第一話 千日の稽古を鍛とする
赤ん坊から大人までの話はあまりダラダラ書くのもなんなので、ダイジェストのように書きました。
薄暗い洞窟の奥底。
明かりといえば、そこかしこの壁に生えた苔が灯す微かな明かりだけ。
何処からか、ぴちょん……と時折水滴が落ちる音が響く中。
ざらついた地面にべたりと着けた足をしっかりと踏みしめ拳を構える。
目の前にはむき出しの硬い岩壁。
光量の乏しい苔の光りが照らす岸壁は、所々尖っており触れれば皮膚をたやすく切り裂くだろう。
息を細く長く吸い、ゆっくりと吐き出す。
洞窟の中の空気は冷えているため、微かな明かりに照らされる中、吐き出した息は白く形作られる。
拳を構えながらも全身の力を抜く。
意識を集中し。
全身の動きの全てを自己の制御下に置く。
足、腹、腰、背中、首、腕。
深く深く自己の中に没頭し、肉体の全てに意識を傾ける。
筋肉の動きや血流の流れから、やがて形のない力の流動へ。
ただ立っているだけでも、生き物は筋肉を使用し、そこから生まれた力は様々な方向へ流れていく。
無意識に使用する筋肉や力の流れに意識を集中し、それを全て制御下に……。
「―――ぎっ―――」
呼気を鋭く吐き出し。
地面を踏み砕く。
地面を蹴ることで生まれた力が、足から膝、そして腰へと昇っていく。
股関節を意識し、骨盤を鋭く回す。
足から昇り始めた力は、膝、腰、肩、肘、手首と伝う度に大きくなり。
拳に辿り着いた時には、その力は始まりの倍は軽く超え。
水滴の音だけが小さく響く洞窟の中に、硬い岩壁が砕ける音が響き渡った。
びゅひゅい、と息を吐き出し、右手を岩壁から引き抜くと、何時の間にかびっしょりと汗が拭きだした額を左手で拭う。
目の前の岩壁に出来た穴の中に死線を落とし、指を突っ込みなぞり上げ、その滑らかなさを確認した後、右手に視線を落とす。
「ぷぎゃ、ぷぎょぎょ」
右手には傷一つなく、微かな痺れも残っていない。
闇に慣れた瞳に、己の拳を映す。
指や関節の数は記憶にある人と同じ。
形も特におかしなところはない。
指を開き、苔の光に手を翳す。
黄ばんだ薄汚れた白い拳が浮かび上がる。
違いを上げるとすれば、サイズがおかしいといったところだろうか。
特大のイモムシのような太い指に、野球のミットのように巨大な手のひら。
傷だらけの拳を開いたり閉じたりを繰り返して問題がないことを再確認すると、足元に置いていた毛皮を手に取り、タオル代わりにしているそれで身体に浮いた汗を拭き始める。
首、腕、腹、腰、足と順番に汗を拭きながら、自分の身体を見下ろす。
太い。
自分の身体ながら、見る度にそう思う。
子供の胴よりも太い首に、成人男性のウエストを遥かに超える太い腕。
胴体はまるで樽のようであり、いや、下手したらそれよりも太いかもしれない。
そんな上半身を支える足もまるで巨木のように太く、そのためか短く見える……いや事実短いのだろう。
一見すれば太っているようにも見えるその身体だが、注視すれば直ぐにそれが間違いであることは分かる。
太いとしか言い様がない肉体には、一欠片も余計な肉の姿はないと。
巨大な岩を削り上げて出来たかのような、肉体には一切の贅肉はなく。
その全てが鍛え上げられた筋肉であった。
全身にはうっすらと血管が浮き出ており、腹筋は完璧に六つに割れている。
ぼこりと浮き出た胸筋は、まるで横倒しした樽を二つ並べたようだ。
歪に見える程鍛え上げられた肉体。
一目見るだけでその馬鹿げた力を感じさせる全身からは、先程の鍛錬で生まれた熱が収まっていないのか未だ湯気が出ている。
体内に渦巻く熱を吐き出すように、大きく息を吐くと、手に持った毛皮を壁の隅に放り捨て、新しい毛皮を足元から拾い上げた。
手に持った新しい毛皮で、最後に残った自分の顔を拭く。
所々散発的に生えている髪ごと頭を拭き上げると、ゆっくりなぞるように顔を拭き始める。
人とは明らかに違う凹凸の激しい顔を。
鼻が突き出た獣の……豚の顔を。
「ぶぎゃ、ぎ……」
顔を拭きながら、壁に刻まれた傷を数える。
『正』と刻まれた傷は、合計で二百は超える筈だ。
自分が豚の顔を持つ二足歩行の化物になってから、いや、正確にはここで鍛錬を始めてから日が昇った数。
鍛錬を始める前を合わせれば、確実に三年は過ぎているだろう。
自分の知る一年がこの世界の一年と同じならばだが。
あの日……己の中に刻まれた知識の中で、豚人と呼ばれる化物として自分が生まれた日から、三年以上が過ぎた。
あの時、目が覚めた自分には、知識はあったが己が何者かという記憶がなかった。
それが幸いしたのかそれとも他に何か要因があったのか、自分が闇の中に蠢く白い芋虫のような生き物―――オークの赤子になっていると理解した時に生じた混乱や驚きは、そこまで大きなものではなく、いや、もしかすると余りにも大きかったため許容量を超えたのか、パニックを起こすことはなかった。
だからといって、何もないというわけでもなく。じわじわと布に水が染み込んでいくように、現状を把握する毎に、精神状態は酷くなり。
最初の頃は、引きこもりのような状態が続いていた。
ずっと隅の方で丸くなり、何も食べず何も飲まず現実から逃げるように寝てばかりいたのだ。
自分が目を覚ました場所は、生まれた赤子を置いておく部屋のようなものであったのか、奥には仕切りがあり、時折そこから大人のオークが食事を持って現れた。
食事といっても、ただの生きたイモムシだ。
例え現実逃避していなくとも、食欲が湧くようなものではない。
ついでに言えば、飲み物も岸壁から滲む水滴が唯一の飲み物であり、それを子供のオークは舐め取って飲んでいた。
そのまま時が過ぎれば、自分は確実に死んでいただろうが、現実はそうはならなかった。
切っ掛けは、本当にくだらないものだ。
食事係のオークの配給方法は、一匹一匹に手渡すようなものではなく、大量のイモムシをオークの子供に目掛け放り投げるというものであった。
いい加減に放り投げるためか、何時もは隅の方で丸くなっていた自分の所まで飛んでくることはなかったのだが、その日は偶然届いたのだ。
そのため、イモムシを求め子供のオークが寝ている自分に向かって襲いかかってきた。寝ていたためそれに気付くのが遅れ、目を覚ました時には既に遅く抵抗する暇もなく、イモムシを求める子供たちに蹴られ、踏まれ乗っかられ……俺は―――キレた。
訳の分からない状況に放り込まれただけでなく、知識だけがあるばかりで自分が何者か分からないという不安定な精神状態の時に、いきなり蹴られたり踏まれたりしたのだ、頭にキても不思議ではない。
部屋の中にいる子供のオークは全部で三十匹以上。
その全てが自分の周りに落ちたイモムシを捕まえるため押し寄せていた。
二足歩行しているものもいれば、四足歩行しているものもおり、幸いにして動きはそこまで早くはない。
自分も含め、その時はまだオークの子供たちに現在体格にそこまで差はなかった。
少しでもたくさん取ろうと、まるでバーゲンセールに群がる大阪のおばちゃんのように、自分の周りに落ちたイモムシに群がるオークの子供たちは、必死に地面に転がるイモムシを捕まえ始める。
足元にいる俺のこと等欠片も気にすることなく……。
十匹以上のオークの子供に蹴られ踏まれ続けた俺の頭の中は、体中に鈍い痛みが走る度、怒りのバラメータのように赤く染まり、視界が狭まると共に自分の上で暴れる豚どもしか見えなくなる。
怒りに染まった思考に流されるまま、自分の上に乗ったままの子供の内一匹の足を掴み関節を極めると、突然の痛みに悲鳴を上げる子豚を気にすることなく容赦なく決めた膝を砕いた。
膝関節を砕かれ甲高い悲鳴を上げる子豚を自分の上から押しのけながらゆっくりと威圧するように立ち上がると、足元にいたオークの鼻を蹴り上げ吹き飛ばし、悠々と地面を這うイモムシを二、三匹鷲掴みにし口の中に放り込み、驚き固まる子豚たちを睨みつけた。
自分の中に残る知識の中に、幼虫はクリームの味がするというものがあったが、確かに見た目はグロいが味はそこまで酷いものではなかった。
予想外に美味かったのが良かったのか駄目だったのか? 冷静さを取り戻した俺は、思い出したように空腹を訴える腹に応えるように、固まったままの子供のオークを前に俺は次々にイモムシを拾っては口に放り込んだ。
腹が膨れれば、気分も上がると言うが、大分精神が回復した俺は、久しぶりの栄養により勢いよく回り始めた脳でこれからの事を考えに考え続けた結果―――開き直ることにした。
もちろん長々と葛藤した結果そういった結果になったのだが、一言で言えばそう―――なったもんはしょうがない―――ということだ。
そういう訳で、前向きになった俺がまず始めに思ったことは、現状を把握しなければといものであった。
そう……ここが何処で、どういった世界なのかということ等だ。
とは言え子供の今ではどうあがいても何かが出来るわけもなく、現状何かを探ることも調べることも出来ないことは明らかである。
ここから逃げ出そうと思えば無理ではないかもしれないが、上手くいったとして子供の今、状況が全く分からない中、逃げ出したところで生き残れる可能性などないに等しいだろう。
だからと言って、ここから出られるようになるまでただ待ち続けるのも時間が勿体無い。
と、言う訳で、俺は身体を鍛えることにした。
食事を持ってくる大人と思われるオークを見て思ったのだがとにかく色々と酷い。
臭いし醜いし更には滅茶苦茶メタボ。
もしかしたら食事係のオークだけが特別そうなのかもしれないと思うのは、流石に都合が良すぎるだろう。
実際、その兆候はこの部屋の中にいる子供の中にも見えるからだ。
ならば、そうならないためにどうすればいいのかといえば、ただ一つしかない。
臭い醜いはどうも出来なかもしれないが、肥満だけは今からでもなんとか出来る。
そう、鍛えるのだ。
弛んだ肉体を引き締めるのだ。
脂肪を全て筋肉に変えるのだ。
それに頼るものがこの身一つしかない今、唯一の武器は肉体である。
鍛えるのは必要だ。
そう決意した時から、俺のトレーニング漬けの日々は始まった。
基本的な腕立て腹筋から、様々なトレーニング方法により全身の筋肉を余すことなく鍛え始める。
子供の頃の過剰な筋肉トレーニングは、成長を阻害すると聞くが、どうやらこのオークの身体には関係ないようで、毎夜成長痛を感じながらの睡眠が続くことになり、日々順調に大きくなっていった。
もしかして、他の子供の分の食事を食べたからだろうか?
気付けば自分の身体は他のオークたちよりも一回り以上大きくなっていた。
他のオークたちがだぶだぶと全身の弛んだ肉を震わせる身体よりも、摘むことすら不可能な程絞り込まれた筋肉の塊となった俺の腕、首、足、腹、胸等全ての部位が、だ。
その頃になると、部屋から出ることになる子供のオークが現れ始めた。
一定以上の大きさ、具体的には大人のオークの頭一個下程の大きさになった子供のオークが大人のオークに連れられ部屋から出ていくのだ。
そのため、成長著しい俺も、早々に部屋から出ることが出来たのだが、仕切りの向こう側だからといって、特に目に見えるような変化はなかった。
部屋の中と同じように、光る苔が生えた洞窟だ。
仕切りの外に出た俺は、何か見張りや指導員のような者が付くのではと思っていたのだが、結局そんな者がつくことはなく。俺は自由に洞窟内を回ることが出来た。
その結果色々と分かったことがあった。
例えば、この洞窟は外に繋がる本道からいくつも伸びた枝道からなる洞窟であることや、枝道の先には様々な部屋があること。
その中の一つが、俺がいた子供部屋だった。
オークたちが住むこの洞窟は、俺の想像以上に広く、本道から伸びた枝道でも高さは俺の身長の二倍は軽くあり、幅も二匹のオークが余裕で並んで歩ける程はある。外に繋がる本道は更に広く、枝道の軽く五倍はあるだろうか、しかも本道の奥には、体育館が丸ごと入りそうな程の巨大な空間が広がる奇妙な形をしていた。
洞窟内にはどこもかしこも光る苔が生えているためか、夜目が効くこの目と合わせれば全く視界には問題はなく、行動に支障は全くない。
そんな巨大な洞窟に住むのは、二百匹は超えるだろうオーク。
自由に行動することは出来きたのだが、二箇所だけ見張りが立っており確認することが出来ない場所があった。
一つは脇道の一つのとある部屋。
扉の前には二体のオークが門番として立っており近づくことも出来なかった。
もう一つは外。
洞窟から外へと繋がる唯一の場所には、同じように二体の見張りのオークが立っていた。
しかし、出口の近くに明かりが見えたということから、外には太陽が昇る世界が広がっているのだろう。
とまあ、色々と洞窟内を検索した結果、この洞窟に住むオークたちには、それなりの知能があるということが分かった。
見張りを立てていたり、その見張りが、棒の先に鋭い石のようなものをくくりつけた槍のようなものを持っていたことからも、人間に近い知能は持っているのかもしれない。
まあ、食事係のオークが何かの毛皮を腰に巻いていたことから、ある程度の知能はあるのだろうと考えてはいたため、それ程驚くことはなかった。
それと、一応言語のようなものはあるらしい。
何故らしいのかと言うと、オーク同士が何やら「ぷぎゃぷぎゃ」言い合っているのを見てそう思ったのだが……全く意味が分からなかったからだ。
しかし、何やら頷いたり首を振ったりしていたことからも、意思疎通は出来ているようには見えた。
オークたちにある程度の知能があり、言語らしいものがあると分かっても、俺は自分から積極的にオークたちの輪に入ろうとはしなかった。
言葉が分からないとか色々と理由はあったが、一番の理由は……臭いそして汚い、だ。
子供部屋にいた時から嫌な予感がしていたのだが、どうやらオークどもにはトイレと言う概念がないらしい。
つまりは、基本垂れ流しというわけだ。
言葉通り、生まれた時からそう言った状況で住んでいるため、否応なく臭いには慣れてしまったのだが、やはり現代日本の知識を持っているためか、その汚さには慣れることはなかった。
基本的に白い肌のオークであったが、そんな生活を続けたことからか、何時の頃からか、俺の白い肌の所々に黄ばんだシミのようなものができ始める始末。
外に出たいが、外の状況が分からないことには、いくら洞窟の中が嫌であってもそう簡単に出ることは出来なかったのだが、その機会は結構早く来ることになった。
子供部屋から出た数日後、俺は数匹の子供のオーク(殆んど大人のオークと変わらない)と共に、十体以上の大人のオークに連れられ外に出ることになった。
外に出る際、大人のオークから槍のようなものを渡されたことから、多分狩りにでも行くのだろう。
子供部屋から出た俺の食事は、何かの生肉や野球のバッド程の長さの何かの幼虫、そして果物であった。
この頃になると、もう色々と感覚が麻痺したのか、生肉や幼虫を食べることに殆んど拒否感は感じなかったが、これが慣れたからか、それとも別に理由があるのかは分からない。
食事に出てくる幼虫や果物等は、洞窟内で見かけたことがなかったため、外のものだろうとは思っていたのだが、やはり外に獲りに行っていたようだ。
他の子供のオークは、外に出ることを嫌がっているように見えたが、俺は嫌気がさしていた洞窟から出られること嬉しく、殆んど走るように外に出たのだが、洞窟から出た瞬間その足は止まることになった。
一言で言うと、洞窟の外は『巨大』であった。
久しぶり日の光に目を細めながら外に出ると、まず目に入ったのが巨大な木。
大人が何人腕を広げた長さと言ったものとは、文字通り桁が違う大きさ。
顔を上げても木の先が全く見えない。
冗談抜きで高層ビルと同じぐらいの大きさはあるだろう。
地面から出ている木の根っこは、家一件分は軽く超えている。
そんな木が、ズラリと生えているのだ。まるで、自分が小さくなったような気さえした。
匂いもまた凄く。
洞窟内の臭いで馬鹿になっていた鼻を、森の濃厚な緑の匂いが清涼剤のようにスッキリとさせ、まるで身体を内側ごと洗われているような気分にさせた。
まさに幻想的な光景。
森の圧倒的な姿に、暫らく呆けたように突っ立ていたが、大人のオークから背中を叩かれることで我に帰った俺は、神秘的とも言える森の姿に胸を高鳴らせながら森の奥へと進むオークの背を追いかけた。
それが、地獄への入口だとも知らずに。
疑問に思ったことがあった。
オークたちが住む洞窟の外に繋がる本道以外の脇道は、その全てがオークの手によって掘られたものなのだが、洞窟の壁は土ではなく岩である。
そう簡単に掘ることなど出来ない筈なのだが、これをオークたちは実に容易くこなす。
しかも素手で。
硬い岩をも砕く爪や腕力を持つ生物が、何故隠れるようにこんな洞窟に住んでいるのかと、俺は疑問に思ったことがあったのだが、それについて深く考えることはなかった。
だが思い直してみれば、穴などに住む生き物の多くは、外敵から身を守るため穴に住んでいるのだ。
洞窟の入口に立つ見張りのオークも、内ではなく外に身体を向けていた。
つまりは、外を警戒していると言うことだ。
岩をも砕くオークが二百匹以上はいるにもかかわらず、洞窟内に隠れるように住んでいるというところを、もう少し深く考えれば直ぐに分かる筈のことであった。
それにヒントもあった。
例えば洞窟に住むオークの数。
俺がいた子供部屋以外にも子供部屋があり。俺が子供部屋から出た次の日別の部屋から子供のオークが出てくるのを見たことがあった。そして、生まれたばかりと思われる十匹以上の赤子のオークが子供部屋に持って行かれているのも。
子供は次々に生まれ、赤子は数ヶ月で大人と変わらない姿になる。
だが、洞窟の中にいるオークは二百匹程しかいない。
他にも、外に出ていくオークが戻ってこない事など、ヒントは色々とあった。
だからもう少し考えれば直ぐに分かった筈なのだ。
洞窟の外。
神話で語られる世界樹のように巨大な木々からなる森。
そこに、岩をも砕くオークを超える化物がいるのだと。
血が赤いのは、燃えているからなのではないかと、そう場違いに思った。
濡れているにもかかわらず、火傷するように身体が熱いのは、全身を濡らす血が燃えているからだと。
鼻の頭から垂れた血が頬を伝い、噛み締めた歯の隙間を通り抜け口の中に入る。
ガタガタと全身が震えるが、足は一歩も動かない。
ただ、目の前の光景に怯え立ち竦む。
虐殺。
赤い絨毯が敷き詰められたように、紅く染まった地面の上には所々にパーツが落ちている。
蹂躙。
不意に、主を失くした腕が飛んできて、かなりの速度で顔に当たる。
しかし、衝撃も痛みも全く感じない。
暴虐。
空からナニかが降ってきた。
ばしゃり、と自分の中から出た液体で出来た水溜りにソレは落ちた。
屠殺。
くぐもった悲鳴を上げながら、上半身だけで地面を這ってこちらに向かってくる。
ゆっくりと、しかし必死にこちらに向かってくるソレが助けを求めるように手を伸ばし、その身体に影が差したかと思った瞬間、地面に大きな穴が開いた。
ボタボタと、粘ついた赤い雨が降り、地面を更に赤く染め上げる。
誘われるように顔を上げると、自分の目にそれが映った。
地面ごとオークを飲み込んだそれは、鋭い牙の隙間から真っ赤な血を垂らしながら喉を蠕動させる。
口の端に垂れた血を赤黒い濡れた舌で舐めとると、それは首を曲げ俺に顔を向けた。
目と目が合う。
『目は口ほどに物を言う』と言うが、それは事実だと確信した。
こいつは俺を食べようとしている。
それの目が合った時、何の疑いもなく理解した。
それはゆっくりと、まるで怯えさせるように口を開く。
大きく開いた口の端から、血と混じり合ったことからピンク色に染まった涎がボタボタと地面に落ちている。
空高くそびえる木々の枝葉の隙間から溢れる太陽の光に当たり、ぬらぬらと血と唾液に濡れた牙が鈍く光った。
生臭い、赤く染まっているように幻視してしまう程に血の匂いが充満した息が顔に、全身にかかる。
震えは止まらず、足は動かない。
頭も働かない。
何も考えられない。
顔は固定されたように迫る口を開いたそれの顔を見つめ続けたまま……。
不意に、俺を見つめるそれの目が歪んだ。
ニンマリと、まるで怯える俺をあざ笑うかのように。
ドクンッ! と、心臓が一つ強く鼓動した。
突然の急激な鼓動により圧せられた血流は、刹那の内に全身を巡る。
鍛え上げられた肉体を走る血管が浮き上がり。
真っ白に染まった頭の中が、血のように、いやそれ以上に赤く紅く染まっていく。
顔にかかった血が目に入ったのか、目の前が真っ赤に染まり。
痛い程激しくなる鼓動に応えるように、息も激しく荒くなっていく。
不快な生臭い臭いが消え、世界は色を無くす。
目に映るのは、大顎を開いたそれのみ。
そんな中、ゆっくりと粘性のある液体の中を進むように、大口を開けたそれが迫ってくる。
俺を見つめる目は、変わらず笑うように歪み、口を開けた姿から、まるで大声を上げて笑っているようであり――――――
――――――それが――――――酷く不快だった――――――
掬い上げるように振り上げた右拳は、迫るそれの顎を砕き貫くと、そのまま上顎まで突き刺さった。
強制的に顎を閉じさせられたそれは、餌の突然の反撃に怯むことなく、喉の奥で唸り声を上げながら矮小な俺を押しつぶさんとのしかかってくる。
自分の体重の軽く十倍はあるだろうそれが、俺を押しつぶそうと体重をかけてくる。
それの顎に突き刺さった腕は、思いのほか深く刺さっているのか、そう簡単に抜けそうにない。
まるで逃がさないとばかりに、それの顎に突き刺した腕が締め上げられる。
――――――都合のいいことに。
顎に突き刺さした右腕を起点にくるりと身体を回し、腰と膝を軽く曲げる。
押しつぶそうとのしかかってくるそれが、背中の上を滑っていく。
それの顎に突き刺さった右腕が持って行かれそうになるが、突き刺さった右拳を開き、肉を骨ごと掴み、全身に力を込め―――瞬間、鍛え抜かれた筋肉が倍に膨れ上がると共に、右腕を自分の胸元に引き寄せる。
根が生えたように踏みしめた足が、一瞬赤く染まった地面に足首まで沈む。
途轍もない重量のあるものが動く時に感じような、空間が揺れたような気配と共に音が消え。
刹那に生まれた静寂は、湿った土音に混じる乾いた音と共に崩れ散った。
もう一度、自分の身体を見下ろす。
無駄なく執拗なほど鍛え抜かれた体には、全身余すことなく無数に傷が刻まれている。
抉られたように溝のような傷や鋭い刃物に切られたような傷。
他にも針で貫かれたような円状の傷もあった。
全身に刻まれた傷の数は、大小合わせ軽く百は超えるだろう。
大きな傷は、どれも致命傷と言っても過言ではない。
三年―――その間行われた狩りの回数は、軽く百を超える。
一体……何度死にかけたことか……。
今も五体満足で生きていることが不思議なぐらいだ。
最初の頃は、生き残ることしか考えられず、狩りの内容は殆んど覚えていない。
回数が十回を超える頃になると、狩りに次第に慣れてきた。
日頃の鬱憤を晴らすかのように、獲物に襲いかかったりし始めたのがその頃からだ。
とは言え、基本的に獲物は自分よりも大きい化物ばかりで、更に言えば、自分たちが狩りに使う武器は原始的な槍や斧であり、それで獲物の皮膚や鱗、外骨格などを貫ける筈もなく、狩っているのか狩られているのか時折分からなくなる。
有効な武器がないという状況からか、何時しか俺は素手で獲物を狩るようになった。
理由は勿論ある。
何度も死線を彷徨ううちに色々と分かったことがあり、その中の一つが、俺に武器を捨てさせた。
『氣』。
それが本当に『氣』と言われるものかは分からないが、自分の中にある知識(漫画を多分に含む)に似たいたためそう呼んでいるだけなのだが。
俺がそれに気付いた切っ掛けは、最初の狩りで顎を貫いたトカゲを巨大化したような生物を、最初のように貫くどころか、素手でダメージを負わせることが出来なかった時であった。
洞窟に帰った俺は、その理由を考えに考えた結果、あることを思い出した。
それはまだ俺が子供部屋にいた頃、俺の上にばらまかれた餌に群がる子供のオークたちに足蹴にされ時、その中の一匹の足の関節を怒りのままに破壊した時のこと。
あの時の俺は、身体を鍛える前で、他のオークの子供たちと体格や力も変わらなかった筈なのに、まるでクッキーを割るように簡単に関節を破壊すことが出来た。
いくら関節が極まっていたとは言え、余りにも簡単に過ぎる。
子供のオークの関節を破壊した時と、最初の狩りでトカゲの化物の顎を砕いた時の共通点は―――。
―――『怒り』―――
それからは、ずっと瞑想……ではなく想像に耽るようになった。
何日も何日も様々な想像を膨らませ、あの時感じた怒りを再現しようと……。
あの時の力を得るために。
生き残るため。
だが上手くいくことはなかった。
自分の考えが間違っているのかとも思ったが、それ以外に思うところはないため、狩り以外の日は、洞窟の中で延々と想像と言うか妄想に耽る日が続いたのだが、結局成果らしい成果は上がることなく、ただの偶然だったのだろうかと諦めたかけたある日、新しい手がかりを掴んだ。
それは、自分の部屋でも作ろうと穴を掘っていた時のこと。
折角だからと、修行の一環として蹴りや突きで穴を掘り始めたのだが、光苔の光が届かない闇の中、夜目の効くオークの目であっても見通せない暗闇で無心に拳を振るっていくうちに、まるで催眠術に掛かったように俺の意識は段々と自分の内に向かっていった。
地を踏みしめる足。
揺れるように回る腰。
拳を振る際に動く腕。
その中に……。
最初は、筋肉の動きを感じた。
披露に鈍る思考の中、拳を振るうごとに動く筋肉の流れを。
次に感じたのは、全身を巡る血管を流れる血流。
心臓が鼓動する度に、全身を巡る血流の動きを感じた。
最後に力。
地を踏みしめた際に生じた力が、足の裏から膝に昇っていき、そこで溶けるように消えていくのを感じた
その感覚が何だが不快で、俺は膝で消える力を何とか消さないように動き始め……。
意識を取り戻した時、俺の腕は岸壁の中にあった。
硬い岸壁を、易々と貫く腕。
肩まで埋まで埋まった腕を引き抜いたことで出来た穴の中は、異様なほど滑らかであった。
その日から俺の日課は、穴掘りになった。
とは言っても、ただ掘るのではない。
動きの一つ一つに意識を傾け、丁寧に動かし、長い時間をかけて拳を振るい掘るのだ。
最初の一ヶ月は余り上手くいかなかったが、半年を数える頃になると、大分上手く出来るようになった。
殴って壊すのではなく貫く。
それはただ殴って壊すことよりも遥かに難しいことであった。
地を蹴った反発力を無駄なく拳まで届かせる。
完全に身体の動きを制御下に置くことで初めて出来る技。
砕くことなく岩壁を貫くことが出来るようなり、一年が過ぎる頃になると、右手だけではなく左手でも出来るようになり、二年目には足でも出来るようになった。
そして三年目の今、拳によって岩壁に生まれた穴の表面は、磨かれたように滑らかになっていた。
次話は、多分いきなりの急展開になる予定。




