エピローグ3 追うべき背
喰鹿討伐から、二日後。帰る日の朝がやって来た。
黎明はいつものように、トレーニングをかねて走っていた。
夜明けの空は薄紫色に染まり、海から吹く潮風が頬を撫でる。島の細い道を彼は淡々と、しかし確かなペースで駆け抜けていた。
息が乱れることもなく、表情も変わらない。まるで散歩でもしているかのように走っていく。
足取りは軽いが、スピードは速い。だが、その速さは霊力を一切使っていない。
その姿を祈は遠くから見ていた。
朝に走ることは彼女にも時々ある習慣だった。今朝は特に眠れなかったわけでもないが、夜明けの空気を吸いたくなって家を出た。
まさか、彼と会うとは思っていなかった。
「……黎明」
思わず、声をかけていた。黎明はぴたりと足を止めた。振り返ると、その黒い瞳が祈を捉える。
「あ、祈じゃん。朝から走るの?」
黎明は息一つ乱れていない。祈は少し呆れた。
「走ろうとしてた。お前は毎朝これをやってるのか」
「うん、日課だね。トレーニングも兼ねて」
黎明はそう言って、軽く足踏みをした。止まっている時間が惜しいとでも言いたげに。
「……少し、話をしてもいいか」
祈がそう言うと、黎明は足踏みをやめた。
「いいよ」
簡単な返事だった。それでいい、と祈は思った。二人は並んで、崖沿いの道に立った。海が眼下に広がり、朝の光が水面に散らばっている。
「今日、お前たちは島を出るんだろう」
「うん、午前中には」
「そうか」
祈はしばらく黙った。言葉を探しているのではない。ただ、順番を整理していた。
「……感謝を言いたかった」
「ん?」
「この島に来てくれたこと。喰鹿を倒してくれたこと。ボクを助けてくれたこと」
黎明は何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「お前たちがいなければ、ボクは喰鹿に食われていた。ちゃんとお前にお礼を言ってなかった。だから、礼を言う」
一度言い切ってしまうと、次の言葉が出てこなかった。祈は海を見た。すると、抱えていたものをおろすようにポツリと語り出す。
「ボクは、ずっと自分が強いと思っていた。怪異と戦えると思っていた。倒せると思っていた」
波の音が、静かに響く。
「でも、それは違った。ボクは、倒せていたんじゃない。倒させられていた」
祈の声は感情を排したように平坦だった。しかし、その平坦さが、かえって重かった。
「喰鹿は、ボクが怪異に勝つように仕向けていた。霊力が高い人間のほうが、美味い。だから、力をつけさせていた。ボクの強さは、あの怪異に都合よく育てられたものだった」
彼女は拳を強く握った。
「今まで倒してきた怪異も、倒せるように調整されていたのかもしれない。ボクが思っていた強さは、檻の中の強さだった」
言葉にすると、改めて重くなった。昨日から何度も考えていた。考えるたびに、同じ結論に辿り着く。
「強さが、偽物だったのかもしれない」
黎明は少し間を置いた。
「……ふうん」
しかし、回答はそれだけだった。あまりに淡白な回答、それに対し祈は思わず黎明を見た。
(もう少し、何か言うかと思っていた……)
黎明の表情はいつもと変わらない。特別に重く受け止めている様子もなく、かといって軽んじているわけでもなさそうだった。
「それなら、これから本物にすればいいだけだね」
「……え、いや、そんな簡単な話じゃないと思うが」
「そう?」
黎明は海を見た。
「一応、倒してたわけじゃなくても。経験値は貰ってたのは本当でしょ。これからまたモンスターと戦って勝てばいいんじゃないの」
「それは……そう、なのか?」
「そうだよ。経験値をもっと稼ぐ、強くなる、レベルが上がる、以上」
「……そうか。まぁ、お前がそう言うなら」
黎明は特に力を込めて言ったわけでもなかった。ただ、思ったことを言った、という感じで。
祈はしばらく黙った。
あまりに単純すぎる答え。もっと深い回答をどこかで彼女は期待していた。だが、返って来たのは簡単な思想。
しかし、それに反論は出来なかった。
(……単純すぎる。でも)
だって、間違っていないとも思ったからだ。
「……お前は、本当に難しいことを考えないな」
「だって、RPGみたいな世界じゃん。難しく考える必要がないと思う。大体の悩みってモンスターを倒して経験値を得て、レベル上げれば解決だと思う」
黎明はそう言って、また軽く足踏みを始めた。止まっていると落ち着かないのだろう。
「あのさ、祈」
「何だ」
「そろそろいい? 悩み解決したでしょ?」
「……あ、あぁ、まぁ、したのかな?」
「それなら、俺は走るね、ランニングも小さいけど経験値とか熟練度とかが上がる気がするし」
そう言うと黎明は再び走り出そうとする。どんどん先へと進んでいこうとする。前しか見てない黎明に、彼女は凄いと称賛の感情を持った。
「凄いな。どんだけ前向きなんだ。お前」
「まぁ、職業勇者だしね。割と自分に自信ある」
「……なんだ、それ。面白いな、お前」
祈は思わず笑みをこぼした。話が通じないのに、どこか心が動かされる。それが黎明という人間の魅力だと彼女は思った。
「あ、他に悩みがあるなら志乃とかに聞いてもらったら?」
「あぁ、そうする。それと、ボクは島を出るつもりなんだ。そしたら、影森町に行こうと思ってる」
「へー、どんどん面白そうな人が集まってくるね。冒険者の待機場とか出来るのかな? あ、スザクっていう人間に友好的なモンスターもいるよ。いやー、そう思うと面白い町になってきたね、最近モンスターが出ないから魅力半減だけど」
「そうか、行くのが楽しみだ」
祈はずっと小さく笑い続けた。ずっと自分が笑みを浮かべていることに、彼女は気づいていない。
「じゃあ、また」
「あ、うん……」
黎明はそう言って、また走り出そうとする。しかし、祈はわずかに名残惜しさが滲んでいた。
(なんだか、あっけなかった。もっと重い話になると思っていた。だけど、黎明と話すと、重いものが重いままでいられない。それが不思議で、しかし悪くない……)
「……お前は、このまま走り続けるのか」
「うん。もう少し」
黎明はそう言って、走り出す体勢になった。祈は少し考えて、言った。
「一緒に走る」
「え、いいの? 俺、ペース落とさないよ」
「構わない。ボク、この島だとダントツで速いからね」
「へー、そうなんだ」
この島で最も足が速いのは? そう聞かれれば誰もが祈の名前を出すだろう。霊力による身体強化もあるが、それ以上に彼女は天性の才能を持っているのだ。
白守という一族は元々はこの島の管理を任されていた。今ではただの置物同然だが、昔は安倍晴明に選ばれた一族。
他の人間よりはあらゆる面で秀でる才能を持っている。その血筋の特徴とも言うべきか。
彼女はそれが足に現れていた。
──圧倒的な速さ。同年代に負けたことはない。テレビで見る世界選手ですら負ける気がしない。
それほどに、彼女の足は特別なのだ。
「でも大丈夫? 俺、結構速いよ?」
「知ってる、でも霊力使わないんだろ?」
「うん、まぁ」
「それなら、行けると思う」
祈はちょっと自信があった。霊力を使われれば黎明には絶対に敵わない。だが、そうでないなら話が違うだろうと。
(……ボクもきっと行けるはず。自分より純粋に足が速いかもしれない相手なんて会ったことなかったけど)
(でも、ボクだって速いからな。軽い足比べだ)
(まぁ、絶対に自分が足が速いとか言いたいわけじゃないけど……《《こいつにはついていきたいと思うし》》)
──そして、黎明は走り出した。
最初の十秒で、祈は後悔した。
(待て待て待て待て!!!!! は、速すぎる!!!? て、てか、なんでそんな軽やかに走れるんだよ!!)
(おかしいおかしいおかしい!!! お、同じ人間のはずだよな!? 全く違うエンジンを付けてる車同士が走ってるみたいだッ!!)
速い。単純に速い。黎明のペースは一見のんびりしているように見えるのに、気づけば距離が開いていく。脚の回転数が違う。呼吸のリズムが違う。体の使い方がそもそも違う。
祈は歯を食いしばって追った。
(一歩でどんだけの距離進むんだよ!? ってか、地面を蹴る音がこんな明確に聞こえることあるか!?)
彼女は一生懸命に黎明を追った。すると、彼女を気にして黎明が振り返った。
──ただ、そこで驚くべきは黎明はバック走で走っていることだ。
「あ、大丈夫? そろそろきついんじゃない?」
「あ、あだ、だ、大丈夫!!」
「あ、そう?」
(こいつ!? バック走!? それでなんでそんな余裕なんだよ、てか、それなのにそのスピードを維持できるのか?!)
肺が痛くなってきた。それでも走った。
息が続かなくなってきた。喉が熱い。視界が少し揺れる。それでも、あの背中を見失いたくなかった。
ひゅ、と息が詰まった。
過呼吸になりかけながら、それでも祈は足を動かし続けた。
前を行く黎明はずっとバック走だった。そろそろきついんじゃない? と彼女に繰り返し聞き続ける。
「そろそろきついんじゃない?」
「だ、大丈夫!!」
「あ、そう? うーん、置いてくのあれだしなー。まだ暗いし、モンスターとか出たら危ないかもだし」
(は、はは、世界って広いんだな。あーあ、こんな狭い島で悩み続けるのもアホらしい)
(……お父さん、お母さん、ボクはこの人たちを追って島を出る)
届かない。でも、追いかけたい。追いたい、そう思わせる、それが黎明という人間だと彼女は理解をした。
背中を追いたい、そう彼女は思った。
ただ、現在、黎明はバック走なので背中というか胸筋が正面に来ている。
祈は荒れた息のまま、その背中ではなく、その胸筋を追い続けた。
◾️◾️
饗島から出発をする船。そこには一人の男が乗っていた。
「あーもしもし? こちらワイや、ワイ、鈴木や。当主様に言伝願いたいんやけど」
──鈴木勝吉
最初に黎明が饗島へと来る際、共に船に乗っていた陰陽師である。
「安倍家双子の暗殺の件、あれ無理、失敗したって伝えて欲しいんや。え? なんで無理かって? そんなん実力の差に決まってるやん。あれ無理やわ、隙なさすぎ、最近急に強くなってるとか言われてるけど。本当みたいやわ」
淡々と報告をしながら彼は海を眺める。どこか清々しさすら感じているような、達観な雰囲気を出していた。
「当主様が焦るのもわかるかもなぁ。あれは間違いなく傑物や。って言うか、殺すも何も、ワイが命救われてるんやけど。いやー、すまんな。わざわざ双子の派遣先も急に変えてもらったのに」
悪びれる様子もないが、一応口だけの謝罪を彼は行っていた。
「それと島には怪異がおって、島民を支配してたみたいやで。まぁ、それを双子が解放したっぽいけど。あと、なんか空に太陽が出たりとか、正直ワイじゃ、分からんわ。詳しい事情も聞きたかったんやけど、口が固くて分からん」
鈴木勝吉は、安倍蓮にこの島での真実などを聞こうとした。だが、安倍蓮は黎明を秘匿するため、手柄は自分のものとし、同時に詳細について細かくは伏せて話した。
だからこそ、鈴木勝吉も詳細は分かっていない。
「あんまあの双子刺激しない方がええと思うで。まぁ、せっかく没落した安倍家が復興とかしたら嫌なのは知っとるけど。だとしても、あの二人、間違いなく以前より強いわ。怪異を倒した、なんて噂も本当かもしれん。まぁ、ワイが見たのは操られた島民を無力化したところだけやけど」
分かっている範囲で彼は報告を終える。
「忠告はしたで。それとワイはここで手を引かせてもらいますわ。結婚したら安定感のある夫になろうと思ってんねん。ほな、当主様に申し訳ないとだけ伝え願いますわ、それじゃ」
──鈴木勝吉、彼は電話を終えると背伸びをして、海風に当りながら離れていく島を眺め続けた。




