第二章 写楽の夜の悪夢〈4〉
「華響院さま、いかがでしょう?」
「ユキちゃん、どうよ?」
華響院へむけられた高梨伽耶の問いかけが私へスルーパスされた。メインの鑑定士役は私だと云いたいらしい。
「……一目で贋作と云えるほどレベルのひくい作品ではないです」
私は高梨伽耶へむけてこたえた。
絵自体もそうだが、劣化した奉書紙の手ざわりも色あせた雰囲気も、門外漢の私が贋作と看破できるレベルではなかった。真作未発見の写楽絵である可能性は大いにありうる。
だからと云って、真作未発見の写楽絵と断言できる根拠があるわけではない。個性的で確立された画風はマネしやすいからだ。
また、これが浮世絵版画ではなく肉筆画(手描きの作品)であれば、かなりの確率で真贋を問うことも可能だが、彫師・摺師と云う専門職(云わば別人)の手をへた木版画では、ビミョ~な個性の見極めがむずかしくなる。
ちょっとした線のブレやゆがみを彫師がシャープになおすこともできるし、彩色の筆致や技術についてはうかがうすべもない。
たとえば、葛飾北斎は最晩年にいたるも肉筆の名品をのこしているが、美人画の巨匠として知られる喜多川歌麿も後期の肉筆画は筆致のおとろえが顕著だし、幕末の浮世絵師は肉筆画が不得手な者もすくなくない。
女性がメイクでバケるように、彫師・摺師の技術が浮世絵師の原画を多少なりとも美化させることがあったと云うことだ。
一方、これまで未発見の浮世絵版画の贋作なんてあるもんかね? と云う疑問ものこる。
そもそも、贋作は金にならないと云われている。
肉筆画の贋作でもそれなりに手間がかかるわけだが、浮世絵版画の贋作では1枚の絵を完成させるために何枚もの精緻な版木を彫らなければならない。
贋作者+彫師+摺師が必要となる。贋作者や彫師が摺師をかねたとしても、贋作にたずさわる人数が増えると云うことは、それだけ分け前もへるし、漏洩の可能性もたかくなる。
大量生産が可能と云う点では、1枚1枚手描きの肉筆画より浮世絵版画の贋作のほうが割にあうと思うむきもあろうが、あんまり摺りすぎても価値が下がるし、既存の作品ならともかく真作未発見の写楽絵が時をおなじくしておちこちからでてきたとなれば、うさんくささもいや増す。
ようするに、おなじものを何枚摺ったところで一気に売りさばくことはむずかしく、短期的かつ莫大な金もうけにはならないと云うことだ。
わざわざ木版画で贋作をつくるくらいなら、富士山を描いた横山大観の小品の贋作を無教養な成金あいてに売りさばくほうが、よほどもうけになると思う(……けっして悪いコもマネしないように)。
「華響院はどう思う?」
いったん私へスルーパスされた高梨伽耶の問いかけを華響院へかえした。女性陣が興奮をおし殺したようすで華響院を注視する。
やはり、ここは私のような常識的見解より、世界的超絶天才デザイナーの鋭敏な感覚に裏打ちされた直感的見解をきいてみたいはずだ。
「ユキちゃんとおなじかな? 言下に贋作と斬りすてることはできない。でも、真作と断ずるには材質の科学的調査とともに細部の詳細な比較検討が必要」
華響院の言葉に女性陣が感嘆の吐息をついた。どう云うわけか、まどかクンが意外そうな顔で私を一瞥したところがいささか不本意ではあるが。
高梨伽耶の写楽絵をぢっとながめていた華響院の瞳の奥に妖しい光がともっていた。ここまで興味本位と云うかヤジ馬根性で同席していた華響院のやる気スイッチが入ってしまったらしい。
「……おもしろいじゃない。これは私にたいする挑戦ね」
「んなわけあるか」
私のツッコミを意にかいさず華響院がひとりごちた。
「これまでちゃんと写楽絵を観てきたわけじゃないけど、ちょっとひっかかってたのも事実なのよね。本腰入れて写楽とむきあってみるよい機会かも」
華響院が高梨伽耶へ云った。
「このレベルなら美術館や研究機関に調査・鑑定を依頼しても問題ないと思う。ただ、その前にもうすこし私に絵の比定をさせてもらえないかな?」
「華響院さまに調べていただけるのならよろこんで」
「それじゃ作品を複写させていただけるかしら」
「おまかせします」
「ユキちゃんよろしく」
私は華響院の言葉にうなづくと、前もってデジカメとミニライトを固定しておいた撮影台に高梨伽耶の写楽絵とカラーチャートをおき、無反射ガラスの枠をのせて撮影した。
「そんなかんたんでよいの?」
まどかクンがいぶかしげにつぶやいた。きっと彼女たちの撮影現場ではがっつりライティングなど決めて撮るのだろう。
「カタログへのせる写真を撮るわけじゃないからね。写した絵がゆがんでなければ問題ない」
そこそこ撮れていれば色彩補正はPCでなんとでもなるが、写した絵のゆがみはなおしようがない。そうなれば細部の比較検討などできなくなる。