第27話さりげなく試されていました
兄様の部屋は食堂から近いから、手を引かれて歩く時間はそう長くはなかった。
この屋敷に食堂はいくつもあるけれど、朝食は両親と兄様の部屋に近い場所にあるものを使っているのだから、近いのは当然のことだ。
私の部屋からだけ、あの食堂は遠いのだ。
「熱いからゆっくり飲むんだよ」
兄様の部屋に通され、座り心地のいいソファーに腰を下ろしてすぐにメイドが牛乳を運んできて兄様が私に飲むように勧め始める。
兄様のメイドが運んできたのは両手付きの器だったから、私はわざと戸惑った風を装い兄様と兄様のメイドと見てから、パティに聞く
「パティ、スプーンは?」
「これはね、両手で持って飲むからスプーンは使わなくていいよ」
「両手?」
兄様が説明してくれるけれど、食事の作法で習っていないことだからすぐに動くことはせずに考える振りをする。
ジョゼットやパティが温めた牛乳を用意する時は茶器を使うけれど、この器はそれよりだいぶ大きい。両手で持つとは言っても三歳の私が持つには重そうだ。
だからわざとスプーンは無いのかと聞き、どうしたらいいのかとパティを見る。
「こうやって両手でしっかり持つんだよ、蜂蜜を沢山入れたから甘くて美味しいと思うよ」
「両手」
器の中には牛乳は半分弱程度にしか入っていないけれど、蜂蜜を沢山入れてくれたらしい。
蜂蜜は三歳を過ぎたら食べてもいいと、この辺りでは言われていて、甘いもの好きなミルフィの好物だ。
でも侯爵家の蜂蜜と言えば迷宮に出る魔物の蜜蜂の蜜だから、とても高価なものだ。
それに魔物の蜜蜂の蜜ではなく、普通の虫の蜜蜂の蜜も貴重なものだったと思う。
領地で養蜂が始まったのは確か私が結婚した辺り、それ以前は自然にある蜜蜂の巣を見つけて蜂蜜を収穫するか、迷宮にいる魔物の蜂を退治して魔物蜂蜜を得る位だったと思う。
幼いミルフィが知るはずがないが、実は侯爵領にある迷宮の下層で砂糖はいくらでも採取できるから蜂蜜に比べたら砂糖の方が安いのだ。
「お嬢様、火傷しないようにゆっくりお飲みください。こういう場合は息を吹き掛けても行儀作法には反しませんから」
兄様に器の持ち方を教えられてからようやく両手で持った私の手に自分の手をそえて、パティは慎重に器を傾ける。
温めた牛乳を一度に沢山口に含んで舌を火傷するのも心配なら、着ている服にこぼすのも心配なのだろう。
私はパティに言われた通り、フーフーと息を吹きかけ冷ましながら、ゆっくりと牛乳を飲む。
私がいつも飲むお茶も牛乳もこんなに熱くないから、冷ましながら飲まなければ本当に火傷していたかもしれないし、以前の私ならすぐに飲める熱さになっていないなんてと癇癪を起していたかもしれない。
兄様の好意で部屋に招いてもらったのに、ここで癇癪を起したら兄様は心底呆れてしまっただろう。
「美味しいかい?」
「うん」
何口か飲んで満足した私が笑顔で頷くと兄様も一緒に笑ってくれたから、お腹はすでにくちくなっていたけれど無理して全部飲み干した。
兄様が私のために部屋に招き牛乳を用意してくれたのが嬉しかったから、残したくなかったのだ。
「お嬢様、お口を拭きますのでそのままで」
「ん、ありがとう」
パティがハンカチで口元を拭ってくれる。
大人しくされるがままになっている私を、兄様は面白そうに見ていた。
「ミルフィは本当にいい子になったんだね」
「いい子になるのよ」
兄様が何を言いたいのか分からずにそう答えると「そうだね」と言って兄様が笑う。けれど顔がさっきと違っていた。
なにが違うかよく分からないけれど、満足そうに見える気がする。
「今までなら、熱すぎる牛乳なんて飲めないと騒ぎ、騒いだ挙げ句に服に溢してパティに八つ当たりしていただろうね」
「セドリック様、牛乳を沸騰するほど熱くと仰ったのはまさかミルフィ様を試そうと?」
驚いたように兄様のメイドが聞いている。
それを聞いて兄様は私の反応を見るために舌を火傷しかねない熱い牛乳を、カップに注いで出したのだと分かった。
それにきっと、今のメイドとの会話もわざとなのだと思う。私に試したと教えているのだ。
「ミルフィ、僕がお父様にジョゼットを先生にしてくれるように頼んであげる」
さっきは自分で教えると言い、今度はジョゼットを先生にしてくれるように頼んでくれると言う。
兄様の言動の変化に、私は理解が追い付かない。
兄様は私をどうしたいのか分からない。
「ミルフィがお父様達とジョゼット以外の大人が怖いなら、怖くなくなるまでジョゼットを先生にしてくれるようにお願いしてあげる」
「新しい先生来ない? ミルフィを打って謝れって怒る人、本当に来ない?」
兄様に試されたのは悲しかったけれど、お父様へ頼んでいいかどうか、私への甘やかしにならないか。その確認のために試しが必要だったのだというなら悲しんではいけない。
とても五歳の子供が考える事ではないとは思うけれど、それでも兄様は私のためを思ってくれたのだ。
でも兄様は確かに優秀な人だったけれど、こんな子供の頃からこんなにも大人みたいな考え方をする人だったのだろうか。
「あいつは打つだけじゃ無かったの?」
「あいつ?」
「ミルフィの先生だった人のことだよ」
兄様は鋭い目で私を見る。
その目にあるのは、怒りだと思う。私ではなく夫人への怒りだ。
「先生はね謝れって言うの」
「なんて言われたの」
「あのね、馬鹿で価値のないミルフィは、生まれてきてはいけなかったです。愚かで馬鹿で怠け者、生きている意味のない、価値のない子です。悪い子でごめんなさい、生きていてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」
謝れという夫人の姿を思い出すと、反射的に私の口は謝罪の言葉を吐き出し始める。
「生まれてきてごめんなさい、こんな愚かな馬鹿が先生の生徒でごめんなさい。ミルフィは悪い子です、偉大な先生に教えてもらう価値なんてありません」
止めようと思っても止まらない、止められない。
夫人が、先生が許してくれるまでミルフィは泣くのを我慢して、叩かれても痛いのを我慢して謝り続けないといけないから。泣いたりしたら、謝るのを止めたらもっと叩かれてしまうから。先生に許すと言われるまで止めてはいけないのだ。
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「なんだって?」
優しい兄様が声を荒げるから、私は我に返ってびくりと震えてパティにしがみつく。
「ごめんね。怖がらせるつもりじゃなかったんだよ」
「お兄ちゃま」
「パティ、お父様はご存知なんだね」
「はい、旦那様は授業の様子をご覧になりましたので」
「分かった」
何が分かったのだろう。
三歳の外見の私の中にいるのは大人だった私だけど、三歳児の意識が融合した弊害なのか、今の私の思考は大人だったとはとても言えないほどに幼い。
普通の三歳児かと言われたら違うけれど、大人の思考能力があるのかといえば、そういうわけでもない。
大人だったという意識はあるけれど、記憶を取り戻した直後よりも以前の記憶が薄れてきている気がするのだ。
「僕がお父様に話してあげるから、ミルフィはお部屋に戻りなさい。牛乳を飲んだのだからガスパール先生の診察が終わるまで何も食べてはいけないよ」
「はぁい」
甘いものを飲んだから何かを食べたい欲求は無くなっているのに、食いしん坊の様に兄様に言われて少し不機嫌になる。
授業の後とかとても空腹になるけれど、そういう時は牛乳を飲んだ程度では空腹はおさまらないのに、今はお腹が満たされている。
「膨れっ面、食べ物詰め込んだリスみたいになってるよ」
「リス?」
三歳の私はリスなんて見たことないし、知らない。
以前の私も本物を見たことはなかったと思う。
「小さな可愛い動物だよ。今度絵本を見せてあげる」
つんと私の頬を指先でつつきながらしてくれる約束に、単純な私は機嫌が直ってしまう。
「絵本?」
「今は駄目だよ。僕は授業の準備があるから、時間のある時にね」
「絵本読んでくれるの?」
「ミルフィがいい子にしていたらね」
兄様からしてくれた約束に、私は浮かれて部屋に戻るのだった。




