マリエとユイとお山の祝福
精霊の祝福――そんな単語で連想されるものは何だろうか。
妖精の名付け親からの贈り物? それとも、悪戯な彼らが引き起こす悲喜こもごも? あるいは、契約により行使できる魔法の力?
エレンダール帝国で精霊の祝福といえば、一般的に七歳の子供が神殿で受ける健やかな成長を祈る祝いの儀式、および、そのときに授けられる祝福そのものを指す。だがロウサン山脈の東側、ここラグロウズでは、七つのお祝いのほかに時ならぬ好天――特に冬季における晴天をも指す。分厚く灰色の雪雲が重たく低く垂れ込める厳しい冬が一年の半分近くを占めるラグロウズでは、冬場の青空はそれほどまでに珍しい。
マリエが精霊の祝福を授かった日の空は特に青く、高く、どこまでも澄み切っていた。雲ひとつない、まさに『精霊様の祝福』と称されるにふさわしい晴れやかな空の色を、マリエは今でも鮮明に思い出すことができる。
***
「おとうさん。」
マリエは精一杯顎を上げて背後から抱き込む父を見上げた。大きくて優しい、大好きな父は前をまっすぐ見つめているから、マリエはほぼ真下から見上げることになる。いつもと違う角度で見上げる父の顔は、鼻の穴まで丸見えだ。
おとうさんとおとうさんの鼻の穴、おとうさんの向こうに見える青い空。
マリエはぱちくりと目を瞬かせる。
いつだってとっても素敵なおとうさんだけど、そりゃあ、ヘンな顔のときもあるだろう。うん、ヘンな顔だ。ヘンな顔のはずなのに――なのに、それでもかっこいいなんて……それこそヘンだ。ぜったいヘン。
おかしくて思わず笑い出してしまったマリエは、これ以上、父のヘンな顔を見ないように正面に向き直る。
「どうした、マリエ。」
ご機嫌なマリエに気づいたのだろう。父はゆるく握った手綱から左手を放して愛娘の頭に置く。いつものように、ぐしゃぐしゃにかき回されたりはしない。どんなに幼くても娘が女の子だということを――めでたいハレの日、色鮮やかな一張羅に複雑に結い上げた髪、目いっぱい着飾っているときに髪型を崩されたら、せっかくのご機嫌もすぐに損ねてしまうということを、よく知っているのだ。
「なんでもない。呼んでみただけ。」
「そうか?」
父は納得していないようだったが、マリエは何も言わず――こらえきれないクスクス笑いを無言に含めてよいのであれば――思いっきり父親にもたれかかった。小さいマリエが全体重を預けたところで、大人の男である父はびくともしない。なだめるように、ぽんぽんと軽くマリエの頭を叩いた父は、片手にまとめて握っていた手綱を両手に持ち直す。
大好きな父の腹部と両腕に挟まれた暖かいそこは、絶対に信頼できる安心安全なお気に入りの場所だ。たとえ普段の視界よりはるかに高い馬上であろうとも、直接抱きかかえられはしなくとも、並足とはいえ少なからず揺れても、不安に感じることはない。
(ユイもおんなじだといいな。)
斜め前方に、マリエと同様、父親の操る馬に二人乗りした従妹が見える。話す内容までは聞き取れないものの、時折聞こえる笑い声は弾んでいるし、垣間見える表情は明るく、頬は紅潮している。楽しげな雰囲気が伝わってきて、マリエは一安心する。何日も前から、従妹はこの日をとても楽しみにしていたから。夕べなど、期待と緊張でなかなか寝付けなかったようだし。
(いつもなら、おやすみ三秒が自慢なのにね。)
それも当然だろう。マリエだって、父と数ヶ月ぶりに会うことになったら、緊張するに違いない。
従妹のユイは、普段は父親と離れて暮らしている。カタスカーナ家の家長であり、ラグロウズの領主であるユイの父親は、遠く離れた帝都で仕事をしていることが多い。単身赴任というらしい。田植えの季節も、稲刈りの季節も帰ってくるけれど、マリエと違って毎日両親と一緒にいられるわけじゃない。そもそも帰ってきても仕事が忙しくてユイだけにかまっていられない。だからこそ、ユイのために父親が帰ってきてくれるこの日を――七つのお祝いに精霊様の祝福を授けていただくこのよき日を、従妹は誰よりも心待ちにしていた。
マリエたちが暮らすラグロウズには、七歳になった子供に精霊様――お山のヌシ様の祝福を授けていただく風習がある。
七つになるまでは、子供はヌシ様からの預かりものだ。いつ、ヌシ様の元に還ってしまってもおかしくない。だが七つになれば、預かりものは人間の子供になる。村の仲間として迎えられる。そのお祝いと、人間の子供として改めてヌシ様にご挨拶するために、吉日を選んで神殿に詣でるのだ。その際に神官様から授けていただくのが精霊様の祝福である。
マリエもユイも、先日七歳を迎えた。正確には、マリエはユイに先んじること三ヶ月前に七歳となっていたのだが、マリエの誕生日の頃はあまりに雪が深すぎた。連日の吹雪と、幼い子供の背丈をはるかに超えるほど降り積もった雪。ヌシ様の神殿は里を守るようにそびえる、お山の麓にあるのだが、そこまでの道も完全に白く塗り込められる。むしろ里より深く、里と違いほとんど片付けられずに積もりっぱなしの雪を除けながらの行軍は大人でも音を上げる――一面の白い平原は恐ろしくゆっくりとしか進めない上に、遠近感を狂わされるから少しくらい進んでも目的地までの距離が縮まった気がしないのだ。慣れた大人なら厳冬のさなかでも往復可能だが、幼い子供を連れて参拝するのはあまりに無謀な時期だった。ゆえに、マリエのお祝いはユイの誕生日を待って、一緒に行われることになった。
もっとも徐々に春めいてきている今も、積もった雪は量を減らしはしたが、完全に消えてはいない。例年ならば水気をたっぷり含んだ、大粒で重たい冬の名残の雪が降ったとしてもおかしくない時期である。幸いなことに、ここ数日は雪も霙も雨すら降らず、今日にいたっては抜けるような晴天で、きれいに雪かきされ久しぶりに顔を出した地面は少々ぬかるんではいても、着飾ってお参りするのに差し障るほどではない。かねてからの予定通り、本日の主役である少女たちは晴れ着に袖を通し、マリエは両親に、ユイは父親に連れられて、神殿に向かっている。
本当に久しぶりの父子水入らずの時間を、存外さびしがり屋の従妹は堪能していることだろう。ご母堂である領主夫人が鬼籍に入ってしまってからというもの、ユイのお父さん子っぷりには磨きがかかっているから。
「……よかった。ユイ、ちゃんとお話できてるみたい。」
緊張して変なことを言っちゃったらどうしよう、ちゃんとお話できるだろうかと、散々泣きつかれ相談されてきたマリエとしては、ユイたち父子の和やかな様子にほっとするしかない。
「そうだね。……マリエ。」
「おとうさん?」
大好きな父の、どこか硬い口調――改まった態度を敏感に感じ取ったマリエは、先ほどと同じように首をのけぞらせた。さっきと同じ角度。同じヘンな顔。だけどちっとも面白くない。
「お嬢様だ、マリエ。」
「おじょう、さま?」
「そう、お嬢様。ユイ様のことは、お嬢様とお呼びするんだ。」
「あなた!」
よくわからないマリエは小首をかしげて目を瞬かせる。マリエに代わって反応したのは、それまで黙って見守っていた母だ。マリエたちのすぐ隣まで馬を寄せた母は、周囲に聞こえないよう声を潜める。
「あなた、まだ早いわ。二人ともまだ七つなのよ。」
「早すぎることはないよ、ジュリ。七歳ならそろそろ、わきまえてもいい年齢だ。」
「でも、二人ともあんなに仲良しなのに。」
「二人とも頭がいい。今は無理でも、いずれ理解するよ。主従の分をわきまえたとしても、マリエがお嬢様の一番近くにいることに変わりはないと――マリエ。」
父が再びマリエの頭に手のひらを置く。マリエは黙って父を見上げた。剣の代わりに筆を取ることが多い父の手のひらは騎士たちほどに硬くも厚くもないが、それでも骨ばっている。そして温かい。その手が、マリエの頭を優しく撫でる。その手にあわせるように、マリエの胡桃色の目が瞬く。幼いながらに、父の言葉を精一杯理解しようと――真摯な父の態度に精一杯真面目に応えようと。
「ユイお嬢様はこれからも大変な苦労をなさるだろうが、お前はどんなときでも傍にいて、近くで支えて差し上げるんだ。できるね?」
「……うん。わかった。わかってる。あたしがユイ……お嬢様の力になるよ。だいじな妹だもん。傍にいる。一人になんか、しないよ。」
だから安心して?
お嬢様を守る。その誓いはマリエの心にすうっとしみこんだ。父に褒めてもらいたいがための発言ではない。本当に、心底からそう思うから――誓いとすら言えないかもしれない。父母の手伝いをするのと同じくらい、弟妹を守ることはマリエにとって当たり前のことだから。
それが伝わったのだろう。硬かった父の表情が溶けるように和らぐ。そうできたことが、マリエにとって何よりも誇らしかった。
あとから思い返してみても、この時点で父がどこまでを想定していたのか、マリエにはわからない。
だがそんなことは関係なく、このときの誓いが、その後のマリエの指針となる。
神殿へと続く杉並木の入り口で、マリエたちは同行した従者に足を止められる。
「お屋形様、お下りください。ここから先は騎乗になれません。」
軽やかに下馬した父が、マリエを抱き下ろす。久しぶりに動かない地面に降りたマリエは、自分が少なからずほっとしていることに気づいた。怖かったわけでもなんでもないのだが、踏ん張ることのできない揺れる馬の上で、知らない間に緊張していたらしい。ユイは大丈夫だろうかと従妹を振り仰げば、領主に抱き下ろされていた。そして同じように緊張していたのか、地面に足をついたとたん、たたらを踏んだ。
「ユ、……お嬢様! 大丈夫、ですか?」
(うう……慣れないなあ。)
慌てたせいか、誓ったそばから失敗した。
(でも絶対、慣れてやる。ユイのそばにはわたしがいるんだから。)
ひとつの布団で子猫のように丸まって一緒に眠り、一緒に育った、大切な従妹だ。一番近くでユイを守るため、ユイをお嬢様と呼び、お仕えすることが必要だというのなら、慣れない敬語だって覚えてやる。
内心、誓いを新たにしながらマリエはユイに駆け寄った――普段の楽な格好に比べると格段に動きづらい晴れ着に許される最大の速さで。
お屋形様に支えられたお嬢様は近づいたマリエに気づくと、うつむいていた顔を上げてにっこり笑う。
「大丈夫。ありがとう、マリちゃん。……マリちゃんは? 足、ヘンじゃない?」
「あたしも大丈夫です。って、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃないですか。」
一歩踏み出してよろけたお嬢様の左手を、とっさに取る。「そうみたい。」と照れたように笑って、お嬢様はマリエの手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう。」
――かわいい! かわいすぎるよ、お嬢様!
マリエは抱きしめて撫で回したいのをひたすらこらえた。二人とも着飾っているのだから、無茶はできない。こらえなくてはならない。だから、口元がぷるぷるしていても、ちょっと動きが怪しく見えても、今は許してほしい。いずれは侍女らしい、何事にも動じない度胸とお面のような無表情を身につけるから、今だけは。
里一番の美少女の輝く笑顔は破壊力が強すぎる。
まさに濡れ羽色としか言いようがない艶やかな黒髪。紅を差した小さな白い顔。大きくて丸い飴色の目。ふっくらした桜色の唇。ほっそりした首に色鮮やかな衣に包まれた華奢な手足。何一つとっても愛らしいの一言に尽きる。特にまっすぐで長い睫に縁取られた飴色の目が、うるうる潤んでマリエを見上げているのだ。かわいらしいものに目がない女の子であるマリエが悶えても無理はないのだ。
(お嬢様の笑顔はあたしが守る!)
お嬢様とつないでいないほうの手をぐっと握りこんで、熱すぎる思いを胸にしたとしても……しようがないのだ、たぶん。
そんな二人の少女を温かい――生ぬるくはない、たぶん――まなざしで見つめていたお屋形様は、流れるように滑らかな動作で愛娘の右手を取った。くつわを取った従者に手綱を預けて、穏やかに微笑む。
「じゃあ行こうか。」
マリエは慌てて身を引こうとしたが、肝心の従妹が手を放してくれなかった。おまけに本来なら娘をいさめるべき父親が、とても嬉しそうに、にっこり笑う。それはそれは、お嬢様そっくりの笑顔で。
……このまま行けってことだよね?
仕事の都合上、子供たちと触れ合う機会の少ないお屋形様は、愛娘が喜ぶことは何でもしてあげたいのだろう。お嬢様も手を放してくれそうにない。困ってしまって周囲を伺ったら、苦笑いした両親にうなずかれてしまった。
周りの大人もとがめる様子はなく――マリエは下がることをあきらめた。
露払いの騎士を先導に、お屋形様とお嬢様、そしてマリエが手をつないで、並んで神殿の参道を歩く。やや後方をマリエの両親が、さらに後ろには付き添いの従者が続く。
夏には天に向かってまっすぐに伸びる見事な杉を仰ぎ見ることができる並木道だが、今のマリエは風景を楽しむ余地はない。雪はちゃんと除けられていたが、濡れて滑りやすくなった石畳に足をとられないように必死なのだ。なにしろ自分が転べばお嬢様も巻き添えになる。その逆も同じこと。いや、どちらかといえばお嬢様のほうが足元が覚束ない。
「すべるっ。すべるよ、マリちゃんっ!」
「お嬢様、そこくぼんでますから気をつけてっ。」
マリエたちが下ばかり見ていたとしても、仕方がないといえる。
だって転びたくない。痛いのがイヤなのは当然として、せっかくのおしゃれが台無しになるなんてせつな過ぎる。
お嬢様の右手を握ったままのお屋形様は、きゃいきゃい言い合いながらじゃれあうように歩く娘たちを目を細めて見守っていた。いざとなったら幼い二人を抱きとめるくらい造作もないのだろう、余裕の表情である。つまり、足元しか見ていない二人と違い、ふつうに回りに気を配れるわけで――
「ほら、着いたよ。ここから先は神殿の一部……神域になるから、二人ともちょっと静かにしようか。」
注意され、ようやく参道の終点に着いたことに気づいたマリエが、ずっとうつむいていた顔を上げる。顔を上げ、参道の両脇に立てられた二本の朱塗りの柱と、柱と柱をつなぐように渡された、やはり朱塗りの二本の横木を仰ぎ見る。
――瞬間、息が詰まった。指先が冷え、耳鳴りがした。
「お山のヌシ様がお通りになる門だそうだよ。」
「ヌシ様が? こんな大きな門がいるなんて、ヌシ様って、ずいぶん大きな方なのね。」
「んー、どうなんだろうねえ。」
「おとうさまにもわからないの?」
「ヌシ様は確かにお山にいらっしゃるけれど、お姿は誰も見ることができないんだよ。」
にこやかに会話を交わす父子が遠い。背中を一筋、汗が伝い落ちたのがわかる。
……なぜだろう。今日などはほとんど春かと思うほど温かいけれど、だからってまだ雪が残る季節のはずで、汗をかくような気温じゃないはずなのに。
「さあ、ここで立ち止まっていても始まらない。神官様もお待ちだろう。行こう、二人とも。……ああ、真ん中は通らないように。ヌシ様のために空けておくのがマナーだよ。」
笑顔で先を促すお屋形様と嬉々としたお嬢様に引っ張られ、マリエも朱塗りの柱の間――ヌシ様の門をくぐる。大人の真似をして一礼して。教えられたとおり、道の中心を避けて。
(おかしいよ。なんで、だれもおかしいと思わないの……。)
なにかが違う。なにかがおかしい。間違っている、ぜったいに。
……なにが、とはわからないけれど。
マリエがもう少し大きければ、語彙と経験が豊富であれば、それは違和感なのだと断じただろう。無意識下にある『神殿』のイメージと、現実との差異に違和感を覚えたのだと。目の前の構造物を表すには、もっと違う、ふさわしい単語があるはずだと。
だが幼いマリエにそれはわからず、かゆいところに手が届かないような、奥歯になにか挟まったような、居心地の悪い感覚にさいなまれるだけだった。
そのヘンな感覚は、門をくぐってからも続いた。
神官様にご挨拶する前に、湧き水を引いた石臼みたいな手水で両の手と口内を清める。
黒々した瓦で葺かれた三角屋根の神殿の前にたたずむ神官様に、頭を下げる。
その間中、ずっと。
「本日はよろしくお願いします。」
「おねがいします。」
「……します。」
袖と裾が幅広い伝統的な装束を身にまとい、黒塗りの細長い帽子をかぶった壮年の神官様は、常緑樹の枝を手に微笑んでいた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……お会いするのは、例祭以来でしょうか。お二人とも、大きくなられましたね。」
優しい笑顔にぴったりの柔らかい声音。子供の自分たちの目の高さに腰を落とす、穏やかなしぐさ。
……不安に感じる理由なんて何もないはずなのに、胸が騒ぐのはなぜだろう。
「ありがとうございます。神官さまは、ごきげんいかがですか。」
「ご丁寧にありがとうございます。ユーフィーミア様。おかげさまで、今日はすばらしい一日になりそうです。マリエさんは――すこし恥ずかしがり屋さんのようですね。」
三ヶ月とはいえ、年下の従妹はしっかり挨拶しているのに……マリエは神官様が身をかがめたとたん、逃げ出してしまった。一歩後ろに控えていた父の背後に隠れ、安全地帯から少しだけ顔を出して様子を伺う。従妹がびっくりしたように目を丸くするのが見えた。
「マリちゃん?」
「まあまあ、マリエったら……。申し訳ございません、神官様。ふだんは人見知りなどしない子なのですが……。」
「どうしたんだ。お前も楽しみにしていただろう。」
「お気になさらず。緊張しているのでしょう、珍しいことではありません。」
だから叱らないでください。不躾なマリエに気を悪くすることなく、隠れたがる娘を押し出そうとする父母を、神官様はやんわりと諭した。
ゆっくりと姿勢を戻し、慈しむように眦を下げた神官様。
優しそうな人だ。怖がる理由は何もない。大丈夫のはずだ……と、恐る恐る視線を上げたら目があってしまい、マリエは「ひゃっ」っと小さく悲鳴をあげて再び父の背に隠れる。
(……何をやってるのよ、あたしはぁっ!?)
マリエ自身、失礼なまねをしていることはよくよくわかってはいたが、どうにも落ち着かないというか、そわそわするというか。本人にもどうしたらよいかわからない、正体不明の焦りに頭から飲み込まれて振り回されているのだった。
「……本当に申し訳ございません。」
「いえいえ。ですが――お誕生日はマリエさんが先でしたね。」
神官様が、大丈夫かと暗に訊ねる。父は背後に隠れるマリエの背中に手を添えて、首肯する。
「はい。……マリエ、お前が先だ。できるだろう?」
(そういえばそうだった!)
同じ日に複数の子供が祝福を授かる場合、順番は年齢の順、つまりは誕生日順だ。身分は関係ない。マリエとお嬢様なら、マリエが先。
ふと見れば、マリエの動揺がうつってしまったのか、お嬢様までがそわそわしていた。父親の服の裾を握り、きょろきょろと視線を泳がせている。
(なにやってるのよ、あたしは!)
ユイお嬢様とマリエは、生まれたときから、本当の姉妹のように一緒に育ってきた。その姉が、妹を不安に追いやっていいわけがない。兄姉は弟妹の面倒を見るもの。マリエにとって兄がそうであるように、マリエもユイの手本とならなくては。
「だいじょうぶ。できるよ。……ごめんなさい、神官様。お願いします。」
父の背中に隠れることを止めたマリエが、ぴしっと背筋を伸ばして神官様を見上げる。
マリエの意識が変わったことが伝わったのだろう。神官様が鷹揚にうなずく。
「ではこちらに。」
促されて、木造のこぢんまりした神殿の前に立つ。目の前の神官様は、常緑樹の枝を両手に奉げ持って、重々しく告げた。
「はじめます。」
ゆっくりと、マリエの頭上で常緑樹の枝が振られる。硬くて肉厚の葉と葉がこすれあう乾いた音。青々とした匂い。枝にあわせるように、神官様がゆったりと唱える聖句――祝詞、というらしい――は何を言っているのか一言も聞き取れないのだけれど、マリエの耳に心地よく響く。それはなぜか懐かしい響きで。
ばっさばっさと、頭上で振られる常緑樹の枝。その冬でも変わらない緑が払われるたびに、マリエ自身も気づいていなかった、頭の中の靄が払われるようで――
(ああ。これ、七五三だ。)
そう、すとんと胸に落ちた。
ここは日本じゃないけれど――日本どころか地球上のどこでもない、異世界の片隅だけれども――それでも子供の健やかな成長を願い、祝う親心はきっと、どこの世界だって同じなのだ、と。
気づけば祝詞が終わり、神官様が深々と頭を下げた。ほうっとあえかな吐息をもらしたマリエも、合わせて頭を下げる。
「ありがとう、ございました。」
ちょっとぽうっとしながら、両親の元に戻る。祝福を授かる前と明らかに様子が異なる娘に、母は心配そうに声をかけた。
「どうしたの。大丈夫?」
「うん。ちょっとドキドキしてるけど。」
「そう? 無理をしてはだめよ?」
「本当に大丈夫だよ。とってもいい気分なの。なんかふわふわしてて。」
「雰囲気に酔ったのか……? まあいい。よくがんばった。」
ぽんぽんと頭を叩く父。穏やかなまなざしを注ぐ母。大好きな両親に、マリエはへにゃりと笑いかけた。二人の間に入り込んで、左右の手をつなぐ。今度こそ、しっかりと。
「へへっ」
即座に握り返してくれることが嬉しくて、笑みこぼれる。見上げた両親の顔もほころんでいる。それがまた、嬉しい。
(幸せだなあ……。)
晴れ渡った空は高く、青く。降り注ぐ日差しはまばゆく、暖かく。
異世界だろうと何だろうと、大好きな両親がいて、大切な兄弟たちがいて、世界は輝いている。それはなんという祝福だろう。
(それにしても異世界かあ……。魔法とか、妖精さんとか、もふもふの巨大生物とか、ファンタジーっぽいものは何にもないんだけどなあ……。)
マリエは四季折々の姿を見せる里の姿を思い浮かべる――茅葺屋根の家々が点在し、田んぼに囲まれた、たぶん、どこにでもあるようなふるさとの姿を。
ヒバリがさえずる中、みんなで田植えをした新緑の春。うるさいくらいのセミの声と、青々した稲がすくすく育つ暑い夏。秋になれば重たい実をつけて低く頭を垂れる黄金色の稲穂、その上を軽やかに飛ぶ茜色のトンボ。そして一面真っ白く覆われる静かな冬。特に雪の降った早朝は本当に何の音もしなくて――
不思議なことは何もない。特別なこともない。本当に、ごくごく普通の山里だ。平凡で、そして、涙が出るほど美しい。
大好きな家族と、大好きなふるさと。
それは別に、ここが日本であろうとなかろうと、関係ないのではないか。
(うん、関係ないかな。)
だって世界はこんなにも光り輝いている。
それ以上に大切なことなんて、きっと、ありはしない。
(お嬢様の祝福が終わったら、いっぱい、いっぱい、お話しよう。)
この胸の高鳴りをお嬢様と分かち合えたら、きっと何倍も幸せになれるだろう。
緊張でかすかにこわばるお嬢様の端正な横顔に目を細めて。神官様の滑らかな祝詞に耳を傾けて。
マリエはお嬢様に精霊様の祝福が授けられるのを、ドキドキしながら見守った――その感動がはかなくも霧散するなど、予想だにせず。
神官様の前にたたずむ、きれいな立ち姿が音もなくくずおれる。目を疑う光景に、マリエの高揚感など瞬く間に消し飛んだ。
「ユイッ!」
「お嬢様っ?」
そばにいたお屋形様が、倒れたお嬢様をすばやく抱きとめる。マリエも急いで駆け寄った。慣れない晴れ着に神経をすり減らしたのと、緊張と、睡眠不足とで、さては貧血でも起こしたのかと思ったのだが――
「お嬢様?」
赤みの差した頬。柔和に下がった眉尻。かすかに開いた口元から漏れる呼吸も実に穏やかで、とても苦しそうには見えない。なにより長くてまっすぐの睫に縁取られた目は、幸せそうに細められている。ただ、目の前のものを映しているようには見えなかった。
「これは……ああ、いや。起こさないで差し上げてください。」
祝福の儀式が中断してしまった上に領主の愛娘が倒れるという非常事態にも関わらず、神官様は少しも動じなかった。娘の頬を軽く叩いて正気に戻そうとしたお屋形様をやんわりと制し、視線を空に向け、とろけそうなほどの満面の笑みを浮かべた。
つられたマリエも上空を仰ぎ、息を呑む。
(――なに、あれ。)
ついさっきまで雲ひとつなかったはずの青空には、今はふわふわとした雲が浮かんでいた。それは、いい。まだいいのだ。
問題は、その雲が陽光を受けて虹色に輝いているということ。
(なにこれ。どうなってるの?)
マリエには事態がさっぱり把握できなかった。神官様をはじめとする神殿関係者や、随伴した騎士や従者が色めき立つのも、お屋形様がどこか誇らしげな様子を見せるのも。
混乱するマリエを置き去りにして、事態は進む。ぼうっとしていたお嬢様が、身じろぎされたのだ。
「えっと、これは……。」
気がついたら父親に抱えられていたからだろうか。不思議そうに目をぱちくりさせるお嬢様に、先ほどまでの危うさは見受けられない。
状況を把握できないのはマリエと同じらしく、不安そうに視線をさまよわせるお嬢様と目を合わせるように、神官様が膝を突く。
「ユーフィーミア様。ユーフィーミア様は祝福の途中でお倒れになったのですよ。」
「まあ。それは失礼をいたしました。せっかく祝福を授けてくださっていたのに、ごめんなさい。……倒れたりして、お山のヌシ様はお怒りにならないかしら?」
「ご心配なく。ヌシ様はむしろお喜びでしょう。――ああ、そのままで。」
神官様は、立ち上がろうとするお嬢様を笑顔で止め、お屋形様とうなずきあう。
お屋形様はお嬢様を横抱きにしてすっくと立ち上がり、神官様もそれに倣った。視線の高さはお嬢様にあわせ、訊ねる。
「――夢を、ご覧になりましたか。」
「は、はい。」
「夢の中で、何をご覧になりましたか。」
「わたし、お山の上にいました。お山をぐるっと見回したら季節がぐるっとめぐって、とってもきれいだった。」
春の桜が風に舞い、夏の蛍が水辺を飾り、秋の紅葉が斜面を彩り、冬の雪の合間に椿が咲く。お嬢様は、訪れたこともないはずのお山の頂上で、山の四季を追体験したらしい。
マリエには何がなんだかさっぱりわからなかったが、大人たちには自明の理らしかった。みな真剣な面持ちでお嬢様のぽつりぽつりとした説明を聞いている。
「なるほど。すみません、ユーフィーミア様。少々お手を拝借いたします。」
中でも、重々しく何度も何度もうなずいていた神官様が、恭しくお嬢様の右手を取った。とたんに、神官様の右手が光輝く。その手に納まるお嬢様の右手ごと。
「!」
マリエは右手の拳を口に押し当てて、かろうじて悲鳴をあげるのをこらえた。それはマリエがはじめて見る、魔法のような光景だった。
「『聖の祝福』の共鳴。ヌシ様に招かれてのトランス状態。瑞兆。間違いありません。」
神官様が、万感の思いを噛み締めるように告げる。
「ユーフィーミア様は、聖女様――それも条件をすべて満たした、まったき聖女様であらせられます。」
その宣告に、周囲がどっと沸きあがる。ついていけないでいる、本日の主役の少女二人を残して。
(なんなの。どうなっちゃうの、これから……。)
空はあんなに青いのに。
さっきまで、世界はあんなに輝いていたのに。
マリエは右手の拳を口に押し当てたまま、不安から湧き上がる悲鳴をひたすら飲み込み続けた。