【29話】賢者の勇者
能力を失った、正義はどう転生者と戦うのでしょう。
午前九時四十分。
営業部。
「それじゃ、伊藤商事さんに行ってきます」
正義が資料を手に立ち上がる。
「待った」
課長の声。
正義が振り返る。
「はい?」
課長はじっと正義を見つめた。
「どうせ、いつもの喫茶店でしょ?」
営業部の空気が一瞬だけ止まる。
正義は思わず口を滑らせた。
「……何で分かったんですか?」
課長はふっと笑う。
「私は何でも知ってるわよ」
正義は少しだけ視線を逸らした。
課長は肩をすくめる。
「まあ、いいわ」
営業部の面々が顔を見合わせる。
「今日はそんなに忙しくないし」
「ありがとうございます」
正義が軽く頭を下げた、その時だった。
――ピコン。
机の上のパソコンが小さく通知音を鳴らす。
正義の視線が画面へ向く。
そこに表示されたのは、一通のメールだった。
白い文字が静かに浮かび上がる。
【指令】
【対象:賢者の勇者】
【罪状:国民を先導し国家転覆】
【任務:抹殺】
正義はしばらく画面を見つめていた。
「……賢者、か」
正義の目がわずかに細くなる。
その直後、何事もなかったようにパソコンを閉じる。
そして立ち上がり、鞄を手に取った。
「それでは」
営業部の面々へ軽く会釈する。
「本当の営業に入りますので、失礼しました」
数秒の沈黙。
「カマ掛けたつもりなのに本当にさぼってたのね!?」
上司の叫びが営業部に響いた。
正義は気にした様子もなく、そのまま部屋を後にした。
会社を出ると、そのまま人気のない裏路地へ入る。
立ち止まり、小さく息を吐いた。
「さて、本当の営業だ」
その瞬間――。
空間が歪む。
グニャリ。
景色が反転した。
正義は一歩踏み出す。
次の瞬間。
土の匂いが鼻をついた。
見渡す限りの平原。
その中央では、大勢の農民たちが慌ただしく動き回っていた。
鍬を槍に。
鎌を武器に。
荷車には食料と水が積み込まれている。
畑仕事をするはずの人々が、戦争の準備をしていた。
正義は静かに周囲を見渡す。
彼らは自分たちが正義だと信じている。
だからこそ厄介だった。
正義は人目につかない場所から様子をうかがった。
農民たちは武器を手に集まっている。
その中心。
荷車の上に一人の老人が立っていた。
白い髭。
使い込まれたローブ。
年老いているはずなのに、その声は驚くほど力強い。
「諸君!」
老人が腕を掲げる。
農民たちの視線が一斉に集まった。
「我らは何十年耐えてきた!?」
「重税だ!」
誰かが叫ぶ。
「そうだ!」
老人は頷く。
「貴族の贅沢のために汗を流し!」
「その通りだ!」
「飢えに苦しむ子供たちを見捨てられてきた!」
群衆の怒りが膨れ上がる。
老人は静かに微笑んだ。
「だが今日で終わりだ」
「おおっ!!」
歓声が響く。
正義はその様子を無言で見つめていた。
「なるほど」
小さく呟く。
「賢者の勇者か」
日が沈み、準備が整う農民たちがそれぞれの家へ戻る。
賢者もまた村外れの小さな離れへと姿を消した。
正義は気配を殺して後を追う。
窓の隙間から中をのぞいた。
そこで思わず眉をひそめる。
部屋の中には賢者だけではなかった。
豪華な衣装を身にまとった男。
一目で分かる。
貴族だった。
昼間、農民たちへ貴族打倒を訴えていた男が。
今まさに貴族と向かい合っている。
賢者が穏やかに笑う。
「予定通り、民衆は動き始めました」
貴族も満足そうに頷いた。
正義は物陰で腕を組む。
「計画は順調です」
「農民たちの不満は十分に高まっています」
「今日も良い演説でしたよ」
貴族は皮肉混じりに笑った。
「救世主の真似事も板についてきたな」
「仕事ですので」
賢者は表情を変えない。
「連中はすっかりその気です」
「あと数日もすれば、自ら武器を取るでしょう」
貴族は満足そうに頷いた。
「そうか」
「反乱が起きれば予定通り鎮圧する」
「ええ」
「見せしめには十分でしょう」
賢者は窓の外へ目を向ける。
村にはまだ灯りが残っている。
その灯りを見つめながら、淡々と言った。
「この村が消えれば、周辺の村々も静かになります」
「不満を抱く者はいても、口に出す者はいなくなる」
「人は死体を見ると賢くなりますから」
貴族は小さく笑った。
「相変わらず容赦がないな」
「必要な犠牲です」
賢者は即答した。
「領地の安定のためなら」
「百人でも千人でも変わりません」
部屋に沈黙が落ちる。
貴族が去る。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
離れに静寂が戻った。
賢者は紅茶を一口飲む。
そして静かに口を開いた。
「……どうやら、聞かれておったようじゃのう」
返事はない。
しかし賢者は気にした様子もない。
「隠れておらんで、出てきたらどうじゃ?」
数秒の沈黙。
やがて空間がわずかに揺らぐ。
正義が姿を現した。
賢者はその姿を見ると、どこか納得したように頷いた。
「やはり来たか」
男は何も答えない。
「もっと早く来ると思っておったがの」
賢者は苦笑する。
「まあよい」
テーブルの上にカップを置く。
小さな音が部屋に響いた。
「監視人の存在は聖女の勇者から聞いとる。」
賢者は小さく息を吐いた。
「もっとも」
「わしも、おぬしに目を付けられるような真似をした自覚はある」
賢者はゆっくりと立ち上がる。
「さて」
「どうするつもりかの?」
正義は短く答えた。
「任務を遂行する」
「そうか」
賢者は小さく笑う。
「ならば話は終わりじゃな」
その瞬間。
賢者の手に一本の杖が現れた。
床を軽く突く。
コン。
魔力が奔流となって部屋を満たした。
「来るがよい」
老人の穏やかな表情が消える。
「わしも、そう簡単に死ぬつもりはないのでな」
次の瞬間。
杖の先端が輝く。
幾重もの魔法陣が空中に展開された。
「炎槍」
無数の炎の槍が正義へ向かって放たれる。
正義はその場から飛び退いた。
轟音。
槍が壁を貫き、離れを吹き飛ばす。
木片が宙を舞った。
しかし正義の姿は既にそこにはない。
「ほう」
賢者は小さく目を細める。
次の瞬間。
正義は窓を突き破り外へ飛び出した。
夜風が頬を打つ。
着地。
そのまま村外れへ向かって駆ける。
「逃げるか」
賢者は杖を手に離れを出た。
だが、その表情に焦りはない。
むしろ確信しているようだった。
「いや」
老人は静かに笑う。
「場所を移したいだけじゃな」
賢者は地面を蹴る。
老人とは思えぬ速度で夜道を駆けた。
二つの影が村を抜ける。
やがて人家の灯りも見えなくなった。
月明かりだけが平原を照らしている。
正義が足を止めた。
賢者もまた、その数十メートル先で立ち止まる。
「ここなら構わんじゃろう」
杖の先が静かに持ち上がる。
「監視人の存在は聖女の勇者から聞いとる」
賢者は杖を握る。
「じゃが、それだけではない」
「わしは魔法でおぬしらを見ておった」
「勇者を裁く姿も」
「世界を渡る姿も」
「そして、おぬしが力を失ったこともな」
賢者は笑う。
「今の監視人など、恐れる存在ではない」
正義は何も答えない。
賢者は肩をすくめる。
「否定せんのか」
「その必要がない」
短い返答。
老いた瞳が鋭く細まる。
「まして相手は賢者の勇者じゃ」
「知恵も力も、全て見切った上で相手をしておる」
杖の先端に光が集まる。
「無駄な任務じゃったな」
「せめて苦しまぬように送ってやろう」
次の瞬間。
賢者が杖を振り下ろした。
正義の真上に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「……上か」
賢者の声が静かに落ちる。
魔法陣が回転し、中心に光が収束する。
「炎弾」
解き放たれた火の玉が、落下するように正義へ向かう。
空気が焼ける音が遅れて追いかけてくる。
正義はその場から横へ跳ぶ。
直後。
地面が爆ぜた。
爆炎が夜の平原を照らす。
賢者は目を細める。
「ほう……当たらんか」
魔法陣がさらに回転する。
二つ、三つと新たな陣が重なっていく。
「では数を増やすだけじゃ」
次々と火の玉が空から降り注いだ。
爆発。
爆発。
爆発。
平原が焼け、土煙が一気に立ち上る。
視界が完全に潰れる。
賢者は杖を構えたまま、わずかに目を細めた。
「……消えたか」
次の瞬間だった。
土煙の中から、一つの影が飛び出す。
直線。
迷いのない速度で、賢者へ向かってくる。
「っ……」
賢者が反応するより早い。
影はそのまま距離を詰め――
胸元へ。
鋭い一撃が突き刺さった。
「ぐっ……!」
賢者の身体が後ろへ跳ねる。
杖が地面に落ち、乾いた音を立てる。
土煙の中で、影は静かに止まった。
賢者は片膝をつき、胸元を押さえる。
「なぜじゃ」
賢者の目が細まる。
「なぜ、普通の人間にここまでの動きができる……」
正義は一歩も動かず、静かに言った。
「おまえも人間だ」
空気が止まる。
賢者は一瞬、言葉を失う。
賢者は膝をついたまま、静かに息を吐いた。
杖は手から離れている。
もう拾う必要もないと、理解していた。
「……なるほどのう」
小さく、笑うように呟く。
「確かに」
「巨大な力を持っておっても……」
賢者はゆっくりと顔を上げる。
賢者はゆっくりと顔を上げる。
正義を見る。
「所詮は、人か」
その声には、悔しさも怒りもなかった。
ただ、事実を確認するような響きだけがあった。
一瞬の沈黙。
夜風だけが平原を抜けていく。
賢者は目を細めた。
「昔はのう」
「わしはただの学者じゃった」
静かな声だった。
「剣も魔法も使えず」
「知識だけを積み上げて、生きておった」
少しだけ、遠い目をする。
「力があれば変えられると、思うておった時期もあった」
だが、そこで言葉を切る。
小さく息を吐いた。
「じゃが結局は同じじゃな」
「知っておろうと、持っておろうと」
「人は人のままじゃ」
賢者はゆっくりと目を閉じる。
「それを忘れた時点で……わしの負けじゃったか」
正義はしばらく何も言わなかった。
ただ、淡々と賢者を見下ろしていた。
そして、静かに口を開く。
「だがな」
「罪は、世界を選ばねえ」
賢者がわずかに目を開く。
その瞬間。
正義の手が動いた。
一撃。
迷いのない動きだった。
賢者の身体から力が抜ける。
杖が、遅れて地面に落ちた。
乾いた音だけが、夜に響いた。
正義はそれを一瞥すると、静かに背を向けた。
任務完了
次の瞬間。
世界が歪む。
視界が反転し、音が遠のく。
――戻る。
その場に、正義の姿はもうなかった。
そしてその頃。
村の中心では、炎が揺れていた。
「今こそだ!!」
「あの老人の言葉は嘘じゃなかった!!」
「圧政を終わらせる!!」
農民たちは叫び、武器を掲げる。
鍬が槍となり、鎌が刃となる。
夜空に響く歓声は、希望そのものだった。
彼らは知らない。
その“希望”を語った者が、もういないことを。
そして、その言葉がどこへ導こうとしていたのかも。
数時間後。
街の喧騒。
小さな喫茶店の奥。
正義はコーヒーを飲んでいた。
窓の外を眺めながら、特に何も考えていない様子で座っている。
「……平和だな」
小さく呟く。
その時だった。
カラン、とドアベルが鳴る。
入ってきた影が一つ。
スーツ姿の男性――上司だった。
店内を見回し、すぐに正義を見つける。
「……やっぱりここにいた」
正義はカップを置かずに視線だけ向ける。
「何か問題でも?」
上司はため息をついた。
「問題しかないわよ」
「“営業”はどうしたの?」
喫茶店の静けさの中で、その言葉だけが妙に響いた。
「すでに終わりました」
「……は?」
上司の眉がぴくりと動く。
「契約先の確認は完了しています」
「資料も提出済みです」
「以上です」
上司はしばらく黙ったまま正義を見つめた。
「……あなたね」
「そういう問題じゃないのよ」
コーヒーがわずかに揺れる。
「喫茶店にいる時点でアウトなの」
「いいから戻るわよ」
「報告書、全部やり直し」
正義は数秒だけ沈黙し――
「了解しました」
とだけ答えた。
コーヒーを飲み干し、席を立つ。
上司はその背中を見ながら、小さく呟いた。
「ほんと、あの人だけ別の世界に生きてるわね……」
第一部 完
今回で第一部は完結になります。
読んでいただきありがとうございました。
他作品として「魂の種」「ソクラテスが現代に転生して」も更新していますので、よければそちらも覗いてみてください。
また、「魂の種」はYouTubeで朗読動画としても投稿を始めています。
そして「必殺」は、数か月後に第二部を開始予定です。
その時はまた読んでもらえたら嬉しいです。




