第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈11〉
そして、写楽人気の冷めやらぬ寛政6[1794]年7月に〈第2期〉の写楽絵がお目みえする。
〈第2期〉の幕あけを告げるのは歌舞伎役者ではなく、都座の楽屋頭取・篠塚浦右衛門を描いた雲母摺・大判の『都座楽屋頭取口上之図』であった。
老人(篠塚浦右衛門)のひろげた巻物の裏へすけて見える口上は「自是二番目新板似顔奉入御覧候(これより、にばんめしんばんにがお、ごらんにいれたてまつりそうろう)」。当時この浮世絵版画をだれが買ったかさだかではないが、粋な演出である。
〈第2期〉の写楽絵が当初から予定されていたものでないことは〈第2期〉の背景が2パターンがあることからもあきらかだ。
先にも書いたが〈第2期〉の写楽絵は大首絵ではなく全身像である。役者をふたり配した大判はすべて背景が雲母摺りだが、役者単身の細判は雲母摺りと黄つぶしの2パターンがある。
雲母が鉱石や貝を粉末にした高価な「顔料」であるのにたいして、黄つぶしの黄色はほとんどが安価な「染料」である。
おそらくは資金面から〈第2期〉制作途中で背景の「顔料」を「染料」へランクダウンせざるをえなかった事情があったのだろう。
そもそも写楽に〈第2期〉を描く余力のあったことのほうがおどろきだ。
しかし、11月の顔見世興行を描いた〈第3期〉は常軌を逸した多作があだとなり全体的に精彩を欠く。役者絵だけではなく相撲絵にも手をひろげるが、さいごは北斎に武者絵などの代作(贋作)すら描かせている。
「私、ふつうの能役者にもどります」
と、写楽の正体である斎藤十郎兵衛がしずかに筆をおいたかどうかはさておき、寛政7[1795]年正月の狂言を描いた〈第4期〉をさいごに写楽は浮世絵界から姿を消した。
現存する〈第4期〉の写楽絵に『曾我フェス』不参加の河原崎座を描いたものはない。そのため、資金面で写楽絵の出板をつづけることができなくなった可能性もなくはないが、おそらくは本業の都合か、制作意欲の喪失と云ったところだろう。
「一両年」で筆を折った写楽だが、ナンバーワンではなくオンリーワンとしてマニアの間でたかい評価をうけていたらしい。
式亭三馬は黄表紙『稗史億説年代記』(享和2[1802]年)の冒頭にある「倭画巧名盡」のなかで浮世絵師の勢力図(?)を地図に見立てて描いている。
歌川派・鳥居派・勝川派の大陸がぐるりをかこむ海のまんなかに、菱川師宣や鈴木春信と云った過去のビッグネームを集めた大陸を配している。
その上部に独立してうかぶ小さな島が3つ。風景を描いた版本でブレイクしていた北斎辰政(=葛飾北斎)、美人画の喜多川歌麿、そして役者絵の写楽である。享和2[1802]年当時、歌麿と北斎は現役だが、写楽は7年前に姿を消している。
すくなくとも、式亭三馬にとって写楽は歌麿や北斎と比肩しうる存在だったと云うことだ。斎藤月岑『増補浮世絵類考』写楽の項に式亭三馬の記述ものこされていることをかんがみるに、三馬の批評は傾聴に値したことがわかる。
「たった10ヶ月しか絵筆をにぎっていないのに、レンブラントやベラスケスと同列にあつかわれて〈世界三大肖像画家〉とか云われちゃうのってスゴイですよね」
「それってガセじゃなかったっけ?」
私はまどかクンの言葉に首をかしげた。
明治10[1910]年、ドイツ人ユリウス・クルトの書いた『SHARAKU』が契機となって、写楽は世界的な知名度をえる。欧米至上主義の日本でも『SHARAKU』を契機に再評価される。
しかし、ユリウス・クルト『SHARAKU』のなかに写楽を〈世界三大肖像画家〉と称賛した記述はない。
どこかだれかのあやまった記述を歴代の研究者たちが原著を確認せず子引き孫引きでコピペ(コピーペースト)していった結果としてうまれた伝説と云えよう。
現存する作品がすくないものの、世界的に有名な画家と云えば、フェルメールやダ・ヴィンチなどが想起されるが、彼らの活動期間はけっしてみじかくない。
まどかクンの云うとおり、写楽ほど活動期間がみじかく世界的に有名な画家はほかにいまい。
「あ、そうだ。まどかクン、小栗虫太郎って知ってる?」
「小栗虫太郎って『黒死館殺人事件』の?」
「……『人外魔境』折竹孫七」
まどかクンの常識的なこたえに佳純がマニアックなつぶやき(ツイート)をかさねた。
小栗虫太郎と云えば、夢野久作『ドグラマグラ』と双璧をなす戦前ミステリの異端的傑作『黒死館殺人事件』名探偵・法水麟太郎を想起するものだが『人外魔境』とか『二十世紀鉄仮面』を連想するのはそうとうなマニアだ。
「小栗虫太郎のエッセイで読んだんだけど、彼が子どもの時、彼の父がコレクションしていた写楽絵で凧をつくってやぶってしまったことがあるらしい」
「……写楽絵をダメにしちゃったんですか?」
まどかクンが青ざめた顔でつぶやいた。今ほどではないにしろ、当時もかなり高価だったはずだ。
「小栗虫太郎は子ども心に「ヘンな絵だから凧にしてもいいや」と思ったそうだ。彼の父は自身の度をこえた道楽に神さまからお灸をすえられたと感じて彼をとがめなかったそうだが、母親にめちゃくちゃ怒られたらしい」
「なにそれ? ちょ~ウケる~!」
私の小話に酔いどれミニスカポリスが爆笑した……と思ったら、いきなり頬袋にエサをためたシマリスのように頬をふくらませ、トイレへかけこんだ。
「ウェロエロエロエロエロエロエロ……!」
トイレのドアもあけっぱなしでマーライオンと化した佳純の嘔吐する不快な音が部屋中にひびきわたる。
「お~い、大丈夫か、佳純?」
心配する気なぞさらさらない私の声に間をあけてトイレをながす音がこたえた。……大丈夫そうだ。