1 少女Aはゴミ袋に入っていた
「お前を愛してくれる人なんていないよ」
その言葉は、私の胸に鋭いナイフのように突き刺さった。言葉とはこんなに痛くて私を苦しめるのかと実感した。
憎悪に満ちた女の声を私は生涯忘れないだろう。
目が覚めたら、視界は真っ暗だった。何も見えない。今の状況を理解するのに少し時間がかかる。私は何かに閉じ込められているようだった。
今にも破けそうなビニール袋のようなものに包まれている。生臭くて、微かに感じる血の匂いに吐き気がする。
力を込めたらビニール袋を破れそうだったが、今の私にはそんな体力すらもない。
私の手に何かヌメッとしたものがくっつく。気色悪いその感覚に今すぐここから出たい衝動に駆られる。
ゴミと共にゴミ袋に詰められて捨てられたのだと認識した。あの家にいるよりも、このゴミ袋の中の方が安全かもしれない。
先ほどから感じているあまりの頭の痛さに私は思わず額を少し抑えた。何やらぬるぬるとする。
それが血だと理解するまで少し時間がかかった。
まだ乾いていないってことは、そんなに時間が経っていない?
私は自分が誰なのかを思い出そうとする。
……何一つ自分のことを思い出せない。名前すらも出てこない。どこから来たのかさえも。
鮮明に覚えているのは最後に聞いたあの女の声だけ。それ以外は何も分からない。あの女性が何者だったのかさえ思い出せないのだ。
これは俗に言う、記憶喪失?
こんな状況になっても、心を乱すことなく冷静にそんなことを考えていた。
ここには誰もいないから、こんなに落ち着いていられるのかもしれない。
私に暴力を振るう人も罵詈雑言を吐く人もいない。私一人だけだ。
記憶は曖昧なのに、自分がどんな仕打ちを受けてきたのかは鮮明に思い出せる。ただ、顔や名前をはっきりと思い出せない。
変な記憶喪失……。忘れるならいっそのこと全て忘れ去りたかった。
どうして嫌な思い出だけが残っているのだろう。……もうあの環境から完全に解放されたのかな。
もしかして、またこのゴミ袋から出たら、あの地獄に戻される?
地獄に戻されたとしても、生きているだけありがたいと思っておこう。
私はきっと最後に聞いたあの女の人の言葉通り、誰からも愛されることはない。そう考えると、人目を気にせず自由にしたいことをできるはず!
確かな記憶ではないが、あの言葉を聞く前の私は、私を嫌いな人に対しても「好かれたい」、「愛されたい」って気持ちがあった。
だから、余計に暴力や暴言に傷ついたのだと思う。けど、今はそんなことを気にする必要は一切ない。
あの言葉とあの声を思い出すたびに、心がキュッと潰されるように痛くなる。けど、あの言葉のおかげで私は少し楽になれた。
私を愛してくれる人なんていない。呪いのような言葉だけど、魔法のような言葉。
馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけれど、この言葉のおかげで私は今平然としていられるのかもしれない。
ゴミ袋に入れられているって考えたら、普通もっとショック受けるよね。
虐待と訳が違う。身売りされているわけでもない。私は完全に「いらないもの」として処分されたのだ。
けど、まさかこんな窮屈な黒いビニール袋に入れられるとは思ってもみなかった。
こういう時って、せめて段ボールとかじゃないの? 「拾って下さい」って書かれているんじゃないの?
こんな雑にゴミと一緒にゴミ袋に入れられるなんて、私もついていない。人生不運の連続だ。
……これから良いことが起こると信じたい。
ぐううぅぅううぅっと大きな音が鳴る。お腹が減り過ぎて、限界を迎えそうだ。
体を動かす気力もないぐらい衰弱していることを改めて実感する。栄養失調かも。
まともなご飯も食べさせてもらってなかったし…………。
前に食べていたご飯を思い出すと、全身に鳥肌が立った。二度と思い出したくない、あんな食事。
……けど、あの食事のおかげでとんでもない免疫力がついた気がする。
腐ったものを食べてもお腹を壊すことはない。そう考えると、私は人間の中でもかなり胃が強い部類に入ると思う。
空腹には割と耐えれる方だと思っていたけれど、今の状況はかなりきつい。
ここから出たところでご飯があるとは限らない。
もっと過酷な状況に絶望する羽目になるかもしれない。今の私に、ゴミ袋の中よりもきつい現実はかなり辛い。
頭も痛いし、身体中痛いし、お腹も減るし……。
誰かここから助け出してくれないかな、なんて考えてしまう。
ついでに温かいスープを与えてくれたら最高だ。一生ついていく。
家事はほとんど完璧に出来る。……他にできることがパッと思いつかない。
というか、こんなガリガリの体じゃ誰も雇ってくれない。労働力として求めている人材は、マッチョでムキムキ。
ご飯もしっかり食べることができないのに、筋肉をつけるなんて無理だ。
私は真っ暗な中で深くため息をつく。
…………もうすぐ、十歳。
何故かふと、それだけ思い出せた。しかし、思い出せたのは自分の年齢だけ。それ以外はさっぱりだ。
落ち着いたら、もっと思い出すこと出来るかな?
私は自分の記憶に淡い期待を抱く。
遠くから何か騒がしい音が聞こえた。どれくらい遠くにいるか分からないが、人の声が微かに聞こえる。
助けを求めようと声を出そうとしたが、躊躇ってしまう。
もし彼らが悪い人たちだったら、と嫌な想像をしてしまう。
素直に助けを求めたいのに、人がいかに邪悪なのかを身をもって知っているからか、迂闊に助けてほしいと言えない。
……けど、このままだと餓死しちゃう。
今ここで死ぬか、生きて地獄を見るか……。後者を選ぼう。
私は人が近づいて来たのを確認してから必死に声を出そうとしたが、蚊の鳴くような声しか出てこない。
声を出す力もないことを改めて実感する。
今チャンスを逃せば、次はない。そう自分に言い聞かせて、必死に声を振り絞った。
「た、たすけて……」
あまりにも声が掠れていて、外の風の音に負けている。
なんて弱々しい声……。自分で自分が嫌になる。フゥっと息を大きく吸う。
外から聞こえてくる男性の声に負けないぐらいの声を出さないと!
気を引き締めて、私は大きく口を開いた。
「助けて!」
今度はちゃんと声が出た。声量としては普通より下ぐらいだろうけど、それでもさっきに比べたら随分とましになった。
もう少し、もう少しだけ大きな声を出せればここから出られるかもしれない。
私はなけなしの体力を使って、体を揺らしながら声を出す準備をする。
「ここから出して!」
必死に叫んだが、彼らに届いている様子は全くない。
声を出すたびに頭がガンガンと鈍器のようなもので殴られた痛みが走る。痛みのあまり意識が朦朧としてしまう。
……しっかりしないと!
自分を鼓舞させて体をもぞもぞと動かす。それと同時に若い男性の声が聞こえた。
「…………なぁ、なんかあのゴミ袋、動いてないか?」