第六十六話 死
初めてのキスは血の味がした。
鉄のような、生温い感触が唇に残る。
それが誰の血なのか――わかりきっていた。
俺は、今目の前で起きていることを理解できずにいた。
視界が、妙に遠い。
竜血四侯の男が振るった大剣が、カイとリンウェルの体を貫いている。
鈍い音。
肉が裂ける感触。
その一つ一つだけが、やけに鮮明に脳裏へ焼き付いていた。
そして――
俺の握る短剣は、アサヒナさんの心臓を貫いている。
温かい。
手の中に、まだ彼女の体温が残っている。
当のアサヒナさんは、右手を俺の頬に添え、左手で俺の胸倉を掴みながら、唇を重ねてきた。
逃げることも、拒むこともできなかった。
――いや。
したくなかったのかもしれない。
何がなんだか、わからない。
頭が追いつかない。
現実が、現実として認識できない。
だが――
彼女はゆっくりと笑みを浮かべ、発した言葉の中でたった一言だけが俺に突き刺さる。
「好き」
あまりにも静かな声だった。
なのに、その一言だけが、やけに鮮明に耳に残る。
そう言い終えると、彼女は俺の胸倉と頬から手を離し――
穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに目を閉じた。
力が抜けていく。
その重みが、遅れて腕にのしかかる。
「チッ。余計な事しやがって。仕留め損ねたじゃねぇか」
男の舌打ちが、遠くから聞こえた気がした。
大剣がカイの体から引き抜かれる。
一拍遅れて、血が噴き出す。
その瞬間、セシルの矢が何本も男へと飛来した。
「っと……」
軽く身を捻るだけで、それを躱す男。
その動きが、現実離れして見えた。
距離を取る男。
――そこでようやく。
止まっていた俺の思考が、ゆっくりと動き出す。
理解する。
理解してしまう。
彼女は――死んだのだと。
不甲斐なく躊躇した俺の手を取って、自ら死を選んだのだと。
「ぅぅうぅゔぅぅおぉぉ!!!!」
喉の奥から、言葉にならない何かが溢れ出る。
叫びなのか、嗚咽なのか、自分でもわからない。
ただ、内側から溢れたものが、そのまま外へと吐き出された。
『悲嘆の感情が一定量を超えました。これより領民のVITが+1されます』
左目に、無機質な文字が浮かぶ。
――今は、どうでもいい。
――また守れなかった。
そんな言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。
「カイぃ!!!!」
ミスラの叫びが、鼓膜を打つ。
遅れて、現実が追いつく。
(そうだ……カイは!? リンウェルは!?)
悲しみに押し潰されそうな頭を、無理やり動かす。
足を前へ出す。
「カイ! リンウェル!」
「私は……大丈夫です。それより……カイさんを!」
リンウェルは体を震わせながらも自力で起き上がり、地を這うようにカイのもとへ向かう。
背中から血が滲んでいる。
それでも止まらない。
俺がカイの元へ辿り着くと――驚愕した。
腹に大きな穴を開けたカイが、仰向けに横たわっていた。
その前に、ゴランとイリスが庇うように立ち、男と対峙する。
そしてミスラは必死に自分のローブを傷口へ押し当てる。
「血が……血が止まらないの!」
声が震えている。
手も震えている。
それでも、必死に押さえ続けている。
「ッ!!」
俺も手を伸ばし、患部を強く圧迫する。
温かい血が、指の隙間から溢れてくる。
止まらない。
まるで命そのものが流れ出ているみたいに。
だが――
その手を止めたのは、カイ自身だった。
「もう……無理……だ。致命……傷だ」
かすれた声。
それでも、はっきりとした言葉だった。
その言葉に、ミスラの手が止まる。
ぽたり、と涙が傷口に落ちた。
「お前まで何を言ってる! アサヒナさんみたいなこと言うんじゃねぇ!」
俺はカイの手を振り解き、さらに強く押さえつける。
「頼む……聞いて……くれ」
カイの手が、俺の手に重なる。
弱いはずなのに、なぜか重く感じた。
「……っ!」
「頼む……」
「ダメだ! 逝かせない!」
叫ぶ。
認めたくない。
終わらせたくない。
「タイシ!!」
ミスラが背中から抱きついてくる。
震えている。
それでも、必死に俺を止めようとしていた。
「離れろ! ミスラ!」
「ちゃんと!! ちゃんと聞いてあげて!!!」
その言葉の意味は――痛いほどわかっている。
それを聞くということは。
終わりを、受け入れるということだ。
「ッ……!!」
歯を食いしばる。
血の味が、口の中に広がる。
そして――
俺は、ゆっくりと手を止めた。
「ありがとう……ミスラ」
カイが、わずかに笑う。
その笑顔に、ミスラも笑顔で返す。
――涙を流しながら。
「最初は……お前を見た時は……本当に……こいつで大丈夫かって……思ってた……」
「知ってる」
「……だろうな……」
かすかに、息を吐くような笑い。
「でも……お前は……ミリィが死んじまって……良くも悪くも……変わっちまった……」
「……」
「もがきながらも……前に進もうとするお前……カッコよかった……ぜ……」
言葉が、途切れ途切れになる。
それでも、必死に紡いでいる。
「タイシ……いいか……ぜったい……諦めるなよ……」
「……!」
「前を向いてりゃ……必ず……道は……ある……」
「ああ」
「絶対……この島……制覇しろよ……」
その声は掠れていた。
だが――その顔は、笑っていた。
「一つ……頼まれて……くれるか……?」
「なんだ?」
「ザインと……アリーザに……強く生きろって……伝えてくれ……」
「……なんだよ……それ……」
(みんな……勝手なことばっか言いやがって……!)
アサヒナさんも。
カイも。
「それと……もし……あいつらの母ちゃん……レナがいたら……伝えてくれ……」
「今まで……ありがとう……って」
「伝えるよ。全部……伝えるよ……!」
涙が頬を伝う。
止まらない。
俺の言葉を聞いたカイは、安心したように目を細める。
カイはゆっくりと空を見上げた。
まるで、遠い何かを思い出すように。
「お前らと……過ごした……今まで……案外……悪くなかった……ぜ……」
「……!」
「タイ……シ……“あいつら”のこと……頼んだ……」
その言葉を最後に――
カイの手が、ゆっくりと力を失い、地面へと落ちた。
「……」
「……」
音が、消える。
世界が、静まり返る。
「――――っ!!」
俺は叫ぶ。
声にならない叫び。
やり場のない怒りが、胸の奥から込み上げてくる。
『憤怒の感情が一定量を超えました。これより領民のSTRが+1されます』
また、左目に文字が浮かぶ。
だが――そんなもの、どうでもいい。
「やっと終わったか?」
男の声。
俺は、その声の主を睨みつける。
だが――
「!!」
その足元に、ゴランとイリスが倒れていた。
「お前ぇぇ!!!」
「安心しろって。命は取っちゃいねぇよ。……まぁ、準備運動にすらならなかったがな」
その言葉を聞いた瞬間――
俺の中で、何かが弾けた。
理性でも、感情でもない。
もっと根源的な何かが。
弾けた感覚。
その時だった。
「ミスラ!!」
「!?」
「俺と結婚しろ!」
「え!?」
「俺と結婚し、“あの力”で――あいつを殺せ!!」
ミスラの瞳が揺れる。
だがすぐに、俺の意図を理解したように、小さく頷いた。
そしてポケットから小さな指輪を取り出す。
震える手で、それを右手の薬指へと嵌めた。
――かちり、と。
静かな音が、確かに鳴った。
ミスラが嵌めた指輪は、まばゆい水色の光を放ち始め、ミスラを包んでいった。




