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1話

「──恥知らずの婚外子が」


その言葉を聞いた瞬間、ローゼは怒りで我を忘れた。

給仕の持つ盆が目に入り、そこに乗せられていたシャンパングラスを乱暴に手に取る。

給仕が静止する声も無視して、思い切りそれを目の前の男に投げつけた。

液体が宙を舞い、グラスは男の身体にぶつかって地面に落ちる。盛大に割れる音と、キャア、と近くで悲鳴が上がった。

シャンパンをかぶった男は一瞬だけ目を瞠ったものの、すぐに冷めた表情でローゼを見つめていた。


「……は、野蛮な女だな」


嫌悪の声音で放たれた、侮辱の言葉。

ローゼはカッとなり、今居る場所が王宮のパーティー会場であることも忘れて言い返そうとするーーが。


(…………? えーと……私は今、何をしているんだっけ?)


猛烈な違和感が、唐突に襲ってきた。

先ほどまで、とてつもない怒りが頭の中を支配していたというのに。

何故自分はこんなに怒っているのか。

そもそも自分は今、どこで何をしているのか?そんな疑問が浮かんでくる。


(確か、皇太子殿下の成人の祝いに招かれて……それから、この男に挨拶をしたのだけど……)


目の前の男──シルヴィオ・イグニス。

古くからあるイグニス公爵家の長男。

年の頃は20代前半、蜂蜜を溶かしたように艷やかな髪に、綺麗な湖畔のように透き通った青い瞳。背丈もすらっとして高く、紺色に銀色の刺繍が細かく施された舞踏服を華やかに着こなしている。

誰がどう見ても文句のつけようがない美丈夫だが、滅多に社交の場には出てこない人物だった。


それゆえ、ローゼも彼とは今日が初対面のはずが、いきなり「恥知らずの婚外子」呼ばわれされたのだ。

あまりにも無礼すぎる態度だったので、怒りに身を任せてシャンパンを浴びせたのだった。


(まあ……グラスをそのまま投げたのはやりすぎだったかしら……普通は、中身だけを相手にかけるわよね……って、そういう問題じゃないかもしれないけど……)


違和感はそれだけではなく、自分自身にも向かった。ローゼ・フラメル。年の頃は18歳で、フラメル侯爵家の一人娘。兄と父、そして継母が居る。

実の母親は、ローゼが幼い頃に亡くなった。侯爵家の使用人だった、母。

フラメル家の婚外子。それは暗黙の事実であったが、本人やフラメル家の人間の前で言うのはご法度だった。そこでまた「婚外子」と呼ばれた怒りが再び込み上げてきたーーところで。

突然、見たことのない光景が、ローゼの頭の中に怒涛のように流れ込んできた。


(な、な、何これ……)


ずきずきと頭痛がして、こめかみを抑える。


社会人3年目。残業三昧だった毎日、繁忙期に加えてトラブルが続き、10連勤目でふらふらと睡眠不足のまま仕事に向かっていた。そこで、横断歩道を渡ろうとしたところまでが、最後の記憶だった。

耳に残る、大きなクラクション。そして、ブレーキの音。


(ああ、これは……私が社畜OLをしていた時の最期の記憶……!)


しかも、その日はずっと楽しみにしていたロマンス小説の最終巻が出る日で、帰ったら読んで楽しむのをモチベーションに会社へ向かっていたのに──


それだけではなく、他にも様々な記憶がなだれ込み、混乱したローゼは何もできず立ち尽くしていた。


急に静かになったローゼをシルヴィオは訝しげな表情で見ていたが、すぐに眉根を寄せて無言でその場を立ち去っていく。


ローゼとシルヴィオを遠巻きに見ていた野次馬からひそひそとした会話が聞こえていたが、使用人がグラスの破片を片付け終える頃には消えていた。

きっとこの後、面白おかしい社交界の話題の一つとして噂をされるかもしれない。けれど今はそれどころではなかった。


ローゼ・フラメル。

それは自分自身の名前であり──そして、前世で読んでいた愛読書に出てくる登場人物の名前だった。


「そ、そんな、まさか……」


思いきり叫び出したい気持ちを抑えながら、慌ててローゼはパーティー会場を抜け出した。


やって来たのは手洗い場で、急いで鏡を覗く。

薄紫の髪に、灰色の瞳。白い肌に綺麗にメイクを施した、整った顔立ち。

18年間生きてきて、言わずとも見慣れた顔ではあるものの、確信した。

やはり自分は、小説の中の『ローゼ・フラメル』として生まれ変わっている。

社交界の悪華と呼ばれた悪女──しかも、物語のヒロインに嫌がらせを行う典型的な悪役令嬢に。


(ああ、しかも……)


先ほどはとんでもない男と会話をしてしまった。


シルヴィオ・イグニス。

この男も、愛読書の中に出てくる主要な登場人物の一人だった。

それも、心の底からローゼを憎み、その命を奪う男として。



***********



手洗い場で、ため息を吐きながら鏡を見つめた。

どうするべきかと行ったり来たり部屋を歩いてみる。

散々、どうしたものかと唸っていたものの、このまま何がどう変わるということはない。

何度目かに覗く鏡の中には、相変わらず見慣れた自分の姿が映っていた。


赤と黒を基調にし、パールを散りばめてレースをふんだんにあしらった豪奢なドレス。

これは、今日のパーティーに参加するにあたってローゼが街で流行のデザイナーに無理を言って作らせたものだった。

自分に甘い父親にどうしてもと頼みこみ、すでに順番待ちだった店に金とコネを使って割り込みをさせ、好みと財力をかけて贅沢にあしらった一着。そうしてまでも、この日はどうしても気合の入った装いで参加したかったのだ。

それが、何故か。


(このパーティーに……ゼイオンが、参加するから……)


ゼイオン・クライブ。その名前を反芻しながら、深呼吸をする。


前世の愛読書である、ファンタジーロマンス小説ーー『荒野に咲く聖なる花』は、主人公である聖女エステルが、守護騎士であるゼイオンや仲間たちと3年間、魔物に汚染された地域へ浄化と討伐の旅へ出るところから始まる。


旅の最中に絆を深めながら、メインヒーローであるゼイオンと主人公エステルが恋愛関係になるロマンス小説だ。

そして自分──ローゼ・フラメルは、ゼイオンの婚約者である。当人同士の意思ではなく、家同士の決めた政略結婚だった。


今日のパーティーでゼイオンと久々に会える予定だったが、まだ会えていない。けれど今だ整理のつかない頭では、まともに会話できる気がしなかった。

……もうこのまま、具合が悪いと帰宅するか。そうだそうしよう、と気持ちを固めた瞬間。

バタン!と手洗い場の扉が開いた。


「あああ〜!ローゼ様じゃないですかあ!」


と、甲高い声が響きわたる。

そこに居たのは、栗色の髪をまとめ、薄い黄緑のドレスを着た貴族令嬢。


「こんなところにいらっしゃったのですねぇ! 見当たらなかったので、どこに居るかと思ってました〜」


ローゼの元へ、駆け寄ってくる。時折、茶会で会話をする仲の令嬢だった。


「先ほど、ゼイオン様が到着されてましたわ」


そう、にこりと微笑まれる。

ああ、もう到着してしまったのね……。と、会わないように帰ろうと決意した心が萎びる。

つつがなく帰宅するにはどうしたものかと考えている間、令嬢が間延びしたように言葉を続けた。


「どうやら、ローゼ様を探されてるようでしたよぉ」

「ゼイオン様が……?」


ええ、と令嬢が頷く。


「ローゼ様がお支度を終えられましたら、ぜひ、この後でゼイオン様と仲睦まじい姿をお見せいただきたいですわ」


ゼイオンに会うために、お色直しをしていたと思われたと思ったらしい。「あんなに素敵な方が婚約者なんて、羨ましいですわぁ……」と令嬢が言葉を続けるが、その場に居るのが気まずくなって「ええ……」と曖昧に反応し、急いで立ち去った。


ゼイオンと会う──本来の自分の目的はそこにあったが、やはり今日はもう帰ろうと決意を固めていた。

先ほどの令嬢と話をしている最中、なんだか嫌な予感で胸がざわめいていた。


そして、その嫌な予感は的中してしまった。

パーティー会場には戻らず、人波を避けるように庭園を歩いていると、出くわしてしまったのだ。


婚約者のゼイオンと、そのヒロインであるエステルが二人きりで、仲睦まじく微笑みあっている姿に。


(……ああ、ゼイオン様が私を探しているなんて嘘。この光景を見せたかったのね)


先ほどの令嬢の声音には、どこか含みがあった。明確な悪意ではなかったものの、気づかないわけがなかった。

ゼイオンが到着したと聞いた時、すでに原作を読んでいる自分にとって、今日、ゼイオンが誰かを伴ってパーティーに参加してるのではないかという予感はしていた。

その相手はもちろんヒロインであるエステルに間違いない、と。


そして、その場面を見た自分は、深くショックを受けるのではないか……そんな気がしていた。


(……まあ、10年以上片思いしていたものね)


家同士の政略結婚ではあったが、ローゼの方はゼイオンにべた惚れしていた。だからこそ、ゼイオンと行動を共にするエステルが気に食わず、彼女に嫌がらせをすることになるのだが──気付けばローゼの頬に、涙が伝っていた。

頭では理解していても、感情が追いつけなかった。


これが普段のローゼなら、激しく激昂して、ゼイオンやエステルの間を割って騒ぎ立てたことだろう。

けれど今は、そうはしなかった。できなかった。


次から次へとこぼれ落ちる涙を何とか誤魔化しながら、ローゼは2人に背を向けて、馬車へと向かった。そのまま逃げるようにして帰宅したのだった。

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