第1話目覚めた私は三歳でした
目が覚めて視線を動かすと、ベッドの天蓋に掛かっている布がいつもと違っていた。
愛らしい桃色の布は、レースで縁取られている。
私が今まで使っていたのは濃い緑色のものだった筈なのに、眠っている間に変えたのだろうか。
寝起きのぼんやりしている頭で考えて、それは出来ないだろうと否定する。
最近は年齢のせいか眠りが浅い、だから眠っていたとしても側で誰かが何かしていたらすぐに目を覚ましてしまうだろう。
眠る前に気が付かなかったのだろうか、そもそも私はいつから寝ていたのだろう。
布の色と縁取りのレースの模様が分かる程度にこの部屋は明るいけれど、灯りが点いているわけではなさそうだから今はまだ昼間なのだろう。
なぜこんな時間に眠っていたのか分からないけれど、起きなければ。
何もすることはないけれど、怠惰に寝ているのは貴婦人として正しい行いではない。
「な…に?」
体を起こそうとしたのに力が上手く入らず、思わず出た声はかすれてた。
もしかして私は具合が悪くそれで昼間から寝ていたのだろうか。動くのを諦め考え込んでいると大きな声が部屋に響いた。
「お嬢様、目を覚まされたのですねっ!」
お嬢様?
若い女性の声に、私は内心首を傾げる。
視線を動かすと、正式なメイドのお仕着せとは違うが膝丈の地味なワンピースを着て白いエプロンを着けた使用人がベッドに近寄って来るから身構える。
知らない、こんな若いいいや幼い使用人なんて、この人は誰なの。
「お嬢様?」
私は返事をせず使用人を見つめていた。
なぜ、この使用人は私をお嬢様と呼ぶのだろう。
私がそう呼ばれていたのは遙か昔、スフィール侯爵令嬢と呼ばれていた頃の話だ。
私はスフィール侯爵の長女として生まれ、十代で亡くなった兄の代わりに婿を取りスフィール侯爵夫人となった。
結婚してからお嬢様と呼ばれたことは勿論ない、使用人達は皆『奥様』と呼んでいる。なのにこの若いというより少女と言って良さそうな年齢に見える、この使用人はなぜ私をお嬢様と呼ぶのだろう。
「ミルフィーヌお嬢様。すぐに旦那様と奥様をお呼びして参ります。すぐです、少しだけお側を離れますが、すぐに戻って参りますからっ」
私の顔を覗き込む様に見ながら、「すぐに、すぐに」と繰り返すこの少女は誰だろう。
茶色の髪と瞳で眉のあたりで前髪を切り揃え後ろは左右に分けて三つ編みにしている。顔は少しそばかすがあるから貴族ではないだろう。貴族の娘を行儀見習いで預かることはあるけれど、彼女たちの肌の手入れは完璧だから、そばかすがあったら少女だとしても白粉で隠すはずだ。
でもこの顔に見覚えはある気がするけれど、こんな幼い使用人が我が侯爵家にいただろうかと考えて、子供が働いていたのはそれこそ私がお嬢様と呼ばれていた頃だけだと思い出す。
そうだこの顔は、私をお嬢様と呼び常に側にいた少女の顔だ。
でもそんなことがある筈が無い、彼女である筈がない。
「パティ?」
そんな筈が無いと思いながら名前を呼ぶ、私の声は掠れていた。
私が幼い頃から、私付きのメイドとして仕えてくれていた彼女の名を呼ぶ。
そんな筈が無いのは分かっている、なぜならパティは私よりも年上だからだ。
だから、こんな子供のわけがない。
「はい、ミルフィーヌお嬢様。パティでございます、お分かりになりますか?」
そんな筈が無い。なのに、目の前の少女は否定しないどころかパティだと認めてしまった。
「パティ」
なぜパティがこんなに若いのだろうと戸惑いながら、耳に届いた自分の声、それは私の記憶よりもかなり若い、いいや幼い子供の様な声だと気が付いた。
「パティ、起こして」
力が入らない体は自分の意思で動けないままだけれど、なんとか右手だけをパティへと伸ばす。
その手は、皺ひとつない小さな子供の手で私は悲鳴を上げそうになる。
「ミルフィーヌお嬢様、旦那様達をお呼びして参ります。それまではこのままお待ちください」
にっこりと笑い私の手を取ったパティは、私に寝たままでいろと言う。
それに、とうの昔に亡くなった両親を呼んでくるとまで、これはもしかすると夢なのだろうか。
夢なのか現実なのか、頭の中がぼんやりしていてよく分からない。
「パティ」
「すぐに旦那様と奥様をお呼びして参りますね」
私の手を下ろし、パティは足早に部屋を出ていく。
私はそれを見送りながら、目の前に両手を出して見つめ始める。
「子供の手、パティよりも幼い、そんなのって」
皺のない子供の手、これが自分の手だと信じられない。
「だって私は子供の筈がない。私は病で長くないと、確か最後にパティが私の手を取って……」
年を取った私は病で長く床に着いていた。
部屋に訪れるのはパティだけで、夫も子供達も見舞いに来ることは無かった。
私は薄暗い部屋でパティの手を取り何かを言った後で瞼を閉じて、きっともう目覚めないとそう思った。
その後なにかあったような覚えもあるけれど、霞がかかったように記憶がはっきりしない。
「そうよ、私はあの時命が尽きた。なのに、どうして」
信じられないけれど私は死ぬ間際の老女ではなく、子供の頃に戻ってしまったらしい。
夢でないのなら、私は過去に戻ってしまったのだ。
「何が起きているの」
一人の部屋に、私の声だけが響いていた。
※※※※※※
「良かったわ、ミルフィーヌ。目が覚めて本当に良かった」
パティはすぐというその言葉通りお父様とお母様を部屋に連れてくると、今度は「何かお飲みものを」と部屋を出て行った。
両親が揃って私を見つめている状況が信じられず、私は何の反応も出来ずにいた。
やはりこれは夢なのだろうか、兄様ならともかく私のことを両親がこんなに心配していた事なんて幼い頃ですら記憶にない。
「私達の事が分るかい? 先生、ミルフィーヌの体は……」
お父様とお母様に挟まれるようにしながらベッドのすぐ傍に置かれた椅子に座り私を診てくれているのは、昔お世話になった治癒師のガスパール先生だった。
ガスパール先生も記憶よりだいぶ若かった。先生はお父様よりも年上で、亡くなったのは確か私が結婚して三年ほど過ぎた頃だった。
今はまだ若く、亡くなる頃には真っ白だった髪も今は綺麗な栗色だ。
「ガスパール先生が帰られる前で良かったわ」
「先程先生に掛けていただいた治癒魔法が効いて意識が戻ったのだろう、先生に診て頂いて良かった」
私を見つめながら話す両親の会話で、状況が何となく分った。
私は何かの病気で意識を失い、ガスパール先生に治癒魔法を掛けて頂いたお陰で目覚めたのだろう。
治癒魔法を掛けてもすぐに倦怠感は抜けない、だから体を動かすのが辛いのだと思う。
「ミルフィーヌお嬢様、声を出せますか?」
「はい。こほっ」
ふわふわの枕を背もたれにして座っていても、体が怠くてたまらない。
パティの名前を呼んだ時よりも、声が掠れている気がするし唇も乾いているのか、少し痛みがあった。
「こほっ、こほっ」
「ミルフィーヌ。無理はしてはいけないわ」
「お嬢様、お水ですっ」
私の背中を摩る優しいお母様の手の動きを嬉しく思いながら、勢いよく開いた扉にびくりと体を一瞬震わせてから視線を向ける。
視線を動かすと、お母様の綺麗に結い上げた髪が視界の端に見えた。
お母様は薄い金色の髪と緑の瞳の美しい人で、幼い頃私はお母様に良く似ていると言われていた。これだけお母様に似ているのだから将来は美しくなるだろう、そう言われていたのに私は不出来な娘だったから容姿は成長と共に悪くなりお母様似とはとても言えない見た目になっっていたのだと、急に思い出す。
「パティ」
「申し訳ありません。奥様、慌ててしまいました。お嬢様に少しでも早くお水をと」
「いいわ。早くこちらに水を。ミルフィーヌ、お水よ。飲める?」
「十日以上も目を覚さなかったのですから、喉が乾いて声が出なくても当然ですね。申し訳ありませんお嬢様、私の配慮が足りませんでした」
しゅんとしている先生を横目に、お母様に介助されながら水を飲む。
今の私が子供だとしても行儀が悪いと怒られるかもしれない。それが分かっていても、ごくごくと喉を鳴らしながら勢いよく水を飲むのを止められない。
その位喉が渇いていた。
お母様のハンカチが私の口元を拭ってくれ、だけどハンカチについている匂いが鼻につき私は眉をしかめる。
この匂いはなんだろう、凄く嫌な青臭い匂い、でもなんだかよく知っているものだとも感じる。
お母様の香水だろうか、でもそれは違う香りがお母様から香ってくる。
「ミルフィーヌお行儀が悪いわ」
「十日以上も目を覚まさなかったんだ、喉が渇いているのだろう。今日は行儀は気にしなくていいよミルフィーヌ」
私が考えていた通り、水を勢いよく飲み過ぎたのかお母様から注意を受け、お父様は逆に許してくれた。
ガスパール先生は十日以上と言った。私はそんなに長い間目を覚まさなかったのか。
それなら忙しい両親が揃って私の部屋に来るのも納得出来る。
「ミルフィーヌ、口元が濡れているわ」
お母様がハンカチで口元を拭ってくれるけれど、ハンカチについた匂いについ顔をしかめてしまう。
でもまだ喉が渇いているから、また勢いよく飲み始めてしまう。
「ミルフィーヌお嬢様、落ち着いてもっとゆっくりお飲み下さい。そんなに勢いよく飲んでしまうのはいけません。ずっと何も召し上がっていなかったのです。例え水だとしても一度に大量に摂取しては胃が驚いてしまいます」
私が顔をしかめたのを勘違いしたのかガスパール先生は、慌てたように私に話しかける。
「先生、そんな難しい事を言っても分りませんよ。ミルフィーヌはまだ三つになったばかりですよ」
「え。げほっ。けほっ!」
お父様の言葉に驚いて、水を飲んでいるのに声を出そうとして咳き込んでしまう。
今お父様はなんて言った? 三つ? 私がまだ三歳だというの?
「ミルフィーヌ、大丈夫か?」
「ほらだから落ち着いてと。ミルフィーヌお嬢様、大丈夫ですか」
「だい、だいじょ……ぶ」
大丈夫なんかじゃなかった。
頭が混乱する。
だって私は、結婚して子供を産んで、その子供達が大人になって結婚して孫までいたのに。
年を取った私はある病気で、たぶん命を終えた筈だった。
死の間際だというのに、パティ以外の誰にも看取られずに命を終えた。多分あれが最後の記憶だ。
それなのに、どうして今同じミルフィーヌとして生きているのか。
「おとうさ……。おかあ……」
咳き込み過ぎて、くらくらする。
「ミルフィーヌ?」
「ミルフィーヌ!!」
お父様とお母様の、私を呼ぶ声が遠くなる。
ああ、私生まれ変わったの? 自分に? 私はミルフィーヌ・スフィールに生まれ変わったの?
子供の体は現実を受け入れられなくて、私は意識を手放したのだった。




