第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈2〉
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今日は土曜日である。わが『水羊亭画廊』は創旭美会会員の油彩画家・七尾原直樹の個展最終日だ。
メガネ屋からのかえりにギプスでかためられた右腕を三角巾で首からつったジャージ姿の私が画廊へ顔をだすと、知人と談笑していた七尾原さんが破顔した。
「よお、柏木クン。ドロボウとやりあったんだって? 腕の具合は大丈夫かい?」
「全治3ヶ月だそうです。こんな格好ですいません。ご迷惑をおかけして」
「いやいや、迷惑なんてなにもないよ。きみこそしっかり養生したまえ」
「ありがとうございます」
私が七尾原さんへ頭をさげると、彼の知人が笑いながら云った。
「しかし、七尾原の絵をぬすもうとするなんて酔狂なヤツもいたもんだ」
「私に直接云ってくれれば、熱意を買ってすこしは安くゆずってやったけどね。はっはっは」
七尾原さんもうれしそうに笑った。ドロボウであっても自分の作品をほしがる人がいると云う「設定」はまんざらでもないらしい。
画家を本業として生活している人はその人口比の1割にもみたない。七尾原さんの所属する創旭美会も業界ではまあまあ名のとおった公募美術団体ではあるが、一般的な知名度は皆無であり、会員と云う立派な肩書きこそあれ本業はべつにある。
ぶっちゃけ「○○会会員」と云っても、作品だけで生計をたてている人はほとんどいないのが現状だ。
たとえば、七尾原さんの創旭美会は毎年春に六本木の新国立美術館で展覧会がもよおされる。会員は無鑑査で作品が展示されるが、会友とそれ以外の人は会員の鑑査により入・落選がきまる。
彼らがそこへ出品するのはカンヴァスのサイズで150号前後。2mちかい大作ばかりである。たいていどこの公募美術団体でも80~100号(1m50cm)以上とされているので、規定最小のサイズで出品しても問題はないが、よほど突出した実力でもないかぎり入選することはない。
大きな作品を出品するのは、あまたよせられる作品の中で目立つためでもあるが、公募団体展のもよおされる新国立美術館や東京都美術館での展示をかんがみても、大きなほうが迫力もあって見映えもよい。
また、かけだし無名の画家が画風や個性を1枚の作品だけでつたえるのはむずかしいため、会員以外の画家はたいてい2枚以上描いて出品するのが常識である。
そんな大作が入選あわよくば入賞すれば2週間ほど日の目を見られるが(もちろん有名画家の作品でないかぎり売れることはない)、落選した作品は、後世その画家が大成しないかぎり日の目を見ることはない。
作品制作の時間を確保するためアルバイトで糊口をしのぎながら1Kのアパートで2mちかい大作を何枚も描き、ことごとく落選の憂き目にあっているなんて画家もごまんといる。生活保護をうけながら制作をつづける猛者もいるらしい。
もちろん画家にとって入選することも大事だが、もっと大事なことは自己の芸術をいかにしてきわめるか? である。
魁偉な画風で知られる日本画の大家・片岡球子は、かつて創画会で「落選の女王」と云う異名をもつほど落選の常連だったそうだ。
それでも落選にめげることなく自己の芸術を探求しつづけ、ついには巨匠と評されるまでになった。
生前「○○会会員」と云う肩書きでそれなりに安穏としていた画家でも、死後まったく評価されないなんてことはよくある話だし「A会」で落選の常連だった画家が「B会」へ出品したらいきなり入賞したなんて話もままある。
芸術をはかるものさしはひとつではないし、片岡球子のように自分があたらしいものさしをつくることも芸術の重要な仕事のひとつだ。
そんな画家の作品発表には大別して2種類のタイプがある。
ひとつは七尾原さんのように公募美術団体展をメインに作品を発表するタイプと、公募美術団体には属さず、画廊での展示をメインに作品を発表していくタイプだ。
人に鑑査されるのがキライだと云う画家もいれば、徒党をくむのがキライだと云う画家もいる。小品しか描かない画家もいる。
どちらが正しいと云うことはないが、後者の画家もラクではない。
銀座・京橋および日本橋までふくめると、半径およそ1km圏内に大小さまざまな画廊が400軒ちかくひしめきあっている。
なかには画廊から依頼されて個展をおこなえる画家もいるが、そのほとんどは画家が自腹で画廊をかりておこなっている。これとて賃料はピンキリだが1週間平均で20万円はくだらない。若い画家は「家賃3ヶ月分です」とニヒルに苦笑する。
個展開催を告知するDMの印刷代に郵送代。作品の搬入搬出にかかる運送料。そして画材代。丼勘定で最安値を見つもっても1回の個展で最低30万円の出費はくだらない。よって40~50万円はあたりまえと云うことだ。
しかも作品制作にかけた膨大な時間は、作品が売れなければ某ハンバーガーショップのスマイル同様0円である。
よしんば、作品が売れたとしても2~3割は画廊へ入る。デパートや百貨店での個展なら売りあげの半分はもっていかれる。
今回、七尾原さんの個展では、P60号(約130cm×90cm)の田園風景画をメインにP15号からP3号の風景画を展示している。価格もかなり良心的だが、それでも個展最終日のお昼すぎまでで売れたのは、もっとも小さなサイズのP3号が2点とP8号の風景画1点だけだ。
創旭美会会員といえども、売りあげは11万円前後。完全に赤字である。
しかし、画家にとっては個展をしたと云う活動実績も重要なのだ。それは画家として勝負してきた証しにほかならないからだ。