独眼竜 異世界に降り立ちて
暗い。そしてなにより、ひどく静かだ。
病の床に伏せ、幾日、幾月が過ぎただろうか。
腹の中を食い破るような痛みはいつしか痺れに変わり、今では自らの手足がどこにあるのかすら定かではない。
重く垂れ込めた帳の向こうから、誰かのむせび泣く声が微かに聞こえた気がした。だがそれも、水底から響くように遠かった。
ああ、これが死か。人生五十年と言うが、果たして、それを越える意味のあった人生だっただろうか。
天下を掴み損ねた無念も、残していく者たちへの未練も、今はただ薄墨のようにぼやけていく。
七十余年の生涯。駆け抜け、もがき、奪い、築き上げた日々。
派手に傾いて生きてきたつもりだが、幕引きというのは案外、呆気なく、ひどく静かなものらしい。
ふっと、最後に残っていたひとひらの意識が、完全な虚無へと溶け落ちた。
冷たい闇に沈みゆく中、俺はこれで全てが終わったのだと、確かに受け入れたはずだった。
――だが。
「……ん」
まぶたの裏を、容赦のない光が刺した。
同時に、肺に冷たく澄んだ空気が流れ込んでくる。病魔に蝕まれたひどい臭いではなく、むせ返るような草木の青々とした匂いだ。
ゆっくりと目を開ける。
見えたのは、極彩色に彩られた見知らぬ天井ではなく、突き抜けるような青空と、見たこともないほど巨大な樹々の天蓋だった。
体を起こそうとして、息を呑む。
「……あ?」
関節の痛みがない。体が、羽根のように軽い。
目の前に突き出した両手を見て、俺は言葉を失った。
しわがれ、枯れ枝のようだったはずの手が、張りを取り戻している。骨太で、血の巡りが良く、生命力に満ち溢れた若者の手。
慌てて自身の体をまさぐる。間違いない。この体は、俺が最も力に満ちていた、十代後半の頃のそれに等しい。
「どうなってやがる……地獄か、極楽か。それとも、狐にでも化かされたか…」
声も、発した自分でさえ驚くほどに澄んで響いた。
さらに異変は続く。肩に掛かる髪の毛が、雪のように真っ白な銀色へと染まっていた。
そして何より――。
「……見える…だと…?」
幼き日に病で失い、以後ずっと闇に沈んでいたはずの右目が、はっきりと世界を捉えていた。
左目とは違う、何やら妙に熱を帯びた感覚。
俺は近くにあった泉に駆け寄り、水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、確かに若き日の俺―伊達政宗の顔だ。
俺が幼いころに亡くしたはずの右目は、白く脱色した髪よりも目を引く。
妖しく、そして途方もなく深く輝く、鮮烈な紫の瞳。その奥には、なにやら人ならざる凄まじい力が渦巻いているのが分かった。
俺がその紫の目で、ふと周囲の茂みを見つめた瞬間だった。
―『ギャアアアッ!』
―『ピイィィッ!』
突如、森の奥から悲鳴のような鳴き声が上がり、獣や鳥たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
水辺で休んでいた見知らぬ形の小動物などは、俺と目が合っただけで泡を吹いて気を失ってしまった。
「……こいつは、ひどく厄介な代物を貰い受けたらしい。」
どうやらこの右目は、生きとし生けるものを本能的に震え上がらせるような、途轍もない覇気を放っているようだ。これでは狩りもできやしない。
俺は着ていた小袖の裾を、偶然持っていた小刀で裂くと、右目を覆う眼帯を作り、後頭部で固く結んだ。
片目を隠すと、奇妙な熱も収まり、周囲の気配も落ち着きを取り戻した。
「よし。これでいつもの独眼竜だ。」
皮肉だが、たとえ右目が復活しようと、俺にはこれがお似合いらしい。
立ち上がり、改めて周囲を見渡す。
連なる山々は、俺の知る日ノ本のどの景色とも違っていた。
だが、不思議と不安はなかった。むしろ、心の底から湧き上がってくるのは、抑えきれないほどの高揚感だ。
ここには、豊臣の威光も、徳川の重圧もない。
家を存続させるための窮屈な駆け引きも、謀略もない。
ただ、広大で未知なる天地が広がっているだけだ。
「クククッ…悪くねえ。あの世というやつがこんなに面白い場所なら、もっと早く来るべきだったな。」
誰の指図も受けず、己の才覚と腕っぷし一つで生きていける。
天がもう一度、俺に若さと命を与えたというのなら、今度こそ誰にも文句は言わせない。俺の好きに、とびきり派手に生きてやれる。今度こそ、己の突きだけを目印に生きていける…!
「……オッシャァァァ!」
そうと決まれば、まずは腹ごしらえだ。
山中を歩き始めると、見たこともない奇妙な木の実を見つけた。燃えるような赤い色をしていて、大きさは野苺程度。
(こいつは、食えるのか? 毒はないか、詳しく知りたいもんだが……)
そう頭の中で念じた、その時だった。
手の中に、突如としてずしりとした重みを感じた。
驚いて視線を落とすと、そこには古びた一巻の絵巻物が握られていた。
「なんだ?これ。どこから湧いて出た?」
周囲に人の気配はない。どうやら、俺が何かを「知りたい」と思ったことに応えて現れたらしい。
紐を解いて広げてみると、そこには細々とした筆致で、目の前の木の実の正体が書かれていた。
『紅炎果。そのまま食せば烈火の如き腹痛を催すが、火を通せば極上の甘味に変わる』
「へえ、気の利く代物じゃねえか。ただ…少し字が細かいな」
便利ではあるが、じっくりと読み込まないと内容が頭に入ってこない。戦の最中などに呑気に広げていたら、読み終わる前に首が飛んでしまうだろう。まぁ、この世で戦など、あるかすらわからんが。とにもかくにも、使い所は見極める必要がありそうだ。
万物を見通す「絵巻」と、生き物を圧倒する「紫の右目」。
この二つの力があれば、この見知らぬ世界でも十分にやっていけそうだ。
「…やってやる。」
それからの数日は、山での根城作りに費やした。
絵巻を開いては食える草木を見繕い、泥水を安全な飲み水に変える方法を調べる。
若く力に満ちた肉体は、少し動かしただけで思い通りに躍動した。小刀で木の枝を削り、罠を仕掛け、手頃な洞窟を見つけて寝床を整える。
かつて戦場で培った勘と、この不思議な絵巻の知識を合わせれば、山での暮らしなど造作もなかった。
夜、焚き火の前に座り、絵巻の教え通りに炙った木の実を齧る。
口いっぱいに広がる甘味に、思わず笑みがこぼれた。
「最高だな。天下取りの重圧より、よほど気分がいい」
見上げる夜空には、見慣れぬ星座が輝いている。
これからこの世界で、何をしようか。どんな面白いことが待っているのか。
焚き火の炎に照らされた俺の口元は、自然と不敵な弧を描いていた。
翌朝。
差し込む朝日で目を覚ました俺は、洞窟の入り口近くで見慣れぬものが転がっているのに気づいた。
煤けた岩肌の上に、ぽつんと置かれた一巻の絵巻物。
昨日、俺自身の意志で呼び出した鑑定用のものとは、明らかに雰囲気が違う。紐が赤と金の飾り紐で、やけに厳かに結ばれていた。
「……なんだ、呼び出した覚えはねえぞ?」
訝しみながらも手を伸ばし、紐を解く。
すると、引き出された白い和紙の上に、墨の文字が浮かび上がってきた。
『恩赦。かつて日ノ本にて天下を夢見た独眼竜に、一度限りの特権を与える。
お前がかつて所有し、深く魂に刻んだ「物」を、三つだけこの地に呼び出すことを許そう。ただし、この世界の理に合わせた変化を伴う場合がある』
思わず、短い口笛を吹いた。
一度きりとはいえ、元の世界から物を取り寄せられる。これ以上の贈り物はない。これが何者が送り込んだ物かはわからないが。
だが、「三つだけ」だ。この先の見えない地で、俺が最も必要とするものは何か。
「……決まってるじゃねえか。」
俺を俺たらしめる、その物。
目を閉じれば、すぐにその姿が思い浮かぶ。
数多の戦場を共に駆け抜け、一度は火災に遭いながらも俺の手元にあり続けた愛刀。
数多の矢弾を弾き、俺の命を守り抜いた堅牢なる漆黒の鎧。
戦場で誰よりも目立ち、我が生き様を示すために羽織った、色鮮やかなあの陣羽織。
「来い――『燭台切光忠』! 『黒漆塗五枚胴具足』! そして『紫羅背板地五色乱星同』だ!」
叫ぶと同時に、絵巻が眩い光を放ち、霧のように霧散した。
洞窟の中に渦巻く光が収まったとき、俺の目の前には、三つの影が鎮座していた。
「おう……待たせたな、光忠」
最初に手を伸ばしたのは、俺の愛刀・燭台切光忠だ。
黒漆塗の鞘からゆっくりと引き抜くと、研ぎ澄まされた刃が妖しく光を反射した。これはあの時のままだ。異世界に渡ってもなお、主を護るための鋭さは一分たりとも鈍っていない。その確かな重みに、胸の奥が熱くなる。
だが、残りの二つを見た瞬間、俺は思わず目を見張った。
「おいおい……ずいぶんと粋な変わり方をしてくれたじゃねえか」
そこにあった『黒漆塗五枚胴具足』は、日ノ本のそれよりも、どこか軽やかで鋭利なものに変貌していた。
鉄よりも頑丈でありながら羽のように軽い、漆黒の未知の金属。
草摺や袖の節々は、蛇腹のように滑らかに動き、俺の若い肉体の躍動を邪魔しないように最適化されている。胸元には、魔力を宿した紫色の小さな結晶が埋め込まれ、深淵な光を放っていた。
そして、その上に重ねる『紫羅背板地五色乱星同』、通称『紫乱星同』。
あの水玉星模様はそのままに、素材が完全にこちらの世界の魔法繊維に変わっていた。
触れると、絹よりも滑らかで、それでいて刃を通さぬほどの強靭さを感じる。風になびけば、まるで本物の星空が揺らめいているかのように、五色の円が微かに明滅した。
背中には、伊達家の家紋ではなく、この世界の象徴か、あるいは俺の右目の覚醒を予兆するかのような「一頭の龍」の意匠が、金の刺繍で立体的に浮かび上がっている。
「ははっ、これだよ、これ! これこそ伊達政宗だ!」
俺は湧き上がる興奮を抑えきれず、すぐさまそれを身に纏った。
驚くほど体に馴染む。まるで、俺の新しい肉体のために誂えられたかのようだ。
白髪の頭に、漆黒の鎧。
そして星空を背負ったような水玉の陣羽織が、山の風に派手になびく。
腰には、無双の切れ味を誇る光忠。
「決まりすぎてて、見せる相手がいねえのが惜しいくらいだな」
腰の光忠の柄に手をかけ、ニヤリと笑う。
この装備と、鑑定絵巻、そして眼帯の裏に隠した龍の目。
これだけ揃って、ただ山にこもっているだけなんてのは、性分に合わない。
「よし。少し遠くまで、この世界の様子を見に行くとするか」
俺は光る愛刀を鞘に収めると、弾むような足取りで、まだ見ぬ世界へと一歩を踏み出した。
――この気ままな一人の生活が、追われる一人の少女との出会いによって、あっさりと終わりを告げることになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。




