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2話

次の日の朝。

ローゼは鏡の中の自分の顔を見て、大きなため息を吐いた。


「酷い顔ね……」


昨夜、泣きすぎて腫れてしまった瞼のせいだった。

お湯で温めたタオルを、そっとまぶたに乗せる。侍女が用意してくれたものだ。

朝、支度でローゼを起こしに来た侍女の、ぎょっとした顔が忘れられない。


昨日、逃げるようにしてパーティーから帰宅をした後のこと。

ローゼはさっさと豪奢なドレスを脱ぎ捨てて、もう何も考えたくないと寝支度をした。

そうして横になったはいいものの、悲しい感情が込み上げてきては涙がこぼれ、すぐには眠ることができなかった。それでも疲れには勝てず、いつの間に寝てしまい、起きたら夜が明けていた。


泣きすぎて開けるのも億劫なまぶたとはうらはらに、良いこともあった。

起きたら、悲しみに染まっていた感情が一掃されていた。驚くほど、スッキリしている。

今ではもう、自分がどうして泣き疲れるほど悲しんでいたのかもわからないくらいだ。


そんなことよりもまず、愛読していた小説の悪女に転生してしまった、今後の身の振り方の方を考えていかなくてはならない。


(思い返してみると──)


昨日のパーティー会場で会った、ゼイオンとエステル。濡れ羽色のように艷やかな黒髪に、ふわふわとした淡桃色の髪。

二人きりで楽しそうに、密やかに話す姿はどこからどう見てもお似合いのカップルだった。

それもそのはず、実際に小説で読んでいる時も好きな組み合わせの二人だったのだから。


(ただ、『ローゼ』の立場から見ると違うだけで……)


はあ、とため息を吐く。


小説の中の『ローゼ』は、ヒロインであるエステルに嫌がらせを繰り返し、ゼイオンから婚約破棄を言い渡される。

けれどそれは、『ローゼ』がエステルに嫌がらせを行わなかったとしても同じ結果になるのだろう。

エステルに想いを寄せたゼイオンは、必ずフラメル家との婚約を解消するはずだ。


その時期が、遅いか早いかの違いだけで。


(……ま、いっか)


未練はなかった。

それよりも、二人と関わっているといずれ自分の命を奪う『シルヴィオ・イグニス』とも関わることになってしまう。


物語の中で、ゼイオンとエステルの二人を引っ掻き回した結果、命を落とすことになる悪女──ローゼ・フラメル。

この結末だけはどうしても避けたい。

そのために、死亡フラグはひとつでも多く折っておくことに越したことはない。

今世は大人しく、小説の登場人物たちからは離れて(もしくは、遠くからひっそりと眺めて)生きていくのだ。


「……よし!」


思い立ったが吉日。

ゼイオンとの婚約解消を進めるため、ローゼはすぐに準備を進めることにした。



**********



まずは、父親に話を付ける必要がある。

この時間は執務室に居るはずだ、とローゼは廊下を歩いていた。


デイン・フラメル侯爵。それが、ローゼの父親の名だった。

デイン侯爵は娘のローゼを溺愛しており、頼めば無碍にはしないはずだった。

ただ今回ばかりは「いきなり何故そんなことを言い出すのか」と、説得にはほんの少しばかり時間がかかるかもしれない。

しかし、頼み込めば最後には必ず折れてくれるはずだ。そう考えるくらい、父親の甘さにローゼは自信があった。

その甘やかしのせいでローゼが我儘三昧に育ってしまったのだが……。


(ああ、お父様、私の身の振りはこれから変えていくので、どうかすんなりと首を縦に振ってくださいまし……)


そんな風に祈りながら歩いていると、会いたくない人物に会ってしまった。


廊下の向こうに、一人の青年が居る。年の頃は二十代半ば、白銀の髪色に、青みがかった灰色の瞳。

アルノー・フラメル──ローゼの異母兄だった。

綺麗な顔立ちだが、どこかきつい印象を与えるのは家系譲りなのかもしれない。


アルノーはローゼを見つけると、睨みつけるようにして向かってくる。


普段はお互いに存在を無視をして会話もないのだが、今日はどうしたことなのか──思わずローゼが立ち止まると、アルノーも目の前で足を止める。そして、


パァン!


と、ローゼの頬に衝撃が走った。


「……は?」


何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

遅れてやってきた熱い衝撃に、じんじんと痛み始めた頬を抑える。

アルノーはそんなローゼを見下ろし、口を開いた。


「お前、昨日、イグニス公爵と問題を起こしたそうだな」


低く、怒りに震えたアルノーの声。

その内容を理解しようとするが、いきなり頬を叩かれた衝撃で、それどころではなかった。


「おい、聞いてるのか」

「……意味が、わかりません」


どうしていきなり頬を叩かれないといけないのか──込み上げてくる怒りと疑問を押し込んで、ローゼは何とかそう答えた。

アルノーが言葉を続ける。


「……いつものようにしらばっくれたって、今回はそうはいかないからな。昨晩、お前とイグニス公爵が言い争っていた姿を見ていた者が居るんだ」


昨日のパーティーで、シルヴィオと一悶着あったことが兄の耳に入ったのだ。


「……だから何だというのですか? お兄様には関係がありません」


アルノーが大きくため息を吐き、


「いい加減にしろ!関係無いわけあるか。よりによって、王太子殿下の誕生際で揉め事を起こすなど……フラメル家の名誉に関わることだぞ」


家門の名誉──確かに、貴族の家に生まれた者にとっては大事なことだろう。

イグニス家もまた、フラメル家と同様に古くから歴史を紡いできた名門である。お互い、無用な騒ぎなど避けるべき相手であることは理解している。

が、昨日の件は決してローゼの一方的な非ではない。

──恥知らずの婚外子。シルヴィオに言い放たれた言葉を思い返し、さらに怒りが込み上げてくる。


(……けれど。そんなこと説明したところで、このお兄様が聞き入れてくれるわけないわね)


この異母兄とは、幼い頃からとにかく仲が悪かった。


「いいか、早急にイグニス公爵に謝罪しろ。この件は、王太子殿下の耳にも入っている」

「は……?」


思っていたよりも話が大事になっているようだった。

けれど、兄の一方的な言い分にも腹が立ったし、シルヴィオにも関わりたくない。


「自分で何とかいたします。お兄様の手は煩わせませんから」


ローゼはそれだけ言って、このまま会話を終わらせようと歩き出す。が、すぐに背後からアルノーが言葉を続けた。


「そうしてまた、父上に泣きつくのか? この『お荷物』が」


無視をしようとした──が。くるりと振り返り、再びアルノーに向き直った。


「お兄様、言い忘れていたことがありましたわ」


ローゼが右手を思い切り振りかぶると──パァン!!と、廊下に乾いた大きな音が響き渡った。

一切の手加減なく。ローゼが、アルノーの頬を平手打ちした。


「ってぇな……ッ!! お前、何を……!」


赤くなった頬を抑えるアルノーに、ローゼは微笑みを向けた。


「『お荷物』に引っ叩かれた気分はいかがですか? 殿下の耳に入る『揉め事』がもう一つ増えないとよいですわね?」


突き放すようにそう告げると、今度こそローゼはその場から離れるために歩き出した。

また何かうるさく言ってくるかと思ったが、アルノーは追いかけて来なかった。



**********



アルノーとのやりとりに辟易しながら、ローゼは父親の執務室へやって来た。

ノックをすると、入室を許す低い声が聞こえる。


「失礼いたします。お父様、ごきげんよう」


中に通されたローゼは、貴族令嬢として完璧な所作で挨拶を交わした。

デスクの上に積み重なった書類から顔を上げ、デインがこちらに視線を向ける。


「ローゼか。昨日は途中でパーティを抜けたようだが、体調は大丈夫なのか」

「ええ……。昨晩は、申し訳ありませんでした。もうすっかり、大丈夫です」

「そうか」


アルノーと同じ白銀の髪に、一見して強面の表情。けれど、ローゼに向ける表情は穏やかだ。デイン・フラメル。父親がこの家で唯一、ローゼに優しい存在だった。

けれどローゼは、いつも自身の父親に対して複雑な感情を抱いていた。


──フラメル家の婚外子。

シルヴィオに言い放たれた言葉を思い出す。その言葉は、公然の事実だった。

5歳の頃まで、ローゼは母親と一緒に暮らしていた。性も『フラメル』ではなかった。

その母親が病で倒れ亡くなると、デインがローゼを公爵家で引き取るため迎えに来たのだ。

貴族が私生児を引き取るのは珍しいことだった。ましてや、女子を自身の家門に正式に迎え入れるなど。

そこにどのような心境があったのか、今でもわからない。

けれど、それまでほとんど一般の平民のように暮らしていたローゼは、貴族令嬢として様々な礼節や知識を急いで学ぶことになったのだ。

突然できた、性格の悪い異母兄と継母の嫌がらせにも耐えながら……。


(お父様が私に甘いのは、それら全てに対する負い目があるからなのね。きっと)


だからこそ、かつてのローゼも、鬱憤を晴らすように父親に我儘を言いたい放題していたのだ。そう、転生前の記憶が蘇ったローゼには理解することができた。

複雑な感情をぐっと抑え込みながら、ローゼは本題を切り出すことにした。


「お父様、お願いがあるのです」

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