Ⅰ信用崩壊
第1話:予兆
一九九六年(平成八年)十月半ば、秋の日は釣瓶落としと言われる通り、夕暮れの街は急速に夜の闇に込み上げようとしていた。街路樹のイチョウの葉が黄色く色づき始め、冷たい北風が時折、歩道を歩く人々のコートの襟を立てさせる。テレビのニュースでは、バブル経済崩壊後の長引く不況に加え、大蔵省を巡る不祥事や株価の低迷が連日報じられていた。しかし、地元の岩峯市に深く根ざした岩峯信用金庫の本部ビル内は、まだどこかその激動の時代の足音から切り離されたような、のどかな空気が漂っていた。
「瀬戸くん、悪いがこの書類を宮地法律事務所まで届けてくれないか。岩峯の街中にあるから、帰りは少し遅くなっても構わんよ」
本部二階にある審査部のフロア。低く唸るようなエアコンのインバーター音と、書類をめくる単調な音が響く静寂の中で、谷口審査課長が分厚い茶封筒を若い職員のデスクの前に置いた。
「はい、承知いたしました」
瀬戸徹朗、二十四歳。
地元の文系大学を卒業して入庫三年目、この年の春に審査部へ配属されたばかりの若手職員だった。「比較的高学歴だから」という、ただそれだけの事務的な理由で本部中枢の部署に引っ張られたが、徹朗自身には、金融に対する崇高な使命感もなければ、出世街道を突き進もうという野心もなかった。仕事へのモチベーションも概ね人並み。おまけに、幼少期に受けた執拗ないじめのトラウマから、他人の視線や表情の変化に過剰なまでに敏感で、対人交渉には極めて強い苦手意識を持っていた。自分の考えや感情を適切な言葉に変換して表に出すことができず、組織の隅で息を潜めるように、淡々と日々のルーティンワークをこなすだけ。それが、この時点における徹朗の客観的な姿だった。
しかし、そんな内向的で不器用な男の日々に、一つだけ強力な推進力となる「不純な動機」が紛れ込んでいた。
徹朗は谷口課長から預かった書類を小脇に抱え、蛍光灯の白い光が反射する本部の廊下を通り、一階の職員通用口から外へ出た。夕闇が迫る岩峯駅近くの雑居ビル。階段の踊り場にある、古びた真鍮のプレートに「宮地法律事務所」と刻まれたドアを叩く。カチリと小気味よい鍵の開く音がして、出迎えてくれたのは、事務員の志村香織さんだった。
「あら、瀬戸さん。いつもお疲れ様です」
瀬戸より二つ年上の香織さんは、すっきりと通った鼻筋に、知性を湛えた穏やかな栗色の瞳を持った、息を呑むような女性だった。人と視線を合わせるのが苦手な徹朗だったが、彼女が淹れてくれた温かい紅茶を飲む時だけは、胸の鼓動が高鳴るのを抑えられなかった。もっと彼女と話したい。事務的な書類の受け渡しだけでなく、彼女の前に少しでも長く座っていたい -それだけが、徹朗の心を突き動かす不純極まりない動機だった。
そして、その動機の受け皿となったのが、この事務所の主である宮地源一郎弁護士が語る、不動産に纏わる法律の世界だった。
「瀬戸くん、いいかい。不動産担保というのはね、ただ土地の登記簿を見て、抵当権を設定すれば終わりというものじゃないんだ。法律の論理というのは、実に見事な数式のように組み立てられている。だがね、現実の土地には人間の業が張り付いている。そこを読み解くのが面白いんだよ」
白髪交じりの鋭い眼光を持つ宮地弁護士は、古い木製のデスクに徹朗が持参した岩峯信金の融資案件の書類を広げながら、楽しそうに即席の講義を始めた。香織さんが隣で静かにその資料を整理している。彼女の視線を背中に感じながら、徹朗は必死に宮地弁護士の言葉に耳を傾け、手に持った黒のボールペンを走らせた。
足繁く事務所に通う中、徹朗はある事実に気づいていた。もともと彼は、文系でありながら数学が得意だった。複雑な方程式の解が、一つの美しい論理によって導き出される瞬間に快感を覚える性質だったのだ。宮地弁護士の語る民法や不動産登記法の世界は、まさにその数学の論理そのものだった。
「先生、この物件の場合、第2順位の抵当権を設定しても、先行する第1順位の被担保債権額が極度額まで膨らんでいれば、実質的な担保価値はゼロになりますよね。もし、債務者が破産した場合、この『占有』の不真正な移転を突いて、優先弁済権を主張することは可能ですか?」
徹朗がポツリと、しかし論理の矛盾を突くような質問を投げかけると、宮地弁護士は驚いたように目を見張った。
「ほう!留置権の主張だね!現実的にはかなり難しいとは思うが、建物の有益費支出や、不法行為によらない建物引渡請求権などがあれば可能かもしれないな。瀬戸くん、君は筋がいいね。審査部の連中は数字ばかり見て法律を視覚的に軽視するが、君は論理の本質を分かっている。香織さん、瀬戸くんに過去の類似判例の資料をコピーして差し上げて」
「はい、先生」
香織さんが微笑みながら徹朗に資料を手渡す。その瞬間、指先が触れそうになり、徹朗は顔が火照るのを感じた。もっと勉強しよう。もっと不動産や法律に詳しくなれば、ここに来る口実ができる。香織さんと共通の言語で話ができる。
それからの徹朗は、休日のたびに住宅地図とカメラを手に、岩峯信金が担保に取っている地元の土地や建物を一人で歩き回った。木枯らしが吹き抜ける秋の小道、あるいは傾斜の激しい新興住宅地の坂道。
「あの弁護士事務所の事務員、香織さんと話す機会を作りたい」という動機は完全に不純なものだったが、平坦な机の上の図面でしかなかった土地が、現地に立つことで生々しい実体を伴って迫ってくる感覚は、徹朗の知的好奇心を激しく刺激した。
「この傾斜地は法面があるから有効宅地面積が狭いな」「この狭い私道は囲繞地通行権の問題が発生するかもしれない」。
歩けば歩くほど、法律の論理が立体的に頭の中に組み上がっていった。自分の感情を豊かに伝えるのは苦手だったが、頭の中で法律の条文をパズルのように組み合わせ、確固たるロジックで推論することに関しては、徹朗は誰よりも長けていた。
そんな彼らが勤める岩峯信用金庫は、茨城県東南部に三十の店舗網を構え、資金量三千五百億円を誇る、地域に深く根ざした金融機関だった。その設立は戦前にまで遡る。当時、県内随一の「卸町」として栄えていた岩峯市内の商工業者たちから、地域経済を循環させるための強固な金融インフラを求める要請を受け、産声を上げたのが始まりだった。
伝統的に地元住民や中小個人商店からの預金吸収力には長けていたものの、集まった資金を地域に還流させる適切な貸出先が開拓しきれず、預貸率は常に四十パーセント程度に低迷していた。国債などの有価証券運用に頼らざるを得ない構造ゆえに、金庫全体の収益性は決して高くはなかったが、それでも「うちは街のよろず相談所だからな。雨の日に傘を貸すのが信金の仕事だ」という谷口課長の口癖の通り、地域の人々からは絶大な信頼を寄せられ、職員たちも皆、自分の金庫を深く愛していた。
だが、その温かさの裏で、破滅のマグマは確実に溜まっていた。低い預貸率を強引に引き上げようと、バブル期の真っ只中に岩峯信金が社運を賭けて数箇所の金融機関と協調して巨額の資金を投じてしまった、最大の焦げ付きが潜んでいた。
十一月のある日の夕方。窓の外では冷たい秋の雨が容赦なくガラスを叩いていた。審査部の徹朗のデスクに、谷口課長が沈痛な面持ちで一つの重いファイルを持ってきた。それは、「岩峯グリーンカントリークラブ」という広大なゴルフ場開発プロジェクトの融資資料だった。
「瀬戸、いろいろ勉強してるみたいだな。うちの最大融資先の内容、ちょっと見てみるか?」
「えっ、いいですか?ぜひ見てみたいです」
渡された資料の数字を、徹朗は数学的な頭脳で瞬時に弾き出した。その瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。バブル崩壊によってゴルフ会員権の価格は暴落し、開発会社は実質的に利払いが停止しており、計画は完全に頓挫している。岩峯信金が注ぎ込んだ融資額は、金庫の自己資本を大きく揺るがすほどの規模に膨れ上がっていた。
「課長……これ、完全に焦げ付いていますよね。追い貸しで利息をプロップ(査定操作)していますが、いずれ限界がきます。もしこれが表沙汰になれば……」
徹朗が声を潜めて言うと、谷口課長は力なく首を振った。
「上層部はまだ『景気が戻ればなんとかなる』と言っている。だが、そんなわけがない。これは、うちの金庫の息の根を止めかねない爆弾になるかもしれない……」
その夜、徹朗は家に帰り、静かに部屋の明かりをつけた。まだこの頃は一人身で、独身寮の殺風景な天井を見つめながら、今日見た数字の恐ろしさを反芻していた。愛用のボールペンを机に置き、窓の外の雨音に耳を傾ける。
きっとこの融資は、いつか完全に焦げ付くことになるだろう。そう思いながらも、今の日常が様変わりするような感覚にはならなかった。まるで、どこか遠い世界の出来事のように……。
後に、この爆弾が牙を剥き、この世の地獄を味わうことになるとは、二十四歳の徹朗はまだ知る由もなかった。
岩峯信金という、地域に愛された温かい巨船が、致命的な破局に向かって、音もなく傾き始めている。その不穏な予兆の足音は、瀬戸だけでなく、職員の誰もが実感を持って聞くことはできなかった。
第2話:波濤
月日は流れ、二〇〇二年(平成十四年)二月下旬。かつて二十四歳で岩峯信用金庫の審査部に配属された瀬戸徹朗も、三十歳という人生の節目を迎えていた。プライベートでは妻の聖子との間に二人目の子どもが生まれたばかりで、独身寮の殺風景な部屋から移り住んだささやかな新居には、赤ん坊の泣き声と家族の温もりが満ちていた。しかし、その家庭内の小さな幸福とは裏腹に、徹朗の席を置く岩峯信金を取り巻く情勢は、これ以上ないほど緊迫した局面へと突き進んでいた。
当時の日本金融界は、翌三月に控えた「ペイオフ解禁」という巨大な地殻変動を前に、底知れぬ恐怖の渦中にあった。預金保険制度の特例措置が終了し、一千万円を超える預金とその利息が保護対象外となる。この制度変更を前に、世の預金者たちは極めて過敏になっていた。資金量三千五百億円、茨城県東南部に三十店舗を構える岩峯信金もまた、その例外ではなかった。かつてバブル期に強引な預貸率引き上げのために投じた「岩峯グリーンカントリークラブ」をはじめとする大口融資の焦げ付きは、噂という目に見えない毒となって地域の商工業者の間に広がり始めていた。少しでも経営不穏の噂が流れた金融機関からは、一瞬にして資金が引き揚げられる。まさに、乾ききった草原に一発の火花が落ちれば、またたく間に大火災へと発展する -そんな狂気と隣り合わせの時代だった。
二月の最終週を迎えた、月曜日の午前。徹朗が過去の融資回収に関する判例資料に目を通していた時だった。シーンと静まり返ったフロアに、突如として激しい電話のベルが鳴り響いた。
「はい、審査部瀬戸です」
「あ、瀬戸! 事務部の高木だ! いま、のどか支店の手伝いに来てるんだけど……もう、何が何だか……、とにかく、大変なことになってる!」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、普段は沈着冷静な同期・高木大介の、裏返った叫び声だった。のどか支店は、岩峯信金の店舗網の中でも最ものどかな田舎町にあり、普段は高齢者が数人お茶を飲みに来るような、一日数十人も来れば多い方の小規模な店舗だ。
「高木さん、とりあえず落ち着いて。手伝いって、一体何があったの?」
「客が、客が押し寄せてるんだ! 珍しく多くの来店客がいるって連絡を受けて、軽い気持ちで窓口の応援に来たんだけど……もう、ロビーが人で溢れかえっていて、シャッターを閉めなきゃいけないレベルだ! 私じゃ対応しきれないから、一度本部に引き返す!」
それだけ言うと、電話は一方的に切れた。
数時間後、本部に引き返してきた高木は、二月の凍えるような寒さだというのに額にびっしょりと汗をかき、文字通り血相を変えていた。
「瀬戸……あれは異常だ。ただの混雑じゃない。みんな『岩峯が危ない』『今すぐ金を出せ』って、目が血走っているんだ……」
高木が持ち帰った現場の戦慄は、翌日、現実の巨大な津波となって岩峯信金の全店へと一気に拡大した。のどの渇いた群衆が水を求めるかのような、「取り付け騒ぎ」の本格的な勃発だった。
火曜日。徹朗は谷口審査課長に命じられ、本部ビルの一階にある本店営業部の窓口応援に駆り出された。シャッターが開く午前九時、徹朗はロビーを埋め尽くす光景に言葉を失った。
普段なら、一日の総来店客数は多くて百人程度の、地域密着型の静かなフロアだ。しかしそこには、朝七時前から行列を作っていたという、数百人の群衆が怒号を上げてなだれ込んできた。
「おい! 俺の定期預金、全部解約だ! すぐに現金を用意しろ!」
「ペイオフで一千万超えたら戻ってこないんだろ! 岩峯は潰れるって噂だぞ!」
対人交渉が苦手で、他人の剥き出しの感情の波を浴びるのが何より恐ろしい徹朗は、カウンター越しに突きつけられる人々の狂気に完全に圧倒されていた。
対応に当たった窓口の若手職員、小林美咲は、客の剣幕に怯えて涙目を浮かべながら、震える手で解約書類を処理している。徹朗は彼女を庇うように前に出たが、喉が閉まり、言葉がうまく出てこない。
「お、お客様、順番にご案内しておりますので、どうか冷静に……」
「冷静にいられるか! 俺の全財産だぞ! 早く金を出せ!」
響き渡る怒声。怒涛のような熱気。お札を数える計数機の絶え間ない金属音。そして、人間の「欲」と「恐怖」が混ざり合って生じた異様な匂いが、広い営業部内に充満していた。
一人、また一人と、預金を引き揚げた客が、何百万円もの現金が入った紙袋を抱えて店を出ていく。その光景を見るたびに、岩峯信金の命の血液がドクドクと流出して失われていくような、強烈な悪寒が徹朗を襲った。お金という存在が持つ、恐ろしいまでの重み。そして、「金融」という目に見えない砂上の楼閣が、一度「信用」を失ったときにどれほど脆く崩壊するか。徹朗はその怖さを、自らの細胞一つ一つに刻み込まれるように実感していた。
一日の来店客数は二千人を超えた。それが、翌日も、翌々日も、終わりのない地獄のように続いた。本店営業部だけでは対応しきれず、本部の全職員も窓口と後方支援に回り、全員が不休で解約手続きをこなした。夜、店舗の鍵を閉めた後も、深夜まで残高の照合と、翌日のための現金手配等に追われた。徹朗の持つ黒のボールペンは、ひたすら解約払戻請求書のサインの確認と、内入処理のチェックのために酷使され、インクが尽きかけていた。
そして、取り付け騒ぎが始まって一週間が経った、二月最終週の金曜日の夕刻。
時計の針は午後五時を回っていた。本店営業部の奥にあるテレビは、夕方のニュース番組を映していた。疲れ果て、泥のようにネクタイを緩めてパイプ椅子に座っていた徹朗や谷口課長、忙しなく書類を運んでいた高木や若手窓口の小林美咲らの目が、その画面に釘付けになった。
「緊急速報です。本日夜、金融庁にて臨時記者会見が行われました――」
画面に映し出されたのは、無数のフラッシュを浴びながら、力なく深々と頭を下げる我が岩峯信金の理事長と経営陣の姿だった。
『本日、岩峯信用金庫は、大口融資先の経営破綻に伴う不良債権の大幅な増加により、自力での業務継続が困難であると判断し……金融庁に、経営破綻の申し出をいたしました』
フロアが、凍りついたような静寂に包まれた。
現場の職員には、事前に何も知らされていなかった。徹朗たち現場の人間が、客から罵声を浴び、命を削るようにして夜通し現場を守り続けている最中、経営陣は裏で破綻の書類に判を押していたのだ。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。美咲は両手で顔を覆って泣き崩れ、高木はテレビに向かって持っていたボールペンを投げつけた。感情を表に出すのが苦手な徹朗は、怒ることも泣くこともできず、ただ、液晶画面の中で頭を下げ続ける理事長のネクタイの歪みを、信じられないほどの虚脱感とともに見つめていた。
卸町の商工業者に愛され、戦前から地域を守ろうとしていた岩峯信金は、もう死んだ。
直後、画面のテロップが切り替わった。
『なお、岩峯信用金庫の預金および健全な事業については、同県で営業エリアが隣接する「滝川信用金庫」が全面的に譲渡を受けることで合意しており、預金は全額保護されます』
滝川信金による事業譲渡の発表。この一報により、翌日からの取り付け騒ぎは沈静化へ向かうことになる。しかしそれは、瀬戸徹朗という三十歳の不器用な信金職員にとって、本当の地獄の始まりに過ぎなかった。九月半ばの正式な事業譲渡の日まで、半年に及ぶ「組織の解体作業」と「顧客の選別」という、血も涙もない修羅場が幕を開けようとしていた。
第3話:信用
二〇〇二年(平成十四年)三月。岩峯信用金庫の経営破綻が正式に発表された翌営業日から、職員たちを取り巻く空気は文字通り一変した。同県で営業エリアが隣接する滝川信用金庫への事業譲渡が予定されている九月半ばまでの半年間、彼らは名目上「岩峯信金の職員」でありながら、その実態は自らの手で組織を解体し、地域に詫び続けるための「敗戦処理部隊」に過ぎなかった。窓の外では三月の冷たい雨が降り注ぎ、冬の終わりを告げる泥交じりの雪が、まだ歩道の隅に薄汚く残っていた。
破綻の混乱がほんの少しだけ落ち着いたある日の朝、本部二階の審査部では全職員が集められた。前面に立った谷口審査課長の顔は、この一週間で急激に老け込んだように土気色を帯びていた。その手には、地域ごとの大きな住宅地図の束が重々しく握られていた。
「今日から、全顧客に対する謝罪行脚を行う。各員、担当地域の地図を配るから、一軒残らず回って頭を下げてきてくれ」
瀬戸徹朗は配られた岩峯市中心部の住宅地図を受け取り、自分のデスクでそれを広げた。対人交渉に強い苦手意識を持つ徹朗は、この指示を聞いただけで胃がキリキリと痛むのを感じた。他人の家を一軒一軒訪ね、破綻の申し訳なさを伝えるなど、内向的な自分にとって最も過酷な試練に思えた。
営業に慣れている他の職員たちも、きっと同じように不安や負担を感じているであろう。しかし、金庫職員としての義務もある。審査部の職員たちは、不安を抱えながらも作業に取り掛かることにした。徹朗もまた、訪問先に印をつけるため、引き出しから黄色の蛍光マーカーを取り出し、顧客の氏名や会社名が書かれたリストと住宅地図を照合し始めた。
当時の徹朗は、自金庫の正確な取引シェアというものを深く理解してはいなかった。机の上の融資書類ばかりを見ていたからだ。
「全顧客と言っても、街のせいぜい半分くらいだろう」
彼はそんな風に漠然と考えていた。
だが、作業を始めて間もなく、徹朗は自分の認識がいかに甘かったかを思い知らされ、マーカーを握る手が止まった。
大通り沿いの老舗の商店、一本裏に入った路地の錆びついた町工場、古くからある武家屋敷風の住宅地、新興の団地――リストにある名前を探して地図にマーカーを塗っていくと、黄色いインクは防波堤を決壊させた濁流のように、瞬く間に地図の全域を覆い尽くしていった。右を向いても黄色、左を向いても黄色。実質的に街の九割以上の家や店が、岩峯信金の顧客だったのだ。
「マーカーを塗る意味なんて、ないじゃないか……」
徹朗はポツリと呟いた。目の前の住宅地図は、ほぼ完全に一面の蛍光色で塗り潰されていた。
その時、彼の胸に、言葉にならない巨大な感情が込み上げてきた。幼少期のいじめの記憶から、彼はずっと社会を冷めた目で見ていたし、信金の仕事も単なる生活の糧としか思っていなかった。しかし、この塗り潰された地図は、岩峯信金という組織がどれほど深くこの地域に根ざし、戦前から人々の生活の血流となっていたかを無言で証明していた。そして、自分たちが犯した「破綻」という過ちが、どれほど多くの人々の人生を裏切る行為だったのかを突きつけるような重みを持っていた。自分の仕事は、この地域にとって、これほどまでに重要なものだったのだ。
翌日から、徹朗は顧客への直接謝罪のため、鞄を提げてまだ肌寒い街へと繰り出した。
「岩峯信用金庫の瀬戸です。この度は多大なご心配をおかけし、大変申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます」
来る日も来る日も、同じ言葉を繰り返し、九十度腰を折って頭を下げた。
行く先々での反応は、実に様々だった。
「おい、俺の退職金はどうなるんだ! 滝川に引き継がれるって本当だろうな!」と、胸ぐらを掴まんばかりに怒鳴りつけてくる年配の男性もいれば、「あんなに親切にしてやったのに、裏切り者め」と、冷ややかな視線で塩を撒くようにドアを閉める商店の主もいた。元来、感情を表に出すのが苦手で、他人の怒りのエネルギーをまともに受けると硬直してしまう徹朗は、毎日夕方になる頃には、精神的な疲労で足が棒のようになっていた。
しかし、そんな巡礼のような日々の中で、徹朗を繋ぎ止めてくれる瞬間もあった。
古くから取引のある、小さな駄菓子屋を営む老老婆の家を訪れた時のことだ。徹朗がいつものように身を縮めて謝罪の言葉を述べると、そのお婆さんは怒る風でもなく、シワだらけの顔を綻ばせて言った。
「瀬戸さん、そんなに小さくならんといて。あんたが悪いわけじゃないがね。岩峯信金さんには、うちのおじいさんが生きてる頃からずいぶん助けてもらった。潰れたんは悲しいけど、あんたらのせいじゃない。体は壊さんようにね」
そう言って、温かい缶コーヒーを手に握らせてくれた。
また、別の小さな町工場の社長は、「滝川に変わっても、瀬戸くんみたいな人が担当でいてくれるなら、うちは何も文句は言わんよ。大変な時期だけど、踏ん張り時だな」と、力強く肩を叩いてくれた。
人付き合いに不器用で、いつも人間関係から逃げ回っていた徹朗にとって、その時折に掛けてもらう地域の温かい労いの言葉は、乾ききった心に染み渡る水のようだった。彼らの言葉に間違いなく救われていた。それと同時に、「この人たちの信頼を二度と裏切ってはならない」という、これまでにない強い責任感が、彼の心の中に静かに芽生え始めていた。
だが、厳しい現実の無慈悲さは、そんな感傷をあっけなく打ち砕いた。
謝罪行脚が始まって二週間ほど経った頃、金庫から地域住民向けに配布する「今後の営業体制と預金保護に関する謝罪チラシ」を大量に作成することになった。谷口課長から「瀬戸、お前が以前から仲良くさせてもらっている印刷会社があったな。あそこに特急で発注してくれ」と言われ、徹朗はすぐに受話器を取った。
向かった先は、彼がまだ融資のイロハを学んでいた頃から、何かとかわいがってもらっていた「山田印刷」の山田社長の元だった。事務所の中にはインクの独特な匂いが立ち込め、印刷機の重低音が響いていた。
「山田社長、ご無沙汰しております。今回はこのような事態になってしまい、本当に申し訳ありません」
徹朗が頭を下げると、山田社長は苦渋に満ちた表情で彼を見つめた。
「瀬戸くん……謝罪の件は分かった。だけどな、そのチラシの印刷の件だが、うちでは引き受けられないんだ」
徹朗は耳を疑った。「え……どうしてですか? 以前なら、どんな急ぎの案件でも快く引き受けてくださったじゃないですか」
山田社長は目を伏せ、絞り出すような声で言った。
「いまの岩峯信金さんからは、印刷代金が本当に支払われるか分からない。うちのような零細企業は、数十万円の焦げ付きでも命取りになる。噂では、もう仕入れ業者への支払いも止まり始めているって聞く。すまない、瀬戸くん。個人としての君は応援したいが、会社経営としては、今の岩峯信金とは取引できないんだ」
胸を強く突かれたような衝撃だった。昨日まで「瀬戸くん、瀬戸くん」と笑顔で迎えてくれた社長が、破綻という看板を背負った途端、明確な一線を引いてきたのだ。それがビジネスの現実だった。
困り果てた徹朗は谷口課長に報告し、受け皿となる滝川信用金庫から印刷業者を紹介してもらうことにした。その結果、滝川市内にある、滝川信金の息がかかった大手の印刷会社へ依頼することになった。だが、その会社との打ち合わせの席で、担当の営業マンから提示された条件は、さらに彼の自尊心を粉砕するものだった。
「瀬戸様、滝川信金様からのご紹介ですので、お仕事はお受けいたします。ただし、条件がございます。印刷代金は『全額前払い』でお願いいたします。代金の入金が確認され次第、輪転機を回します」
「前払い……ですか? 通常の取引なら、翌月払いのはずですが……」
徹朗がそう食い下がると、営業マンは事務的な薄い微笑を浮かべた。
「申し訳ありません。弊社の与信管理のルールでして。破綻された企業様との新規取引において、売掛での対応は一律でお断りしております。信用が担保できない以上、現金がすべてですので」
……信用が担保できない以上、現金がすべて……。
その言葉は、徹朗の頭の中で何度も激しく反響した。
信用がある時は、紙切れ一枚の契約書で数千万円の仕事が動く。しかし、一度その確証を失えば、チラシ一枚刷るのにも、現金を目の前に積まなければ相手にすらしてもらえない。これが、資本主義における「信用の有無」の決定的な違いなのだ。
夕暮れ時、滝川信金の紹介先へ代金を振り込む手続きを終え、徹朗は一人、岩峯の街を歩いた。街灯が一つ、また一つと灯り始め、冷たい夜気がスーツの隙間から入り込む。
住宅地図を真っ黄色に染め上げた、愛すべき地域の人々。その人々からの温かい言葉に救われながらも、一歩ビジネスの場に出れば、「信用ゼロ」の烙印を押され、前金を要求される屈辱。
金融機関にとって「信用」とは、呼吸をするための空気そのものだ。それを失った今の自分たちは、泥水をすすりながら生きながらえているに過ぎない。
「いつか……いつか俺が一人前のバンカーになったら、信用の本当の重さを知り、それを正しく扱える人間になってみせる」
不器用な男の胸の中に、初めて明確な「プロとしての飢餓感」が宿った。しかし、そんな彼を待っていたのは、さらに凄まじい実務の修羅場だった。次なる試練は、岩峯信金を破滅に追いやったあの巨大ゴルフ場の担保の、気が遠くなるような再評価作業。徹朗の前に、絶望的な書類が現れようとしていた。
第4話:査定
二〇〇二年(平成十四年)の春から初夏にかけて、岩峯信用金庫の本部ビルは、一種独特の熱気と狂気に満ちた「戦時下の工場」のようになっていた。五月の強い日差しが窓ガラスを焼き、フロアの隅では古びたエアコンが不快な重低音を響かせながら冷風を吐き出している。九月半ばの滝川信用金庫への事業譲渡に向けて、半年に及ぶ膨大な資産査定が本格化していた。
この作業を主導したのは、通常の決算監査を行ういつもの監査法人ではなかった。預金保険機構から直々に依頼され、破綻処理のために特別に乗り込んできた、見慣れない監査法人の公認会計士たちだった。彼らは冷徹な目で過去の融資書類を検閲し、一円単位での峻厳な「品定め」を始めていた。本部五階の大会議室は彼らの作業室へと変わり、廊下には常に張り詰めた緊張感が漂っていた。
その資産査定において、最初にして最大の巨大な壁として立ちはだかったのが、我が金庫を破滅へと追いやった元凶――「岩峯グリーンカントリークラブ」の巨大ゴルフ場開発プロジェクトの担保再評価作業だった。
五月の連休が明けた直後の月曜日、谷口審査課長が、台車にうずたかく積まれた段ボール箱を徹朗のデスクの横に運んできた。箱の底が抜けんばかりに詰め込まれた書類から、古い紙の匂いがフロアに広がる。
「瀬戸、特別監査チームから正式な要求が来た。このゴルフ場開発の担保価値を、現行の法的スキームに基づいて全て洗い出し、一週間で再評価書を作成してくれ。期限は次の月曜朝だ」
「一週間……ですか? 課長、この案件は確か、複数の金融機関が絡んで複雑に入り組んでいたはずですが……」
「そうだ。岩峯信金を含む十一の金融機関がすべて同順位で群がっている。しかも、土地の所有権だけでなく、地権者から設定された『賃借権に対する抵当権』が幾重にも絡み合う、実務上、最悪に複雑な物件だ。筆数は……全部で約四千筆ある」
四千筆。その数字を聞いただけで、徹朗の頭の奥がズキリと痛んだ。
彼はまず、作業の前提となる不動産登記簿謄本を法務局から取り寄せることにした。不動産登記簿とは、その土地や建物が誰の所有になっているのかや、どんな担保が設定してあるのか等を客観的に証明する公的な書類だ。もともとは法務局では職員による手書きの登記簿が作成されていたが、近年は電子化が進んでいる。謄本とは、公的に証明された写しのことだ。通常は、A4版で二、三枚、多くても五枚程度の書類だ。しかし、職員が運んできたその「一筆目」の束を机の上に置いた瞬間、徹朗の息は完全に止まった。
共同担保目録が添付されたその一枚目の謄本は、紙の束というレベルを超えていた。厚さがゆうに数センチはある。いつも毎週水曜日にコンビニで買って読んでいる、週刊の少年漫画雑誌と同じくらいの厚みがあった。
ページをめくっても、めくっても、終わりのない不動産の符号と、十一の金融機関の抵当権設定、そして複雑極まる賃借権の特約条項が、気が遠くなるような細密さで並んでいる。窓の外では初夏の爽やかな風が吹いているというのに、徹朗の目にはその紙の山しか映らなかった。
「これを……あと三千九百九十九筆分、全て読み解いて評価し直すのか……」
目の前が真っ暗になるほどの絶望感が、三十歳の徹朗を襲った。対人交渉には苦手意識が強いが、法律の論理的解釈には自信があった。だが、この圧倒的な「物量」を前にしては、その自負すら砂の城のように崩れ去りそうだった。
しかし、泣いても笑っても時計の針は止まらない。徹朗は覚悟を決め、ネクタイを外してシャツの袖をまくり上げた。かつて二十四歳の頃、あの美人事務員の香織さんに会いたいがために、休日に住宅地図を片手に現場を歩き回り、宮地弁護士の元で必死に磨き上げた不動産法務の知識――その全てを、この四千筆の要塞にぶつけるしかなかった。
それからの総力戦は、文字通り不眠不休の苦闘だった。
昼間は通常の破綻処理業務や顧客対応に追われ、夜、静まり返った本部ビルで彼の本当の戦いが始まった。
数式のような美しさを持つはずの法律の論理が、このゴルフ場の謄本の中では、人間の「業」によって複雑怪奇にねじ曲げられた迷宮と化していた。徹朗はデスクの蛍光灯の下で、一枚一枚の頁を凝視した。
「この筆の賃借権の存続期間は、抵当権の設定登記より前に効力が発生している。ならば、RCC(整理回収機構)に引き継いだ際の競売による対抗要件は……」
「十一機関の同順位按分比率を、現在の残高ベースで数学的に再計算すると、岩峯の取り分はコンマ数パーセント下がる」
頭が割れるように痛む。徹夜の二日目には、目の焦点が合わなくなり、文字が全てアリの行列のように見えた。深夜の静寂のなか、本店窓口の小林美咲が差し入れてくれた冷えた栄養ドリンクを流し込み、冷たい水で何度も顔を洗った。
数学的な脳細胞をフル回転させ、登記簿の文字から「生きた土地の価値」をロジカルに弾き出していく。暗闇の中で複雑なパズルを一つずつ解き明かしていくような、孤独で、しかし奇妙に研ぎ澄まされた時間だった。
月曜日。約束の期限を目前に控えた朝、徹朗は最後の四千筆目の再評価書に印を突いた。窓の外は、夜明けの紫色の空から次第に白んでいくところだった。
一週間、ほぼ一睡もせず、四千筆にのぼる膨大な書類の山と格闘し、彼は奇跡的に全ての作業を完了させたのだ。デスクの上には、完璧に論理構築された再評価書の束が、整然と並んでいた。
谷口課長がそれを見て、徹朗の肩を強く抱きしめた。「瀬戸、よくやった。お前じゃなきゃ、この法務の迷宮は解けなかった」。
だが、その達成感を味わう余韻すら、死にかけた組織は許してくれなかった。
やり切った充実感の中で徹朗が耳にしたのは、社内を駆け巡る不穏で黒い噂話だった。
受け皿となる滝川信金側は、早い段階で「希望者の全員採用」を表向きに打ち出していた。しかし、精神的に極限まで追い込まれた現場の職員たちの間では、全く別の不信感が渦巻いていたのだ。
「おい、知ってるか? 全員採用なんてのは、世間体を気にした滝川の建前らしいぞ」
「実際は、俺たちを落とすための、信じられないくらい過酷な試験と面接が用意されているって噂だ」
「仮に潜り込めたとしても、破綻金庫から来た外様組は一生日陰を歩かされ、出世コースから外されて雑用しかさせてもらえないんだ……」
昼休み、初夏の強い光が差し込むガランとした食堂の隅で、事務部の同期・高木大介が力なく頭を抱えていた。
「瀬戸……俺、もう駄目かもしれない。毎日客に頭を下げて、夜は査定に追われて、その先に待っているのが『雑用係としての差別』なら、もうこれ以上戦う気力が湧かないよ……」
その噂は、泥のように疲弊していた職員たちの心を、確実に蝕んでいった。
昨日まで一緒に徹夜をしていた優秀な同僚が、次の日の朝、突然デスクの荷物をまとめて「もう限界です」と去っていく。一人、また一人と、気力を失った同僚たちが毎日少しずつ職場を去っていった。高木も、窓口の小林美咲も、事業譲渡を前に岩峯信金を去っていった。
活気のあった本部フロアは日が経つにつれて静まり返り、机だけが虚しく残されていく。昨日までの仲間が減り、ガランとしていくオフィスを見渡すたび、徹朗は深い疑心暗鬼と、底なしの孤独に包まれていった。
自分の未来も見えない。滝川信金という隣接した巨大な組織に、自分のような不器用な人間が拾われるはずがない――。
そして八月半ば、事業譲渡まで残り一ヶ月となったその日、ついに彼らの元へ、あの無慈悲な「一枚の紙」が突きつけられることになる。
第5話:通告
二〇〇二年(平成十四年)八月。アスファルトをじりじりと焼き付けるような酷暑が連日岩峯の街を覆っていたが、その熱気とは対照的に、岩峯信用金庫の本部ビル内は、凍りついたような冷徹な静寂に支配されていた。古びた空調の吹き出し口からは、結露した冷たい水滴が時折床へ滴り落ちている。
預金保険機構から直々に依頼されて乗り込んできた、見慣れない特別監査チームによる資産査定作業は、いよいよ大詰めを迎えていた。彼らの引く査定ラインは、現場の想定を遥かに超えて厳しかった。徹朗が不眠不休で作成した四千筆のゴルフ場再評価書も、彼らの冷酷な電卓によって、さらに数十パーセントの担保価値を削ぎ落とされた。
この資産査定の本質は、顧客の経済的な「選別」に他ならない。財務状況が健全で、同県で営業エリアが隣接する滝川信用金庫へ引き継がれる「適格債権」か。それとも、回収困難とみなされ、整理回収機構(RCC)へ売却される「不適格債権」か。徹朗たちが弾き出す数字一つ、判定一つが、地元の社長たちの運命を無慈悲に二分していった。RCCへの売却は、容赦ない債権回収の開始を意味し、それは長年地域を支えてきた顧客たちの「経済的な死」を指していた。対人関係に苦手意識を持つ徹朗だったが、山積みにされた書類の向こう側にある彼らの絶望の悲鳴を、嫌でも直視させられる日々だった。
そして、事業譲渡を翌月に控えた八月半ばのある日の夕方。残っていた本部職員全員が、四階の人事部に呼び出された。
西日が差し込む重苦しい部屋の一番奥にある人事部長のデスクの上に、白くて薄い封筒が山のように積まれている。それは、裁判所から選任された「金融破綻管財人」の連名で発出された、非情な通告だった。
「瀬戸、これだ」
手渡されたその封筒。いつもは温厚な人事部長の顔からは一切の感情が消え失せており、その機械的な手つきが、かえって組織の完全な死を物語っていた。
封を切り、中にあった『解雇予告通知書』の冷たい活字を見つめながら、徹朗の指先がかすかに震えた。九月半ばの事業譲渡の日を以て、岩峯信用金庫の全職員は名実ともに一度、全員が解雇されるのだ。
隣接する滝川信金側は、当初の発表通り「試験なしで希望者全員を受け入れる」という方針を崩していなかった。しかし、精神的に極限まで追い込まれた現場では、あらぬ黒い噂が更に大きく、不気味に渦巻いていた。「受け入れは建前で、実際は入庫後に干される」「破綻金庫組は一生差別され、雑用しかさせてもらえない」。
金融という世界の底知れぬ怖さ。組織が崩壊していく時の、人間の醜さと脆さ。滝川信金に転籍する前に一度解雇される形式になることは頭では分かっていたが、通告の冷酷さは気持ちを深く鋭く抉った。半年間、泥水をすするような敗戦処理に追われ続けた徹朗の心は、すでに限界を迎えていた。
「もう、金融業界はこりごりだ。別の、もっと静かな仕事を探そう」
徹朗は滝川信金への転籍希望書を白紙のまま引き出しにしまい、業界を去る決意を固めた。
その日の夜。重い足取りで帰宅した徹朗は、まだ生後数ヶ月の二人目の赤ん坊をあやしている妻の聖子の前に座った。
「聖子、話があるんだ」
感情を表に出すのが苦手な徹朗は、視線を床に落としたまま、絞り出すような声で言った。
「岩峯は来月で終わりになる。今日、全員に解雇通知が出た。俺は……滝川には行かないつもりだ。もう、信金の仕事には疲れた。別の仕事を探そうと思う」
聖子は一瞬、動きを止めた。だが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべ、優しい声で言った。
「そう……。徹朗さんがそこまで傷ついて、一生懸命考えて出した答えなら、私は何でも従うよ。今まで本当にお疲れ様」
言葉では徹朗の体を気遣い、選択を尊重する聖子。しかし、徹朗は見てしまった。聖子の目元が微かに震え、溢れそうになる涙を必死に堪え、唇を噛み締めて我慢しているその横顔を。夕闇が迫るリビングの片隅で、彼女は必死に自身の不安を押し殺そうとしていた。
その涙の重みが、徹朗の胸に突き刺さった。言葉では夫を立てながらも、心の中では幼い子供たちの未来、これからの暮らしへの底知れぬ不安と必死に戦っているのだ。
徹朗は、消え入りそうな声で聖子に尋ねた。
「聖子……本当は、滝川に残ってほしいか?」
その問いに、聖子はしばらく俯いていたが、やがて視線を上げると、堪えきれなくなった一筋の涙が頬を伝い落ちた。
「……できることなら、この子のために、残ってほしい。どんなに格好悪くても、プライドを捨ててでも、安定した収入で家計を支えてほしいのが、母親としての本音です」
泣き崩れる妻の姿が、徹朗の胸を激しく、暴力的なまでに締め付けた。
自分が「疲れた」という個人的な理由で、最も守るべき家族にこれほどの我慢を強いて、深い不安に陥れていたのだ。自分が本当に向き合うべきは、組織の黒い噂や、自分のプライドなどというちっぽけなものではなかった。
――家族を、何があっても守り抜く。
その瞬間、瀬戸徹朗の心の底で、何かがカチッと音を立てて噛み合った。かつてないほど強固な、一本の太い芯が通った。
翌朝、徹朗は審査部の引き出しから白紙の希望書を取り出し、胸ポケットから抜いた黒のボールペンを握った。これまでコミュニケーションから逃げ、目立たぬように生きてきた男の手が、力強く動き始める。
「ただの雑用係で終わってなるものか。不器用なら不器用なりに、あの四千筆の迷宮を解き明かした法律の論理を、誰にも負けない武器にしてやる。そして……自分がこれから融資する先には、絶対に自分と同じような苦しみや、破滅の経験はさせない。そのために、俺は法務と融資の知識を極めてみせる」
あの全軒に渡る謝罪行脚で、地域の人が掛けてくれた「踏ん張り時だな」という温かい言葉。商取引の厳しさ、信用の有無がもたらす屈辱。そして、妻が堪えてみせた涙。そのすべてを背負い、瀬戸徹朗は滝川信用金庫への転籍届を提出した。
一人の不器用な信金職員が、冷徹な法務と融資のプロフェッショナルへと脱皮する、長きにわたる旅路の幕が開いた瞬間だった。
(第1回「信用崩壊」・了)




