1-2「誰にも選ばれなかった私へ」
エテルナ、ソルスティシア王国。
王都の喧騒が微かに届く距離にある、マチルダ侯爵家の別邸。
そこは療養という名の停滞が支配する、音のない鳥籠だった。
ナナミ・マチルダは、色褪せた天蓋の下で、自身の輪郭がゆっくりと霧に溶けてゆくような錯覚を抱きながら日々を浪費していた。
「ねえ、ロザリー。なぜ血は、硬貨の味がするのかしら」
シーツに落とした一滴の紅。指先から滲み出た鮮血を舌で掬い上げ、ナナミは焦点の定まらぬ瞳で虚空を見つめた。
「お嬢様!お怪我をなさったのですか!お口に含んではいけません……!旦那様にお耳に入れば、監督不行き届きで私が処罰されてしまいます!」
「大袈裟だわ。少し紙で指を滑らせただけ。これくらい、放っておけば乾くもの」
「駄目です!すぐにお薬を塗りますから!どうか、おやめください……そんな風に、ご自身を粗末になさるのは」
メイドのロザリーは、震える手で救急箱を取り出し、ナナミの細い指先に幾重にも白い包帯を巻いてゆく。
その献身的な手つきに、ナナミは無機質な視線を落とした。
「……ところで、お嬢様。血が硬貨の味だとおっしゃいましたけれど、まさか本物の硬貨を口になさったことはありませんよね?」
「まさか。幼い頃、ガレット・デ・ロワの中に隠されていたフェーヴを、誤って噛んでしまったことがあるだけよ。味を覚えているのは、そのせい」
「ああ、安心いたしました。……ロザリーも小耳に挟んだことがございますが、人の身体を流れる血には、金属と同じ成分が含まれているのだとか」
「そう。金属……」
手当てを終えた指を眺める。
“人の血は、金属と同じ成分でできている”
今しがた閉じた物語の中に登場する、継ぎ接ぎだらけのブリキの人形。心臓を欲して泣く、欠落した機械の身体と、今の自分は何が違うのだろうか。
ただ“ある”ためだけに修理され、磨かれ、棚に飾られているだけの、高価な欠陥品。
何の役にも立たず、ただ明日という絶望を浪費するだけの人生に、胸の奥が冷たく焼ける。
「そういえば、お嬢様。奥様とカイリお嬢様が、明後日には別邸へ到着されるそうですよ」
「そう……騒がしくなるわね」
優れない顔色はより一層、色を失う。
母の妹であった叔母、ミオ。
父ヴィクトールとの間に、後妻となったミオが産み落とした妹、カイリ。
その名を聞くだけで、肺の奥に澱が溜まるような感覚を覚える。
「そんな寂しいことをおっしゃらないでください!お二方とも、お嬢様の病状を大変案じておられました。グランド・プリズマティカの期間は、こちらで過ごされるそうです」
「グランド・プリズマティカの間だけ……ね」
慈愛を装った言葉の裏側に、鋭利な刃が隠されていることをロザリーは知らない。
王都での祭典に合わせ、辺境にある本邸よりも利便性の高いこの別邸を拠点にするだけだ。
そして、マチルダの名を継ぐべき「邪魔者」が、早く息絶えないかと、特等席で監視するため。
マチルダ侯爵家。
数代前、没落の淵にあった家門を、一世代で王国の重鎮へと押し上げた先祖の威光。
「知恵の番人」として儀式を司る女系の家系は、本来であれば、直系である亡き母の唯一の血を引くナナミが継ぐべきもの。
だが、病に蝕まれた身体に、重責を担う資格はないと切り捨てられた。
傍系の女たちは、死肉を待つハゲタカの目をして、ナナミの寿命をカウントダウンしている。
父ヴィクトールに至っては、家門という器を守ることにしか興味がない。
壊れた人形はおもちゃ箱の隅へ追いやり、新しい操り人形で遊ぶ方が、彼にとっては効率的なのだろう。
母が命を削って守り抜いた家系が、緩やかに悪意に染まった者の手に渡ってゆく。
自分はその破滅を、ただ寝台の上から眺めていることしかできない。
どうせ、明日をも知れぬ、選別から漏れた欠陥品なのだから。
***
「あらあら、また一回り小さくなったのではないかしら?でも思ったよりは元気そうで安心したわ。なかなか会いに来れなくて、本当に申し訳ないと思っていたのよ。でも安心して。しばらくは家族水入らずで、寄り添ってあげられるわ」
「お久しぶりです、叔母様。お変わりないようで、何よりです」
部屋に充満する、薔薇のきつい香水。
咽せるのを抑え込み、ナナミは本を読むのをやめ顔を上げる。
身分に似つかわしくない、贅沢な白狐のショールを羽織った継母ミオは、慈悲深い聖母のような顔でナナミの枕元に腰掛けた。
「また、こんな文字ばかりの難しい本を読んで。あなたは、ただ、静かに目を閉じていなければならないのよ?無理をしていると知ったら、あなたのお母様がどれほどお嘆きになるか。いい?あなたは何もせず、ただじっとしていなさい」
「いいえ、最近は容体も安定しているわ。むしろ、こうして知識を得ている方が、心身ともに調子がいいの」
「あら、そう?カイリ!カイリ、いらっしゃい。お姉様に、きちんとお顔を見せなさい」
廊下にカツカツと、無遠慮なヒールの音が鳴り響く。
鮮やかな緋色のドレスに身を包んだカイリが、弾むような足取りで寝台へと駆け寄った。
「お姉様!久しぶりね!見てよ、王都で以前仕立てておいたドレスなの。私を祝福するために作られたようでしょう?」
「カイリ……。元気そうで良かったわ。けれど、グランド・プリズマティカに出席するなら、もう少し淑女としての静謐な振る舞いを心がけて」
「はぁい、お姉様ったら。相変わらずお堅いんだからっ」
可愛らしく頬を膨らませた後、十四歳になったカイリは三日月のように目を細めた笑みを浮かべ、ナナミの白い布団に、宝石の指輪が光る手を置いた。
「そうそう、せっかく王都にしばらくいるんですもの、レイ様とも頻繁にお会いすることになっているの。お姉様に代わって、私がしっかりと婚約者としての役目を務めるから、安心してお休みになってね」
「レイと……。ええ、仲良くね」
誇らしげに身を翻すカイリ。それを満足げに見守るミオ。
母が亡くなって間もなく、父が「妹だ」と連れてきた少女。逆算すれば、母が生きていた頃から四年間も隠し通されていた裏切りの結晶。
王都で開催される舞踏会、光り輝くシャンデリア、そしてレイ・セシルの腕。
かつてナナミの隣に約束されていた場所は、今や一欠片も残っていない。
去年、正式に告げられた婚約破棄。理由は「マチルダ家の次世代を担うに相応しい、健康な伴侶を求めるため」。
残酷なまでの正論は、ナナミの存在そのものを、王国の歴史から消去する宣言でもあった。
粛々と、自分の消えた後の世界が構築されてゆく。
それは、真綿の首輪で繋がれ、閉じ込められた檻を、逃げ場のないまま冷たい水に浸されてゆくような、静かな処刑だった。
息が、苦しい。
世界に、私の居場所はどこにもない。
でもきっとそれは当たり前なんだ。
病で役立たずの自分は、邪魔でしかないはずなのだから。
「……様――お姉様?」
「え……?」
「どうしたの?急に心ここにあらずといった風で。不気味じゃない」
「なんでもないわ。少し、めまいがしただけ」
「そんなに痩せこけているからよ!栄養が足りていない証拠だわ。ロザリー、夕食は脂の乗ったローストチキンにしてちょうだい。お姉様は残さず召し上がってね」
「……ええ。ありがとう」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「ナナミも少し休みなさい。私とカイリは、これから宝飾店へ出向くわ。グランド・プリズマティカでは、誰よりも目立たなければならないのだから」
「そうよ、ママ!このドレスに合う、最高級のルビーの耳飾りを買ってちょうだい!」
「うふふ、本当に欲張りな子ね。ではナナミ、また後で」
「いってらっしゃいませ、奥様。カイリお嬢様」
扉が閉まる。
重いオークの板が、外界との繋がりを物理的に遮断する。
ようやく、肺に酸素が戻ってきた。
「ロザリー、窓をすべて開けてちょうだい。夕食の刻限には、具合が悪化したと伝えて。……チキンも、何もいらないわ」
「……はい。お嬢様」
読みかけの、無機質な知識が並ぶ本を閉じる。
代わりに取り出したのは、母が遺してくれた、タイトルすら記されていない古い本。
それを胸元に抱き締め、ナナミは横たわった。
――『いつか、君を必ず迎えに来る。』
記憶の深層、熱に浮かされ、泥の中で溺れていたあの夜。
私の手を包み込み、永遠の孤独を否定してくれた、あの温かさ。
この本と、その不可思議な声だけが、暗闇を照らす唯一の標だった。
***
窓の外が、幻想的な橙色の光に染まってゆく。
グランド・プリズマティカの幕開けを告げる花火が、夜空に幾重もの大輪を咲かせた。
網膜を刺すほどの閃光に、ナナミは眩しそうに目を細めた。
「お母様、早くぅ!レイ様がもう着いちゃうわ!お父様も、会場で待機しているのでしょう?」
「はいはい、今行くわよ。そんなに急がずとも、レイ様は逃げたりしないわよ」
扉の向こう側、華やかな期待に満ちた騒ぎ声が遠ざかってゆく。
父、ヴィクトールも別邸に到着したようだが、娘の部屋を覗くことすらなく、そのまま馬車へと乗り込んだようだ。
石畳を打ち鳴らし、複数の馬車が華やかに去ってゆく音が響く。
ふと窓下に視線を落とせば、月明かりの下、凛々しい正装に身を包んだレイが、優しくカイリの腰を支え、エスコートする姿が見えた。
――『いつか、君を必ず迎えに来る。』
胸の鼓動に重なる、救いの言葉。
あんなにも優しく、すべてを赦すような声で囁いてくれた騎士は。
「……あなたでは、なかったのかしら」
レイの背中を見つめ、ナナミは自嘲気味に呟いた。
もし彼がその主であったなら、今、彼が支えている手は、私のものだったはずなのに。
それとも、あの夜の出来事は、死期を悟った脳が作り出した、憐れな夢に過ぎなかったのか。
気づけば、奥歯が砕けそうなほど強く、食いしばっていた。
「お嬢様?やはり、お嬢様も祭典へ……」
「……いいえ。私はいいの、ロザリー。舞踏会へ行くパートナーも、身を飾るドレスも、今の私にはなにもないわ。それに道端で倒れたりして、祝祭に水を差しては申し訳ないもの」
「ですが……」
「代わりにあなたが行ってきてくれる?素敵なものをたくさん見てきて、帰ってきたら私に聞かせて。お願いよ」
ナナミは枕元に置かれた黒檀の宝石箱から、掌で鈍く光る手頃なエメラルドを取り出し、ロザリーの手に握らせた。
「そんな、お嬢様を置いて遊びに行くなんて!」
「今日は不思議と身体が軽いの。大丈夫よ、あの家族は今夜は王城に泊まるから、しばらくは戻ってこない。誰に咎められることもないわ。……さあ、いってらっしゃい」
「……分かりました。お嬢様の分まで、美しいものを見てまいります。お土産、たくさん買ってきますね!」
エメラルドを大切そうに胸の前で握りしめ、弾けるような笑顔を残してロザリーが部屋を辞した。
パタリと、最後の扉が閉ざされる。
屋敷は、深海のような沈黙へと沈んだ。
古い本を抱きかかえ、橙色の残光が漏れる窓をぼんやりと見つめる。
遠い空から、微かに、けれど鮮明に、歓喜の音楽と人々の笑い声が届く。
「……」
独りになりたかった。
他者の体温に、優しさという名の嘲笑に、どうしても触れたくなかった。
なのに、どうしてこれほどまでに、肺の奥がひりつくような孤独に押し潰されそうなのだろうか。
ナナミは重い身体を支え、寝台から這い出した。
冷徹な石床の温度が、裸足の裏に鋭利に突き刺さる。
何故だろう。普段は全くそんなことを思わないのに、今日だけは踊ってみたかった。
腕の中の分厚い本を、見えないダンスの相手に見立て、遠くから聞こえるワルツの旋律に合わせて、たどたどしくステップを踏む。
幼き日、一度だけ母に教わった王宮の舞踏。
「あっ……」
衰えた脚は、無慈悲にもつれた。
バランスを失った身体は抗う術を持たず、冷たい床へと乱暴に打ち付けられる。
「っ……、……っ……」
無人の部屋に、鈍い打撲音と自身の掠れた呼吸だけが響く。
外界の祝祭の音楽が、窓の隙間から滑り込み、惨めな自分を嘲笑っているかのように聞こえた。
身体の痛みなど、どうでもよかった。
ただ、心がこれ以上ないほどに無様に剥き出しになり、痛みに震えていた。
床に伏したまま、本を抱き寄せる。
視界が、じわりと熱を帯びて歪んでゆく。
――なぜ、私はこの世界に産み落とされたのか。
神は乗り越えられない壁を与えない。人は誰もが役目を持って生まれる。
そんな欺瞞に満ちた言葉を信じられたなら、どれほど救われただろう。
ただ生を繋ぎ、孤独の中で死にゆくためだけの人生に、どんな意味があるというのか。
冷たい氷の欠片が、胸の奥で音もなく増殖してゆく。
「お母様……」
氷のように冷え切った身体から、温かな涙が零れ落ちる。
それが自分に残された唯一の生身の証明であるようで、気味が悪く、乱暴に手の甲で拭った。
その時、指先に違和感を覚えた。
転倒した際、床の角か、あるいは本の装飾に引っ掛けたのだろう。
以前切った指の傷が再び開き、鮮血が滴っていた。
焦燥が走り、抱えていた本を確認する。
母の形見である、古びた本。そこに、赤い染みが、じわじわと吸い込まれてゆく。
「そんな……、汚して……」
慌てて白いネグリジェで汚れを拭い去ろうとした、その瞬間だった。
本が網膜を灼くような、暴力的なまでの黄金の輝きを放った。
ナナミの腕を離れた本は、重力を無視して空へと浮上する。
死んでいたはずの無地の頁が、猛烈な旋風を巻き起こしながら凄まじい勢いで捲られ、ある一頁――たった一枚の紙面で、刻が止まったかのように動きを停止した。
白紙だった場所に、黄金の文字が浮かび上がる。
【汝、深紅の契約を望む者よ。
赤き滴を供物として捧げよ。
それは鍵、これは門。
運命は動き、未来は書き換えられん。】
「これは……っ!」
突如として部屋を埋め尽くした、激越な蒼い光の渦。
重力は消え、ナナミの意識は、高天から真っ逆さまに堕ちてゆくような浮遊感に呑み込まれた。
底知れぬ深淵へと、彼女は引き摺り込まれていった。




