間章 『水羊亭美術読本(9)ふたりの菊之丞、ふたりの野塩』柏木友紀〈2〉
「シワ菊之丞」と「ベニ菊之丞」は別人である。
また「シワ菊之丞」は「ベニ菊之丞」よりも下位の役者であった。その根拠はキチンと作品に描きこまれている。
〈第2期〉細判の「ベニ菊之丞」の頭には大きなクシがふたつささっているが、〈第2期〉大判の「シワ菊之丞」の頭にはひとつしかない。
〈第2期〉細判の『二代目瀬川富三郎の傾城遠山』の頭にもクシはひとつしかない。
さすがに、笄のカタチは大判のほうが凝っているが(〈第2期〉大判と細判では大判のほうが家紋などていねいに描きこまれている)、細判の「ベニ菊之丞」にクシがふたつ描かれているのは「シワ菊之丞」や瀬川富三郎らの傾城との「差別化」と見てよい。
瀬川門下のチョイ役を大判で描いているのに、当時の最高年俸900両をとっていた瀬川菊之丞を描かないわけにもいくまい。歌舞伎役者のグッズとしてどちらが売れるかは自明だ。
そのため〈第2期〉細判の「ベニ菊之丞」は、ふつうの浮世絵風美人として描かれている。「男性」であることはまったく意識されていない。
三代目瀬川菊之丞とされるものは〈第3期〉にも4枚ある。細判2枚が「シワ菊之丞」。間判の大首絵1枚と細判1枚が「ベニ菊之丞」である。
細判の3枚11月の狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』を描いたものであり、間判の大首絵は閏11月の狂言『花都廓縄張』を描いている。
閏11月の狂言『花都廓縄張』の大首絵は「ベニ菊之丞」なので問題ない。
しかし、11月の顔見世狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』を描いた細判3枚には「シワ菊之丞」と「ベニ菊之丞」が混在している。
狂言『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』の『三代目瀬川菊之丞の大伴黒主妻・花園御前』は「ベニ菊之丞」である。
一方、おなじ狂言で白拍子「久かた」と演じたとされる2枚の役者絵に描かれているのは「シワ菊之丞」なのだ。
たしかに『二代目中村野塩の貫之息女・この花』と対をなすように描かれた白拍子「久かた」を演じたのは、当時の絵本番付(歌舞伎のパンフレット)などを見るかぎり、三代目瀬川菊之丞でまちがいない。
「シワ菊之丞」がホンモノの三代目瀬川菊之丞でない以上、必然的に「貫之息女・この花」を演じているのも二代目中村野塩でない可能性がたかくなる。
たとえば、学校や会社の新年度が4月であるように、江戸歌舞伎は11月がそれにあたる。
写楽の時代、江戸の歌舞伎役者は中村座・市村座・森田座(都座・桐座・河原崎座)と云う3つの劇場のいずれかと1年の専属契約をむすんで舞台へ立った。
二代目中村野塩は七代目片岡仁左衛門とともに上方からくだってきて、11月の顔見世興行から都座へくわわったベテランの新顔である。
「上方にいらぬ片岡仁左衛門、のしほをつけて江戸へ進上」と云う落首があったそうだが、寛政7[1795]年正月に出版された『役者人相鏡』には、[極上々吉]瀬川菊之丞、[至上々吉]の小佐川常世についで、中山富三郎とともに[上々吉]と、たった3ヶ月(実質1~2ヶ月)で高評価をうけている。
二代目中村野塩は「ベニ菊之丞」の『三代目瀬川菊之丞の大伴黒主妻・花園御前』と3対になる『二代目中村野塩の小野小町』にも描かれている(もう1対は『三代目沢村宗十郎の大伴黒主』)。
まんなかに「の」の字のある矢車紋からも「小野小町」が二代目中村野塩であることはあきらかだ。
しかし『二代目中村野塩の貫之息女・この花』とされる作品では顔がまったく異なる。
「小野小町」は細おもての美人だが、紀貫之の息女「この花」の顔はすこし頬のはった菱形で鼻の下が長く、アゴにたるみも見られる。
矢車紋に「の」の字もない。大判と細判では家紋の簡略化されることもあるが、おなじ細判でそれはない。これはあきらかに別人であることの記号であり、証左である。
つまり『二代目中村野塩の貫之息女・この花』と云う題名は、まるっとまちがっている。同時に、このことは「シワ菊之丞」が三代目瀬川菊之丞でないことも証明している。
では『二代目中村野塩の貫之息女・この花』とされる作品に描かれた歌舞伎役者の正体はだれか?
その人物こそ、初代中村金蔵。二代目中村野塩につきしたがい、上方よりくだってきた二代目中村野塩の息子である(のちの三代目中村野塩)。
寛政6[1794]年11月『閏訥子名歌誉』と『鶯宿梅恋初音』の顔見世番付には、二代目中村野塩のとなりに堂々とその名をつらねており、役割番付でも全4幕のうち第2幕にのみチョイ役で登場したらしいことが確認できる。
役割番付は脚本があがる前に書かれた出演予定表で変更もままあったとされる。そのため、実際に初代中村金蔵が舞台へ立ったのかどうかはわからない。
初代中村金蔵は瀬川福吉・瀬川三代蔵・中村万世らとおなじチョイ役のため、興行中に劇場で販売された『閏訥子名歌誉』の絵本番付にもその姿は描かれていない。
だが、その翌月・閏11月『花都廓縄張』の絵本番付には、父・野塩とおなじ舞台に立つ初代中村金蔵が描かれている。
二代目中村野塩は江戸へくだって6年後の寛政12[1800]年にこの世を去るが、東京大学総合図書館秋葉文庫所蔵の『絵本番付集』をひもとくと、初代中村金蔵は父・野塩とともに寛政9[1797]年の10月までは都座で、同年11月からは中村座、寛政10[1798]年11月からは森田座の舞台に立っていたことがわかる。
ただし、ここにもひとつミステリがある。
じつは、この初代中村金蔵、記録によると二代目中村野塩が江戸へくだってきた寛政6[1794]年11月から1年間、上方の角座で座本(興行主)をつとめているのだ。
座本の名前は角座の役割番付の一番先頭に一番大きな字で黒々としるされている。一体これはどう云うことか?
江戸の座元と上方の座本では漢字が異なるように、上方の座本は名義貸しが常態化していた。実質的には名代主(名代)が興行権をもち、仕打(仕内)が資金をだしていた。
ようするに、初代中村金蔵も座本へ名義だけ貸して江戸へきていただけの話である。
上方の役者もチョイ役も多く描いた写楽が新顔である二代目中村野塩の息子を1枚くらい描いておこうと思ったところで不自然ではない。
むしろ、親子のちがいを繊細に描きわけた写楽の筆力にただただ感嘆するばかりである。
写楽絵にはまちがって喧伝されてきた歌舞伎役者がふたりもいた。
そして、それはふつうに絵を観ればだれにでもわかるはずなのに、写楽ファンはおろか研究者ですらまるっと看過してきたのだ。
作品を見誤らせたのは絵そのものではない。観るがわの知識と先入観である。絵を観るために知識が必要ないとは思わないが、知識にふりまわされてもいけない。
きっと、まだまだ私も知識や先入観にとらわれて、すなおに観ることのできていない絵がたくさんあるにちがいない。もっと豊かに芸術を享受したいと思う。
〈おわり〉【ウェブサイト『水羊亭画廊』より転載】