第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈1〉
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数日ぶりに外出し、病院での診察をおえた私はメガネ屋へ足をむけた。今かけているメガネはドライブや映画鑑賞用に度のばっちり入ったヤツであまりかけることがない。
ふだんは度をおとした室内用のメガネをかけている。ふつうに使っていてこわれることを想定していなかったので予備をもっていなかった。私は今回の教訓をふまえて、柔軟性にとんだフレームでデザインの微妙に異なる室内用のメガネをふたつ新調した。
メガネができるまで90分かかると云うので、そのあいだに日比谷図書文化館へ行った。日比谷公園内にある複合文化施設だ。目的は図書館である。
自宅で静養し無聊をかこつあいだ、私は高梨伽耶の写楽絵に描かれた「束帯姿の二代目坂東三津五郎」が演じている役を調査すべく、なれない左手1本でネット検索をかけた。
国立国会図書館のデジタル資料やら、おちこちの大学図書館のデーターベースへアクセスして、寛政6[1794]年7月に都座で興行された『傾城三本傘』の辻番付や絵本番付の画像をあさると、二代目坂東三津五郎が『傾城三本傘』で百姓「深草治郎作」以外に演じた役名はあっさり判明した。
二代目坂東三津五郎が演じたのは「東山義尚」である。
物語の冒頭で三代目市川八百蔵演じる悪臣・不破伴左衛門に名護屋山三ともども追放された主君のひとりだ。
絵本番付が当時の舞台のパンフレットであることはすでにのべたが、辻番付と云うのは大判墨摺りの宣伝用ポスターである。現在の映画や舞台のポスターとなんらかわるところはない。
ただし、江戸時代の歌舞伎は内容や構成が日々編集され変化した。上演しながら演目を完成させていくとかんがえたほうがよい。
当時の歌舞伎は本筋以外の番外編や舞踊などもおりまぜて、丸1日ぶっとおしで演じられた。芝居の途中でも日が暮れれば「まず今日はこれぎり」と幕をおろしてしまうほどの大雑把ぶり。
そのため、演目が極端に改変されたり、不人気ならばまるっとべつの演目にさしかえられることもあった。
寛政6[1794]年7月の都座『傾城三本傘』でそこまで劇的な改変はなかったはずだが、念のため『歌舞伎年表』などの文献資料で二代目坂東三津五郎がほかに演じた役があったかどうか調べにきたのだ。
結果はよい意味で空ぶりとなった。
高梨伽耶の写楽絵は『二代目坂東三津五郎の東山義尚』でまちがいなかろう。
よしんば、この絵が真作であれば、おそらく対となる『四代目大谷伝九郎の東山義晴』もあったはずだ。
あるいは、不破伴左衛門によってとらえられたり殺されたりした『山科四郎十郎の名護屋山三左衛門』『六代目市川団十郎の不破万作』『三代目佐野川市松の不破伴左衛門妻・関の戸』の5連作だったかもしれない。
そんなふうに妄想をふくらませると気分が高揚した。
この数日間は腕の痛みや利き腕でない左手1本でおくる生活のわずらわしさにイライラしていたのだが、高梨伽耶の写楽絵の正体に一歩ちかづいたことで、ふしぎと晴れやかな気もちになった。
(今日の昼食はひさしぶりに『松本楼』でハヤシライスでも食べていくかな?)
などと、うかれ気分なロッケンロールにもなったが、まだ左手で食べる食事になれていなかった。
公衆の面前で四苦八苦しながらハヤシライスと格闘するおのれのぶざまな姿が脳裏をよぎり、すんでのところで外食をあきらめた。
さいわい食事や洗いものは岸谷のおばさんがひきうけてくれたので、今週はぶじにしのぐことができた。冷凍庫には小分けされたごはんもあるし、冷蔵庫には数種類のおかずもある。
昼食は岸谷のおばさんに感謝しつついただくことにして、
(まずは華響院へ高梨伽耶の写楽絵の正体が判明したことをつたえておくか)
と思った。
あの日以来、華響院とは顔をあわせていない。ふだん、上下階で仕事をしているとは云え、毎日顔をあわせるわけではないし、華響院は世界中をとびまわっているので、つねに頭上の事務所にいるともかぎらない。私とて銀座界隈をハツカネズミのように気ぜわしくかけまわっているので数週間あわないこともざらにある。
先にすねていじけてへそをまげた華響院が、いまだふてくされて顔をださない可能性も充分かんがえられるが(そう云うヤツである)それはどうでもよい。
まだ母親の葬儀をおえたばかりの高梨伽耶へ写楽絵の話などしてよいものかどうか迷うところだが、どうせ私は彼女の連絡先を知らない。
とりあえず華響院とまどかクンへ「高梨伽耶の写楽絵について調べた。おそらく『二代目坂東三津五郎の東山義尚』だと思う。」とメールしておいた。




