。リズリアはその言葉から徐々に思い出す。そして、生涯の後悔も思い出す。
「私は…約束を守れていないじゃないですか…!」
リズリアはアルカの事件以降も、懸命に政務に励んだ。誰一人として犠牲にしない、そう誓った。だが、実際は完璧ではなかった。
犠牲をゼロにできなかった。
「もっとできたはずなのに……。ごめんなさい……ごめんなさい」
リズリアは服の裾を握り締め、涙を流す。その謝罪は遠くへ向けられていた。
「……連れていきたい場所があるんだ。一緒に行こうか」
アルカは明るい声でそう言い、手拭いを渡してくれた。
「どこに?」
「リズリアが頑張ってきたことがわかる場所だよ」
◇
アルカはリズリアを車椅子に乗せ、病院に着く。中へ入ると、薬品の匂いが鼻をつく。アルカは看護師に案内され、ある部屋の前に着く。
部屋に入ると、多くの子供たちがこちらへ駆け出して来る。アルカとリズリアはすぐに囲まれる。子供たちはその訪問に喜んでいるようだった。
「今日は、難病の人たちを慰問する日なんだ」
看護師から整列するよう言われた子供たちが、次々とリズリアと握手しに来る。リズリアは一人ひとりの手を丁寧に握る。
「病気で苦しかったけど、リズリア様のおかげで今は元気なの!」「ありがとう!」「ここにいるみんな、リズリア様が好きだよ!」
子供たちが思い思いにリズリアへ言葉を掛ける。リズリアは嬉しいように微笑んでいた。
リズリアは在位中、難病に苦しむ子供への援助を進めた。当時は税金の無駄遣いだと反対されたが、今では評価されている。
子供たちとの交流はすぐに終わり、リズリアは子供たちに向けて手を振る。
慰問のあとの予定はない。アルカはリズリアを連れて王宮へ戻ろうとしていた。他の護衛はいらない。アルカに勝てる人間はいないからだ。そのため、大勢の護衛を連れて移動する必要がなく、リズリアはいつもより穏やかな様子だ。
帰り道、子供同士が遊ぶ声が聞こえてきた。それは孤児院で暮らす子供たちだった。子供たちはもう家に帰る時間だと言われ、神父に手を引かれていた。
以前の孤児院は、子供を保護する際に支給される助成金目当てに、子供にまともな住環境を与えなかった。しかし、リズリアはこれを改善し、今の孤児院は真っ当な教育機関へ変わった。
「――犠牲のない世界、それは人類の命題だ」
アルカは、子供たちのほうを向くリズリアへ話しかける。
「だけど、実現は難しい。不可能かもしれない。でも今日見た通り、リズリアは最善を尽くした。そうじゃなきゃ、この光景は作れないよ」
「……それでも…」
リズリアは納得できないように呟く。
確かに、リズリアが在位中に掲げた施策は全て成功したわけではない。失敗も多かった。だからと言って、怠慢だと断じることはできない。リズリアが全力を尽くしたということはアルカが誰よりも知っている。これまで、毎日のようにそう言ってリズリアを励ましてきたが、リズリアが納得する日はなかった。リズリアに届く言葉を、アルカは持ち合わせていなかった。
そのとき、アルカは何かと意識が繋がるような感覚が走るのを覚える。
「もう、いいのか?」
『うん、もう行くよ』
そこは内念世界だった。アルカは五十二年ぶりに咬合結界と対面する。
『逆に、君はまだ生きるのかい? ヒオリは死んだのに。不老は捨てたんだろう?』
あれから、アルカは遺装の能力である不老を自ら捨てた。人として、ヒオリとともに時間の経過を歩むために。
「ヒオリからリズリアのことを頼まれたからな。俺は…一番最後に死ぬよ」
『そうかい』
咬合結界は聞いておきながら、興味無さそうに返事する。徐々に、内念世界が狭まる。もうすぐ別れのときがやってくる。
『最後に、リズリアに伝えてほしいことがあるんだ。――――』
「ああ」
アルカの意識が現実に戻る。咬合結界がこの世から去ったのを感じた。
「リズリア」
アルカは、リズリアへ咬合結界の言葉を届ける。
『ありがとう、お疲れ様』と。
「うん……!」
涙を流すリズリア。たったそれだけの言葉だが、リズリアには何よりも響く、報いだった。
◇
アルカは王宮に到着し、リズリアを侍従に託す。そして、一人である場所に向かっていた。
「ごめん、来るのが遅れた」
そう言って、アルカはヒオリの墓前に立つ。
ヒオリの墓は、当人の希望で王宮の共同墓地に埋葬された。安らかな最期だった。傷口を塞ぐ肉片に異常はなかった。寿命を全うしたということだ。悲しいが、仕方がないとアルカは納得していた。
アルカは墓前で片膝をつく。そして、九本に束ねた赤いバラを供える。
「今でも思い出すよ――」
結婚式の日を。つい先日のことのように思い出せる――
祝福の声に包まれる。
微笑むムナ。
相変わらず酔っ払っているチル。
笑顔のヒナ。
涙ぐむルード。
拍手を送ってくれるツアー。
涙を流すリズリア。
花嫁と対面する。
ヒオリ、君はいつも美しい。けれど――白無垢の君はより一層、美しかったよ。
完




