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権利執行

第6話:謝絶

 岩峯信用金庫が破綻し、瀬戸徹朗が滝川信用金庫へと転籍してから数年の歳月が流れていた。季節は巡り、滝川の街に鮮やかな青葉が茂る初夏を迎えた頃、徹朗は三十代半ばの中堅職員となっていた。

 かつての岩峯信金とは異なり、財務規律も組織のガバナンスも厳格に統制された滝川信金において、「破綻金庫から流れてきた外様」という周囲の冷ややかな視線や、目に見えない壁は確かに存在していた。しかし、徹朗はかつて四千筆の複雑極まるゴルフ場担保を前に研ぎ澄ました不動産法務の知識、そして数学的な財務分析力を武器に、愚直なまでに実績を積み上げていった。

 その卓越した実務能力が本部に評価され、徹朗は新設された「経営支援部」のコアメンバーへと配属されることとなった。

 そこは、机の上だけで書類を右から左へ動かすだけの従来の審査部とは全く異なる部署だった。業績悪化に喘ぐ融資先のもとへ直接足を運び、その企業を「再生」へと導くか、あるいはこれ以上の焦げ付きを食い止めるために冷厳な「回収(経済的な幕引き)」を選択するかを現場で判断する、文字通り泥泥の最前線だった。年齢を重ね、様々な修羅場を仕切るうちに、かつて人見知りでいじめられっ子だった徹朗の対人交渉能力も、少しずつではあるが改善されつつあった。無機質な法理を、いかにして泥臭い「現場の交渉力」に変えていくか、それが当時の徹朗に課された最大の命題だった。

 二〇〇七年(平成十九年)六月、徹朗は部内で最も重い決断を迫られる案件を担当していた。

 地元で長年、自動車の細かな精密部品製造を営んできた老舗「阪倉さかくら製作所」から、起死回生を賭けた五千万円の追加融資の申し込みが入ったのだ。初夏の強い日差しが差し込む阪倉製作所の古びた事務所には、窓の外から飛び込んでくる蝉の鳴き声と、工場から漂う切削油の独特な匂いが濃く充満していた。

「瀬戸さん、頼む! この五千万があれば、新しいラインを立ち上げて、来期には必ず黒字化できるんだ。岩峯信金さんの頃からの付き合いじゃないか、見捨てないでくれ!」

 油と汗が染み付いた作業着の袖をまくり上げた阪倉一之かずゆき社長は、徹朗の前で木製のローテーブルを激しく叩くようにして熱弁を振るった。

 もしこれが、かつての岩峯信金時代であれば、「地域経済の維持のため」「長年の情」という曖昧な理由で、谷口審査課長あたりが稟議を通して傘を貸していたかもしれない。しかし、徹朗の数学的・論理的な脳細胞は、社長が誇らしげに差し出してきたバラ色の経営計画書の嘘を、データの上から冷酷なまでに暴き出していた。

 原材料費の世界的な高騰、主要取引先である大手メーカーからの度重なる単価引き下げ要請。直近の財務諸表と資金繰り表を詳細に突き合わせれば、この五千万円は新しいラインの投資などではなく、目前に迫った手形を落とすための運転資金に一瞬で消えることは明白だった。貸し付けたところで、会社の寿命をわずか数ヶ月延ばすだけの延命策にしかならない。そして数ヶ月後には、さらに膨らんだ負債を抱えてより悲惨な形で破滅するだけだった。

 徹朗はゆっくりと眼鏡を外し、阪倉社長の焦燥に満ちた目を見つめた。年齢と修羅場を重ねて身につけた、静かだが決して退かない交渉のトーンで口を開く。

「阪倉社長。大変申し上げにくいのですが……当金庫としては、今回の追加融資をお受けすることはできません」

「な、なんだと!?」阪倉社長の顔が怒りで瞬間的に真っ赤に染まった。「貸せないだと!? うちを潰す気か! 冷血漢め、破綻金庫の生き残りの分際で、偉そうに指図するな!」

 激しい罵声を浴びせられても、徹朗の心は微動だにしなかった。彼は知っているのだ。あの二千人の取り付け騒ぎを。甘い融資の果てに組織が死ぬ時の圧倒的な恐怖を。回収の可能性がない融資を情で続けることこそが、結果として債務者の傷口を広げ、更には貸し手である自金庫をも追い詰めるのだという融資の本質を、彼は骨の髄まで学んでいた。

 社長が激昂し、徹朗を睨みつけていた、その時だった。

 社長のすぐ後ろ、薄暗い事務所の隅で、長年この会社の経理を一手に引き受け、毎日火の車のような資金繰りに追われていた社長夫人の阪倉恵子けいこが、突然、顔を覆ってボロボロと涙を流し始めた。

「……あ、ありがとう、ございます……」

 恵子の口から漏れたのは、融資を断った徹朗に対する恨みの言葉ではなく、震えるような感謝の言葉だった。

「おい、恵子! 何を言ってるんだ!」と狼狽する社長を制するように、恵子は涙で濡れた顔を上げて言った。

「あなた、もう終わりにしましょう……。私は、もう限界だったの。毎月、月末の支払いのたびに、どこの銀行が貸してくれるか、手形が不渡りにならないか、夜も眠れずに心臓がバクバクして……。瀬戸さんにお断りされて、私、今、心の底からホッとしているの。これで、これでようやく、あの地獄のような資金繰りの呪縛から解放されるんですね……」

 安堵とも絶望ともとれる、その社長夫人の涙。

 事務所内に、社長の怒号をかき消すような、静かで重い沈黙が流れた。窓の外の青葉が、初夏の風に揺れてサラサラと音を立てていた。

 貸さないことが、結果として債務者の終わりのない苦しみを終わらせることもある。経営支援部という部署が担う、「企業の経済的な死に際」を見極めるという職務の、圧倒的な重みと悲哀を、徹朗は胸の奥に深く刻み込んでいた。

 阪倉製作所は、それから一ヶ月後、静かにその歴史の幕を閉じた。二度目の不渡りだった。交換所に回される手形や小切手は、不渡りを二度出すと銀行取引が自動的に停止され、実質的に事業を続けることができなくなる。

 だが、倒産という現実の嵐は、これで終わりではなかった。会社の借金という巨大な飛び火は、経営には一切関与していない、ある一人の「罪のない親族」の人生を焼き尽くそうと、次の牙を剥き始めていた。



第7話:飛火

 阪倉製作所の倒産は、梅雨入りを控えた湿った空気のなか、地域に静かな、しかし決定的な衝撃を与えた。

 かつて栄華を誇った工場は、機械の駆動音が止まり、静まり返っていた。錆びついた鉄格子の窓からは、ただ淀んだ初夏の曇り空が見えるだけだった。滝川信用金庫の経営支援部の担当者として、瀬戸徹朗は管理回収手続きの無機質な進捗を注視していた。しかし、会社の資産をどれほど厳格に処分したところで、当金庫が抱える数千万円の債権(貸付金)を全額回収することなど、逆立ちしても不可能だった。

 主債務者である阪倉一之社長本人には、もはや返済の余力など一円たりとも残されていない。となれば、金融機関としての次の一手は、法理のルールに従って冷酷に自動決定される。

「連帯保証人からの回収」である。

 徹朗は本部経営支援部のデスクで、長年の埃を吸い込んだ分厚い保証人ファイルを広げ、その名を確認した。

 阪倉純二じゅんじ、五十二歳。

 主債務者である阪倉社長の実弟だった。純二氏は地元の別の一般企業に、新卒から愚直に勤め上げてきた実直なサラリーマンであり、阪倉製作所の経営方針や日々の商流には一切関与していない。ただ、二十年前、兄が会社を興して最初に大きな設備投資をした際、「形だけだから、名前とハンコを貸してくれ。絶対に迷惑はかけない」と懇願され、深い法的意味も考えずに、連帯保証人の書類にサインをしてしまったのだ。

「瀬戸、阪倉純二の自宅には、うちが第1順位で抵当権を設定している。まずは一括返済の催告を行い、今後の出方を探ってくれ。相手は経営の実態を知らない一般人だ。感情的になるだろうが、毅然とした態度で臨むように」

 経営支援部の又吉またよし部長から下された峻厳な命令の重みを胸に、徹朗は岩峯の街外れにある阪倉純二氏の自宅へと車を走らせた。ワイパーが、フロントガラスに落ち始めた大粒の雨を不規則に弾く。

 かつて二十四歳の頃、岩峯信金の審査部に配属されたばかりの瀬戸であれば、このような他人の人生を左右する苛烈な交渉の場に出向くだけで、恐怖から足が震え、言葉に詰まっていたことだろう。いじめのトラウマは、それほどまでに彼の対人能力を縛り付けていた。しかし、あれから破綻処理の泥水をすすり、無数の債務者と対峙してきた今の彼は違った。年齢と過酷な経験を重ねるうちに、彼は自分の感情をコントロールする術を身に付けていた。相手の怒りや悲しみに引きずられることなく、しかし尊大にならず、静かに法理を説く―それが、三十代半ばの中堅となった徹朗の交渉術だった。

 雨に濡れる閑静な住宅街の一角。徹朗は純二氏の自宅のインターホンを押した。三十代の時に純二氏が無理をしてローンを組み、手入れを怠らずに維持してきたという、小綺麗な庭付きの一軒家だった。

 応接室に通され、対峙した阪倉純二氏は、徹朗から差し出された「一括返済催告書」に書かれた数千万円という冷酷な数字を見た瞬間、顔面から急速に血の気が引いていくのが分かった。

「な、なんですか、これは……。兄貴の会社が倒産したのは知っていますが、なんで私にこんな大金の請求が来るんですか!?」

「純二様。あなたは十年前、お兄様の会社の借入金に対して、連帯保証人になられています。主債務者が弁済不能に陥った以上、法的には主債務者と全く同等の返済義務が、保証人であるあなたに発生いたします」

 徹朗の声を荒げない淡々とした説明に、純二氏は激昂し、拳でテーブルを激しく叩いた。

「冗談じゃない! 私は兄貴の会社から一円の役員報酬も貰っていなければ、経営の中身だって何も知らないんだ! 兄貴から『名前を貸すだけで絶対に迷惑はかけない』って言われたからハンコを押しただけだ! なぜ私が、家族を路頭に迷わせてまで、兄貴の借金を背負わなきゃならんのだ!」

 激しい怒声が、雨音の響く静かな居間に虚しく木霊した。奥の部屋のすりガラスの向こうからは、怯えた様子の純二氏の奥様の気配が、微かな衣擦れの音と共に伝わってくる。

「名前を貸しただけ」「経営を知らない」「兄に騙された」。債権回収の最前線で、徹朗がこれまでに何百回と耳にしてきた定型句だった。一般の人間からすれば、その主張はあまりにも正当で、彼には何の罪もないように思える。しかし、法律という天秤は、そうした人間の「情」や「個人の不条理な事情」を一切顧みない。

 徹朗は純二氏の剥き出しの怒りを静かに受け止めながら、決して視線を逸らさず、極めて低い、しかし明確なトーンで告げた。

「純二様。お兄様を信じられていたお気持ちは、痛いほど理解しております。しかし、我が国の民法において『連帯保証』とは、主債務者と連帯して債務を負担する、極めて厳格な契約です。通常の保証人とは異なり、あなたには催告の抗弁権も、検索の抗弁権も認められません。つまり、法律上は『名前を貸しただけ』という言い訳は一切通用しないのです。あなたは、お兄様と全く同じ責任を負うと、あの日、ご自身の意思で判を押されたのです」

「くそっ……! 兄貴の身代わりに、俺の人生をめちゃくちゃにする気か!」

 純二氏は両手で顔を覆い、そのままソファに深く崩れ落ちた。その背中は、激しく震えていた。

 その姿を見つめながら、徹朗の胸の奥にも、鋭い痛みが走っていた。この人は本当に、善意で兄を助けようとしただけの「罪のない被害者」なのだ。それを、法律という無機質なシステムを使って、自分が追い詰めている。

 徹朗の脳裏に、かつて岩峯信金が破綻した夜、二人目の赤ん坊を抱いて「家計を支えてほしい」と我慢の涙を流した妻・聖子の姿が鮮烈によみがえった。もし、あの時自分が道を踏み外していれば、自分もまたこの純二氏のように、理不尽な現実の前に崩れ落ちていたかもしれない。

 しかし、彼は滝川信金の経営支援部の人間だ。預金者から預かった大切な資金を守り、組織の健全性を維持するためには、この冷酷な職務を全うしなければならない。自分自身の「情」で、債権回収の手を緩めることは許されないのだ。

「純二様。当金庫としても、大変心苦しいのですが……。このまま一括でのご弁済、あるいは現実的な返済計画のご提示がいただけない場合、我々としては、大変重い法的手続きに踏み切らざるを得なくなります」

「法的手続きって……なんだ」

 純二氏が、絶望に染まった目で徹朗を見上げた。徹朗はその目をまっすぐに見据え、最後の手札を突きつけた。

「このご自宅に対する、担保権の実行。すなわち、裁判所への『競売けいばい』の申立です」

 純二氏の顔から、完全に生気が失われた。

 罪のない親族の日常を、法律の力で強制的に解体するカウントダウンが、今、始まった。徹朗は胃の奥からせり上がる苦い唾を飲み込みながら、次なる厳格な書類の作成へと向かう覚悟を決めていた。



第8話:競売

 阪倉純二氏へ一括返済の催告を行ってから数週間が経過したが、滝川信用金庫の経営支援部に誠意ある返答が届くことはなかった。純二氏のような一般的な会社員に、突如として降ってきた数千万円の借金を一括で返済できるだけの現預金などあるはずがなかった。窓の外ではどんよりとした梅雨空から、終わりを告げるような細い雨が容赦なく降り注いでいる。本部の債権回収方針は、迷うことなく最終段階へと移行した。純二氏が所有する自宅不動産に対する担保権の実行、すなわち裁判所への「不動産競売申立」の決定である。

「瀬戸、裁判所に提出する競売申立の書類一式、お前が全部組み上げてくれ。登記簿、公図、建物図面、それに評価書の精査だ。反論の余地を与えない完璧なものをな」

 又吉部長から回ってきた決裁書を手に、徹朗は本部のデスクで膨大な書類を広げた。低く唸るエアコンのインバーター音だけが、静まり返ったフロアに響いている。

 かつて二十四歳の頃、徹朗は法律事務所の美人事務員、志村香織さんに会いたいという極めて不純な動機から、休日に住宅地図を片手に現場を歩き回り、宮地弁護士の元で不動産法務を必死に学んだ。あの時に貪るようにして頭に叩き込んだ民事執行法や不動産登記法の知識が、今、経営支援部の中堅職員としての彼を支えている。皮肉なものだ。若き日の純粋な知的好奇心と不純な情熱が、今や「罪のない保証人の家族から自宅を奪い取るための武器」として、彼の両手に握られているのだから。

 競売申立の手続きは、極めて厳格かつ精密な作業を要求される。

 対象物件の不動産登記事項証明書、公価証明書(固定資産評価証明書と異なり税額が記載されている公的書類)、法務局から取得した公図や建物図面、地積測量図。これらを一部の狂いもなく照合し、申立書を作成していく。さらに、債権の存在と範囲を証明する契約書(金銭消費貸借契約書)や保証書、および残高証明書を添付する。

 数学的・論理的な思考が得意な徹朗にとって、これらのパズルを組み立てるような作業自体は苦ではなかった。むしろ、一つひとつの整合性が完璧に噛み合い、付け入る隙のない法的書類が完成していくプロセスには、実務家としての冷厳な充実感すらあった。

 しかし、デスクの蛍光灯の下で黒のボールペンを動かす徹朗の脳裏には、あの居間でソファに崩れ落ち、両手で顔を覆って震えていた阪倉純二氏の背中が、何度も焼き付いて離れなかった。

「なぜ私が、家族を路頭に迷わせてまで、兄貴の借金を背負わなきゃならんのだ!」

 彼の悲痛な叫びが、雨音に混ざって耳の奥でリフレインする。

 夜、誰もいなくなった経営支援部のフロアで、徹朗は完成した競売申立書の束を見つめていた。窓ガラスに打ち付ける雨脚は激しさを増し、闇に包まれた街の灯りを滲ませている。

 この書類に判を押し、裁判所の民事執行受付に提出した瞬間、阪倉純二という一人の男、そしてその妻と子供たちの「日常」を強制的に解体する、国家権力の巨大な歯車が回り出す。一度回り出した歯車は、債権が全額弁済されない限り、誰にも止めることはできない。

 激しい自己嫌悪と、重い疲労感が徹朗を襲った。

「俺は、何のために岩峯の破綻を生き残り、法律を学んできて、四十歳を目前にした今こんなことをやっているんだ……。人を、罪のない家族を奈落の底へ突き落とすためだったのか?」

 気がつけば、徹朗は自分の財布の中から、一枚の古い写真を引っ張り出していた。そこには、岩峯の破綻直後、まだ生まれたばかりの次男を抱いて、慣れない子育てに追われながらも、夫を信じて健気に微笑んでいる妻・聖子の姿があった。

 あの日、岩峯信金の解雇予告通知を渡され、金融の世界から逃げ出そうとした彼に、聖子は涙を堪えて「できることなら、この子のために、残ってほしい」と母親としての本音をぶつけてくれた。あの時、徹朗は「二度と自分が融資する先には、自分と同じような苦しみや破滅の経験はさせない。そのために融資や法務を極める」と誓ったはずだった。

 だが、今、自分がやっていることは何だ。他人の家族の生活を、完璧なリーガルテクニックで破壊しようとしているではないか。

 徹朗は写真をそっと財布に戻し、深く息を吐いた。眼鏡をかけ直し、窓ガラスに映る自分の顔を見る。そこには、かつての弱々しさは消え、数々の修羅場をくぐり抜けてきた冷厳なバンカーの顔があった。

「……これが、俺の選んだ道だ」

 徹朗は小さく呟いた。

 綺麗事だけでは、この世界は回らない。もし彼がここで情に流され、回収の手を緩めれば、滝川信金の預金者に対する背信行為となり、巡り巡って自分の家族の生活をも脅かすことになる。彼は、阪倉純二氏の人生を背負うことはできない。彼にできるのは、この冷酷な職務を、せめて法の手続きに則って、一寸の狂いもなく「完璧に遂行すること」だけだった。それが、法律を武器にすると決めた彼の、せめてもの覚悟だった。

 翌朝、雨上がりの湿った空気が漂う中、徹朗は仕上がった書類一式を鞄に詰め、地元の地方裁判所へと向かった。

 執行受付の窓口に書類を提出し、予納金を納める。カチャン、カチャンと、受付のスタンプが押される無機質な音が、裁判所の高い天井に響いた。

平成十九年第二四六号 不動産競売申立事件」

 純二氏の自宅に、正式な事件番号が下された。数日後には、裁判所から純二氏の元へ「競売開始決定通知」が届き、登記簿には『差押』の二文字が冷酷に刻まれることになる。

 引き金を引いたのは、徹朗だ。胃の奥に広がる苦い痛みを堪えながら、彼は裁判所の重い扉を押し開き、次のステップである、さらに厳格な裁判所実務の現実へと足を進めていった。



第9話:価額

 裁判所に競売申立を受理されてから、手続きは瀬戸徹朗の手を離れ、民事執行法の法的なシステムに則って淡々と進行していった。

 開始決定が出されてから数ヶ月の間、債権者である滝川信用金庫の元へ進捗が届くことはない。裁判所の執行官と不動産鑑定士が、居住者の立ち会いのもとで秘密裏に現地へ赴き、詳細な物件調査を行うからだ。徹朗はただ、次の無機質な法理の通知を待つしかなかった。窓の外では秋が一段と深まり、街路樹の桜の葉が赤茶色に枯れ落ち、吹きすさぶ冷たい北風が本部ビルの窓枠をガタガタと鳴らしていた。

 十一月を目前に控えたある日の朝、地方裁判所から経営支援部の徹朗の元へ、一枚の薄い書面が届いた。

『競売物件評価額通知書』

 書面に記載された「基準価額」の数字を目にした瞬間、徹朗の指先が止まった。

「……安すぎる」

 数学的・論理的な思考に長けた彼の頭の中で、競売の実務データが瞬時に弾き出された。競売における基準価額は、一般の市場価格から「競売市場修正」として二割から三割近く減価される。これは、競売という特殊な手続きに伴う購入者のリスク―立ち退き交渉の難航や物件の瑕疵など―が考慮されるからだ。

 この基準価額のまま競売が実施されれば、阪倉純二氏の家族が家を追われるほどの多大な犠牲を払うにもかかわらず、当金庫が回収できる金額は貸出残高には満たない。

 罪のない保証人の全てを奪う法的手続きの無慈悲さと、金融機関が得られる実際の回収額との間にある圧倒的なギャップ。その非情な現実の構造に、徹朗は暗澹たる思いがした。同時に、この価格は、のちに別の解決策へシフトする際の決定的な伏線となることを、彼の実務的直感が告げていた。

 徹朗は詳細なデータを確かめるため、身分証を手に、一人で地方裁判所の民事執行事務室へと向かった。

 競売開始決定が出された段階では、一般向けの「競売三点セット(現況調査報告書・評価書・物件明細書)」はまだ公開されていない。債権者として、裁判所の記録を直接「閲覧」する必要があった。

 冷たい秋雨が降りしきる中、徹朗はコートの襟を立てて地元の地方裁判所の重い扉を押し開き、執行事務室のカウンターへ向かった。

 室内には、膨大な事件番号が書かれた黒いバインダーが整然と並び、独特の古い紙の匂いと静寂が満ちていた。カウンターの向こうでは、裁判所の書記官たちが、無表情にキーボードを叩き、淡々と書類に判を押している。彼らにとって、阪倉純二という一人の人間の人生が懸かったこの競売は、毎日機械的に処理する何百件もの「記号」の中の一つに過ぎない。

平成十九年第二四六号の事件記録、閲覧をお願いします」

 徹朗が債権者代理人としての身分証と申請書を提出すると、若い女性の書記官は、感情の起伏を一切交えない事務的な手つきで、一冊のバインダーを差し出した。

「どうぞ。あちらの閲覧席でお願いします」

 パーテーションで区切られた無機質な机に座り、徹朗はバインダーを開いた。

一、「現況調査報告書」

二、「評価書」

三、「物件明細書」

 そこには、執行官が現地に赴き、法的な権限に基づいて立ち入った阪倉純二氏の自宅の内部が、客観的なデータとして詳細に記録されていた。

 建物の構造、詳細な間取り、占有者の状況。

 添付されたカラー写真のページをめくる。玄関に並んだ小さな子供靴。リビングの壁に貼られた、子供が描いたであろうお父さんの似顔絵。主人の書斎の机。机の上には、頭を抱えて悩んだであろう形跡が残る、何枚もの資金繰りのメモ書きがそのまま写り込んでいた。

『現在、債務者(連帯保証人)とその家族が居住中。明け渡し義務あり』

 その記述の横で、書記官たちが「次、次の事件、処理して」と、静かな声で淡々と業務を回している音が聞こえてきた。彼らの徹底的にマニュアル化された事務作業と、徹朗がその書類の写真から感じる「家族の人生が破壊されていく生々しい痛み」との対比が、あまりにも鮮烈だった。

 だが、その時、徹朗はハッとした。

「いや、違う。彼らが非情なのではない。これこそが、法律という巨大なシステムの正しい姿なのだ」

 感情を挟めば、法の執行は歪む。かつての岩峯信金のように、情に流されて融資を続けた結果、最後は大規模な取り付け騒ぎという崩壊を招き、地域全体の信用を失墜させた。

 この裁判所の静寂と淡々とした処理こそが、資本主義のルールを厳格に維持するための防波堤なのだ。そして今、経営支援部のプロとしてそのシステムを動かしているのは、他ならぬ彼自身である。

 徹朗は静かに眼鏡のブリッジを押し上げ、三点セットのデータを手帳に書き写した。

「基準価額がこれだけ低いのであれば、もし純二氏側から、この額を上回る条件での『任意売却(任意弁済)』の打診があれば、金庫としても競売を維持するより、取り下げて和解に応じる方が回収メリットは高い。だが、彼らにそんな資金を引っ張ってくる術があるか……」

 年齢を重ね、様々な経験をするうちに身につけた、極めて現実的な「実務の目」で、徹朗は書類の数字を睨みつけた。

 書類を閉じ、カウンターの書記官へバインダーを返却する。

「ありがとうございました」

「はい、お預かりします」

 書記官は彼の顔を見ることなく、次の事件のファイルを手に取った。

 裁判所の重い扉を出ると、外には冷たい秋の風が吹いていた。引き金は引かれた。だが、この価格が公示されれば、破滅へ向かうリーガル・ストーリーを予期せぬ方向へと変える導火線になるかもしれない。徹朗は、これからの関係者のリアクションに僅かな期待をかけた。



第10話:天秤

 地方裁判所の民事執行事務室で確認した、阪倉純二氏の自宅に対する競売申立は、瀬戸徹朗の頭を激しく悩ませていた。このまま期間入札が始まれば、家族は住処を失い、当金庫も大幅な回収不能を出す。窓の外では晩秋の冷たい雨が、グレーに曇った岩峯の街並みを濡らし、北風が街路樹の枯れ葉を容赦なく巻き上げていた。

 競売の手続きが着々と進行していたある日の午後、阪倉製作所の元社長である阪倉一之が、突如として本部ビルの経営支援部に姿を現した。

 すっかり白髪が増え、白シャツの襟も酷くヨレた元社長は、徹朗の前に進み出ると、周囲の職員が目を見張るのも構わず、その場でリノリウムの床に両膝と両手を突き、深く頭を下げた。

「瀬戸さん……! 頼む、頼みます。俺のせいで、経営に何の関係もない弟の純二まで路頭に迷わせるわけにはいかないんだ。純二の家だけは、どうか、どうか競売から救ってやってくれ……!」

 床に額を擦り付ける元社長の肩を静かに支え、椅子に座らせる。徹朗は揺るぎない口調を崩さずに問いかけた。

「阪倉さん、頭を上げてください。ここが金融機関である以上、金庫が競売を止めるための論拠は、確実な回収の『実利』だけです。何か具体的な打開策があるのですか?」

 一之氏は震える手で、一枚の名刺を差し出した。

「純二の妻方の親類にあたる、実業家の坂本栄治さかもとえいじという方が動いてくれたんです。新聞の競売公告に掲載された純二の自宅の情報を目にして、私のところへ怒鳴り込んできましてね。坂本さんが、金庫さんに『任意売買』の打診をしたいと言ってくれているんです。裁判所の基準価額を二割上回る価格を一括で用意すると。その返済をもって純二の連帯保証を解除してほしい」

 その言葉に、徹朗の数学的・論理的な思考回路が一気に回転を始めた。

 任意売買の取引価格が、裁判所の提示した基準価格より高くなるのは当然だ。しかし実務において、金庫が競売の取下げに応じる真の判断基準は別にある。「不動産業者等の第三者による入札の予想価格」を、坂本氏の提示額が確実に上回っているかどうかだ。競売市場のプロが応札するであろう現実の落札予想ラインを超えているならば、金庫が任意売買に応じる「経済的合理性」は成立する。更に、その後の純二氏の不安定な生活を考えれば、保証請求権を放棄しても、競売を維持するより早期かつ高額で回収できる可能性が高い。

 徹朗は即座に「競売取下げおよび任意売却に関する和解稟議」を起案する意志を固め、又吉部長に進言した。


 数日後、稟議は徹朗の進言通り承認された。司法書士の立ち会いのもとで一括決済を行い、その足で地方裁判所の民事執行受付へ競売取下書を提出した。カウンターの向こうで書記官が受領の印をカチャンと押した瞬間、純二氏の自宅を解体しようとしていた国家権力の歯車は、完全に停止した。


 すべての法的・事務的手続きが完了した数日後のことだった。

 元社長の一之氏が、再び本部ビルの経営支援部に徹朗を訪ねてやってきた。受付から内線を受けた徹朗は、一瞬、身を硬くした。手続き自体はすべて完結している。なんのために彼は再びやってきたのか。書類の不備への抗議か、あるいは新たな無理難題の相談か。彼は警戒心を抱きながら、静まり返った応接室のドアを開けた。

 しかし、そこにいた一之氏は、取下通知の書面をじっと見つめ、静かに、深く頭を下げた。

「瀬戸さん、本当にありがとうございました。お礼を言いたくて、勝手ながらお邪魔しました」

 徹朗は一礼を返し、デスクを挟んで対面に座ると、実務家としてのリーガル・スキームを淡々と説明した。

「阪倉さん。今回の任意売買の法的流れは、金庫としても極めて厳格に処理させていただきました。坂本栄治様から提供された資金は、あくまで土地建物の『購入代金』です。そして、その代金を受け取った連帯保証人である純二様が、その原資をもって金庫へ『代位弁済』を行いました。これにより、金庫の債権回収は完了しています。

 重要なのはここからです。純二様は金庫へ代位弁済したことにより、主債務者である『阪倉製作所(法人)』に対する正当な『求償権』を取得されました。法人は倒産しましたが、一之さん、あなた個人がこの純二様の求償権を実質的には背負う形になります。

 純二様は形式的に、新たな所有者となった坂本様へ毎月の『家賃』を支払って今の家に住み続けることになりますが……あなたが、その家賃分を『求償権の弁済』として毎月純二様に返し続ければ、純二様は実質的な金銭負担を一切負うことなく、家族とともに今の自宅を守ることができる。そういう座組みです」

 徹朗のロジカルな説明を聞き終えると、一之氏はヨレたシャツの袖で目を拭い、その瞳に一筋の強い光を宿して彼を見つめた。

「瀬戸さん、よく分かりました。純二は連帯保証人として、私の代わりにそれだけの重い責任を背負ってくれた。坂本さんへの家賃分は、私がこれからどんな泥臭い仕事をしてでも稼ぎ、求償権の弁済として毎月必ず純二に払っていきます。会社も何もかも失いましたが、一生をかけて、一円ずつでも、この命の恩を弟に返していく。それが、私が生きている間に果たさなければならない、唯一の義務です」

 その言葉を聞いた瞬間、徹朗の張り詰めていた警戒心は、温かい安堵の感情へと変わっていった。

 法律という無機質なシステムを正しく理解し、その中で「人の業」を見極めて初めて、単なる情に流されるのではない、確固たる実利を伴った「現場の救い」をもたらすことができる。年齢と経験を重ねて手に入れた、これが彼なりのバンカーとしての答えだった。


 一之氏を見送り、自席に戻った徹朗のデスクで、固定電話が激しく鳴り響いた。

 受話器を取ると、それは県西の現場に赴いているはずの経営支援部の後輩・加藤からの、不穏な電話だった。新たな嵐の予感に、彼は受話器を強く握り締めた。

(第2回「権利執行」・了)


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