(139)【2】回避不能(2)
家族、両親と兄弟六人で暮らす隙間風の抜ける板張りの家──明日早朝に家出を企んだユリシスは帰宅早々に眠り、そこへ兄弟達が狭い室内に雑魚寝をしていた。
静まり返っているはずの深夜、光源らしき松明の熱と音、さらに人の気配を察し、幼いながらユリシスは半覚醒する。
ボソボソと声が聞こえていた。
すぐに両親と長じいの声とわかり、ユリシスは心の中で『……なんだ』と呟く。
リラックスして意識は再び落ちゆき──つつも、声は聞こえていた。半分眠る七歳の意識には届かないが、十七歳のユリシスは声を拾い上げ、内容をはっきりと認識する。
『やはり……不安です、あの子はまだ七つなのよ……?』
『だが、歴史は示しているだろう? 紫紺の瞳の乙女の周りは不幸に飲まれるんだ……災いの象徴だ。仕方がない。そもそもこの村はもう限界だろう!?』
──母と父の声だ……。
すぐにわかった。七歳の頃に会ったきりなのに、二人の声は鮮明に記憶の底に刻まれていたらしい。
父と母も、紫紺の瞳の乙女という言葉を知っている事実に、ユリシスの心はぐらついた。知らなかったのは自分だけなのか──と。
『落ち着かんか、アリュー』
父を諫めるのはユリシスが長じいと慕う長老。
足音の数からしてもこの三人のようだ。
『六人の子すべてに食わさねばならんお前の気持ちもわからんではない。が、もちっとユリシスに寄り添ってやれ……。いつか……いずれは…………どのみち、村には置いてはおけんのだ。せめて、心だけでも常にともにあらねば』
『…………わかってはいるんです……しかし──』
知らなかった大人達の会話を十七歳で聞いてしまう意味をユリシスは考えてしまう。
『お前の子じゃろう、そう邪険にするものでないわ。わからんでもないがの……わからんでもないんじゃが、わしらの隠してしまいたい心苦しさ、罪悪感など、実際、一番どうでも良いんじゃ』
足音と混ざり、長じいの声がまっすぐユリシスに降る。
『わしらはこの子を、結果として捨てることになる。すべて村の掟と、貧しさ故の大人の都合で、この子には何の咎もないというのに』
『でも村長、ユリシスが“目覚め”さえすればこの村は呪いから解放される、そうすればこの土地に縛られず、豊かな土地へ移住だって出来るんです……このまま行かせるなんて──』
『そ、そうですよ! むしろ今、この子を無理矢理にでも目覚めさせれば──紫紺の瞳の乙女として覚醒を促せば!』
『村長、そうしましょう! 少し痛い思いをすればきっと逃れようと“魂”を使うはず──』
『やめんかアリュー!』
村長の、音量はおさえた強い制止の声が両親の言葉を遮った。
溜め息とともに、村長の声が聞こえてくる。
『お前たちの子じゃろうが……なんてことを言うんじゃ……』
吐き出される息の重さは十七歳のユリシスですら図りきれない。
『これはユリシスなんじゃ……』
両親は黙って長じいの話を聞いているのか、身動ぎもなく、衣擦れの音もしない。
『──ユリシスが生まれ、世界に散っていた村の捜索者達も皆、強力な魔術で村に戻された。……それがすべて、すべてなんじゃ。わしらには手の出しようのないこと……すべては成り行きよ。ふふっ、まさか、大陸中に捜索の手を常に伸ばし続けよと掟を、強い魔術とともに残したにもかかわらず、当の運命の魂はこの村で生を受けるなど……始祖も完全に予想外じゃろうて』
ざりっと砂利を踏む音がした。父の声が続く。
『……村の者は掟のために土地に縛られる。村を出ても始祖の魔術で戻される。すべては掟のため……始祖の血を引く我らは──紫紺の瞳の乙女を王都まで導くべしと……掟ではないのです? 伝承にも強い衝撃を与えれば生き延びようと“初代が囁き、乙女はめざめる”と……間違っていますか? 村長、俺はこの子の父親でもあり、村の一人、始祖の魔術を受け継ぐ一人です──目覚めた紫紺の瞳の乙女を始祖の願いの元へ導くまでが、我々フリューティム村の──始祖キリーが定めた村の掟では無かったのです!?』
この時のユリシスの受けた衝撃は大きなものだった。だが──。
小さな、微かな……ふふふと笑う村長の声がする。
『始祖の血をひく……のぅ。村長になる者のみが口伝で知ることじゃが、わしらは始祖の子孫ではないんじゃ』
『え……でも!』
『村の結束のために、目的のために、血のつながりを捏造したんじゃよ、少しずつ。百年もあれば出来たことじゃろうて。わしらは元々ここに住んでいた遊牧の民にすぎん。始祖はこの地へやってきて定住を勧め、環境を整えてくれたんじゃ』
そこで長じいは長すぎるため息を吐き出して続けた。
『わしはちと……長生きをしすぎた……考える時間が山ほどあったせいか、始祖の願い……いや、歪みまで、見えてきてしもうた。始祖は恩を売り、長い時ずっと、紫紺の瞳の女王を探させようとしたんじゃ。初代国王の兄であり、魔術機関などを作り上げたほどの男が、こんな辺境に村を作る理由──まぁ……の、真意はわからん。じゃが、紫紺の瞳の乙女をわしらに探させ、その上で掟には目覚めを促し王都へ向かわせよと……』
続けて、ひとつふたつ首を横に振ってから、村長は低い、静かな声で言う。
『……わざわざ寝た子を起こすまでもあるまいよ……この子にはなーんも、関係のないことじゃ。むしろ、魔術に関わらせず、王都にも近付けさせたくないわ』
──長じい…………。
驚きよりも村長の言葉に、無いはずの目から涙が溢れる想いがして、ユリシスは密やかに救われた。
『村長?? 長が何をおっしゃるのです!? 確かに七歳では“初代”とやらに抗えないかもしれない、でも村の為ならば──』
『目覚めるかなど、ユリシスに任せればいいんじゃよ。本人が魔術を望み、得るために王都を目指す……掟の通り選ぶとは……ふふふ……一体、どんな巡り合わせなんじゃ。目覚めもせんまま、紫紺の瞳の乙女が、いや、七歳の子が王都を目指す……わしもたいがい酷じゃな。だがの……思うんじゃよ。なによりも、別の人格を幼心の上に降臨ことの方が、かわいそうではないか──と」
父や母よりも、長じいのほうが声に涙を滲ませている。
兄弟が多く、生活苦のある両親にはユリシスひとりの犠牲はなんてことないのかもしれない。
ユリシスが過去世を思い出し、前世の人格に飲まれれば村は救われる……らしい。始祖の魔術とやらが終わるから。そうしてユリシスを除く家族全員が助かる──両親はそう考えているようだ。
「しかしな、ユリシスは賢い。大丈夫じゃ、大丈夫じゃよ。ならばわざわざ、他人にユリシスを渡してやることもあるまいよ?」
額に触れるものがある。ゴツゴツとした、骨ばった手は長じいのものだろう。
「長!」
父の村長への非難の声。
ポタ、ポタタとユリシスは眠る己の頬に温かいものが降ってくるのを感じる
「──かわいそうになぁ……」
村長の震えた声が聞こえてきた。
「かわいそうになぁ……他の子らと同じに産まれておれば、父母の慈しみは等しく与えられたじゃろうに……」
「…………」
否定をしない両親に、ユリシスは今更ながら目を背けたい思いに駆られる。
──けれど……。
「わしらには何の力も無い。してやれることがあるとすれば──ふふ……何もせんことじゃ。この子の心を守ってやるだけ……望むまま、行かせてやること……知らんと突き放し、掟から外してやるだけじゃ。……誰にも見つからず、大きくおなり。何者にも縛られず、己のまま生きるんじゃ……ユリシス」
額にからそっと手が離れ、パキッと軽い音が聞こえた。長じいの立ち上がる時に膝の骨からでた音──。
長じいだけが、複雑な事情を抱える羽目になっている子どもの悲運を嘆いてくれている……。
紫紺の瞳で産まれたこと、いや、この“魂”ととも多くの咎を背負っていることを哀れんでくれたのだ。
──ありがとう、長じい。ありがとう、父さん、母さん。兄弟、ありがとう……。
記憶の主は目を瞑っているから、彼らを見ることは出来ない。それでも心に描くことは出来た。
掟に振り回されるしかなかった村の人たち、長じいや両親が、掟を知らないふりでユリシスを送り出した。見逃してくれた。
結局、ユリシスをユリシスのまま扱ってくれた。
貧しかった村で一人一人生き抜くだけで大変だった。みんなそれぞれやらなければなはないことがあった。だから、やっぱり両親を恨むことは出来ない。やっぱり、笑顔にしたい。笑って欲しい。
──それは、過去の女王達とは全く関係のない、ユリシスの素直な気持ち。
そのあとも記憶は続いていく。
自分自身の過去だ。
後ろを一切振り返らず、弾かれるように魔術を求めて村を飛び出し王都にたどりつき、不合格を繰り返す。
紫紺の瞳が忌避されるものと知ったのも王都についてからだったが、幸い身近な人達はユリシスを差別せず、家族のように接してくれた。
──ユリシスは運が良いのだ。
森で初めてゼクスに出会い、助けられ、魔術を肌で感じて覚えた。
繰り返す不合格にやさぐれる日もあった。ユリシスはやはりただの人だったから、日々の事に心を振り回されて、泣いたり怒ったり笑ったりして暮らす。
それは実に普通の人のようで、ユリシスは過去の女王の憧れが実現していたのだと知る。長じいの望んでくれた、ユリシスの人生に他ならない。
しかし、魔術をこっそりと使えるようになるほど、ユリシスには隠し事が出来て本心を全て出せなくなっていく。それは本当に、心のまま生きていると言えただろうか。
そんな中、アルフィードに出会ってぷち魔術戦をし、ギルバートに導かれ、嘘まみれの中で信じる事を思い出した。
だんだんと、確かにだんだんと、普通の人の暮らしから、先代女王の望んだ平穏から遠のいていく。
いつの間にか王家筋から狙われはじめていた。
本当の自分になっても良いのかもと、嘘をつかなくても良いのかもしれないと思った矢先、ギルバートを失った。
嘘偽りの無い心でありたいのに、なのに──。
手にしてしまった今ならば、人として生きたいなら、紫紺の瞳の女王の力を望んではいけないとわかるのに──。
色々な事がチグハグ模様でユリシスの心を苛む。
夢は一つだったはずなのに。
──遠い……笑顔は遠いよ、ギルバート。
その夢すら、他人の記憶がユリシスに侵食するのと同じだけ、汚れてしまう気がするのだ。
本当に、間違いなく自分の夢だったのか──。
八人もの紫紺の瞳の女王達の記憶を眺め、一層まざまざと蘇る己の記憶。
必死にあがいてもがいてきた、自分の人生。
──そう……そうだった……。
止まってなんかいられないんだ。
自分の足で大地を踏みしめて生きるんだ。
──私は、ウジウジなんてしていられない。
ギルバートに繋いでもらった夢が自分の夢でないはずがない──自分自身で……。
『ユリシス、お前の夢、いいよ。きっと叶えな。きっと、できるさ』
どんなにか過去の女王達が後悔の残る人生を歩んだのかしれない。
──それでも。
ユリシスはふいに、夢の終わりを感じた。
──どこをどうしてここへ来たんだっけ……。
大きすぎると言える紫紺の瞳の女王だとかいうものの、自分は九代目らしい。
──あ、そっか……ゼクスは知ってたんだね……。
夢は終わる。
本当の現実へ向けて。
今度は、ユリシスが目覚める番だ。