第一章 ~『土下座の要求』~
講義が始まり、時間が過ぎていく。王国の歴史に関する講義は、シンシアにとって既知の情報も多いが、それでも知らない知識や五年の間に新発見された事実も多い。
学びなおしも悪くないと、真剣に耳を傾けていると、あっという間に時が過ぎ、休憩時間になっていた。
(廊下を歩いてリフレッシュでもしましょう)
シンシアは賑わう廊下を進みながら、他の教室を一瞥する。遠目からでも分かるほど整った顔つきの青年――アレンが友人と談笑している姿が視界に入った。
(王族も他の学生と一緒に学ぶのですね)
この学園の生徒は貴族が中心であり、将来、王国を支えていく者たちばかりだ。その貴族たちとの交流が、将来的に王国の統治にも役立つとの判断から通っているのだろう。
(それにしても広い学園ですね)
廊下の突き当りまで辿り着くと、足に疲れが溜まっていた。移動するだけで一苦労である。
(そろそろ戻りますか)
来た道を戻り、シンシアが教室に戻ると異変が起きていた。彼女の机の周辺に人が集まり、騒ぎ立てていたのだ。
「どうかしましたか?」
「クラリスさん、これ……」
シンシアの机には埋め尽くすほどの落書きがなされていた。『成金』や『金で婚約者を買った女』などの罵詈雑言が目立つ。捻りのない虐めだった。
「酷い事をする人もいますね」
「ごめんなさい、私たちが教室に残っていれば……」
「リゼ様たちは悪くありませんよ。席を外したのは私もですから」
犯人が誰かは分かっている。間違いなく、シャリアンテだ。彼女もそれを暗に理解させようとしていたのか、ニヤニヤと笑みを浮かべながら近づいてくる。
「随分と恨まれているのね~」
「私はあなたが犯人だと疑っています」
「無実の私を疑うなんて酷いわね。やっぱり成金は性格も悪いのかしら」
教室に嘲笑が広がっていく。だがシンシアは舐められたままの状況を許すタイプではない。反撃の狼煙を上げるように、口元に笑みを浮かべる。
「シャリアンテ様が無実だと信じましょう」
「ふん、分かればいいのよ」
「ですが罪には罰を与えなければなりません。この机は私個人の所有物ではなく、学園所有の公共物です。つまり故意に破損させれば、懲役刑もありうる重罪です」
「へ、へぇ~」
事態を重く捉えるシンシアの発言に、シャリアンテは戸惑いを示す。だがまだどこか余裕があった。
「でも目撃者もいないことだし、誰が犯人か分からないでしょう?」
「いえ、分かりますよ。筆跡鑑定をすればいいんです」
「はぁ⁉」
「私が憲兵を呼んできますので、証拠の保全をよろしくお願いします」
「ま、待ちなさい!」
廊下に飛び出そうとしたシンシアを呼び止める。その声は震えていた。
「そこまで大事にしなくてもいいじゃない」
「どうして、そんなに慌てるのですか? あなたが犯人ではないのでしょう?」
「そ、それはそうだけど……ひ、筆跡鑑定なんて無駄に終わる可能性が高いわ。もし利き手と反対の手で書かれていたら証明できないじゃない」
「ご安心を。いじめをするにしても、物的証拠を残すような馬鹿ですよ。筆跡鑑定に頭が回るようなら、最初からこんな真似しませんから」
「誰が馬鹿ですって!」
「なぜあなたが怒るのですか?」
「と、とにかく、許してあげて。きっと悪気はなかったはずだから」
「私、やられたらやり返さないと我慢できない性格なので……それに罪の意識があるなら、名乗り出て、私に謝罪するはずですよね」
「な、なら私が代理で謝るから!」
「犯人ではないのにですか?」
「そうよ!」
苦しい主張だ。誰もがシャリアンテが犯人だと気づいている状況で、彼女への追求を止めるほど、シンシアは甘くない。
「では土下座をお願いします」
「え?」
「嫌なら構いませんよ。犯人には牢屋での生活を満喫してもらうとしましょう」
「分かったわよ! 土下座すればいいんでしょ」
悔しさで身体を震わせながら、シャリアンテは膝を折って、頭を床に押し付ける。その惨めな光景に嘲笑が広がっていくのを自覚し、彼女の震えはさらに大きくなった。
「おい、なんの騒ぎだ⁉」
土下座するシャリアンテの傍に駆けつけたのはレオパルドだった。彼女を立たせると、鋭い視線をシンシアに向ける。
「説明しろ。なぜこんな酷い事をするんだ?」
「あなたは私の婚約者のはずですよ。なぜシャリアンテ様の味方を?」
「こ、これは……土下座している女の子がいたら、貴族たるもの義憤に駆られるだろ」
「正義は私にありますよ。その証拠に私の机をご覧ください」
「……っ――なるほど。事情は呑み込めた」
シンシアの恐ろしさを知るが故に、あの土下座がいじめの報復だと悟ったのだ。分が悪いと理解し、シャリアンテと共に教室を後にしようとする彼だが、そこにアレンが現れる。
「殿下……どうしてここに?」
「レオパルド、君の婚約者と昨晩友人になってね。その友人が騒ぎの中心になっていると聞いて、駆けつけたのさ。といっても、僕の力がなくとも、すでに円満解決したようだね」
「円満なのでしょうか……」
「謝罪で済んだのなら十分円満さ。僕から君たちに忠告できることはただ一つ。喧嘩を売るなら相手を見てからにしたほうが良い。でないと、火傷するからね」
棘のある忠告に、レオパルドはグッと歯を噛み締めながら、この場を去る。見せしめに近い結果を残したことで、もう虐めが起きることはないだろう。
(私が原因でクラリスがいじめられては堪りませんからね)
シンシアが土下座までさせたのは、抑止力を生み出すためだ。目的を果たしたことで、安堵の息を吐く。
「改めて伝えるよ。君は素晴らしいね」
アレンが拍手を送る。その瞳は憧れで満ちていた。
「私なんてつまらない人間ですよ」
「天才は皆そうやって謙遜する。今回の落としどころも素晴らしかった。もし本当に憲兵に突き出していたら、きっとクラスメイトたちから距離を置かれていただろう。だが謝罪だけで許したことで、君の居場所を確保しつつも、シャリアンテの求心力を奪い、派閥を瓦解させた。これからの君の学生生活は盤石になるだろうね」
「……買い被りすぎですよ」
「ふふ、ますます君に興味が湧いたよ。将来が楽しみだ」
柔和な笑みを浮かべるアレンは、まるで華が咲いたように輝いていた。彼がいれば、王国も安泰だと、シンシアも笑みを返すのだった。