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そこは空虚な檻の中(前)


「いいか、琴音」


 幼い頃、自宅の縁側に呼び出され父に言われた言葉を、琴音は今でも思い出す。

 

「お前だけは、ずっと従順でありなさい。決して、兄や妹のようになるでないぞ」


 腕を組み座り、庭師により整えられた庭を見つめながら厳かに口髭を動かす父に、琴音は恭しく頭を下げた。行儀良く正座し、指先をそろえ、額が床に付かんばかりに、深々と。どこまでも、恭順に。


「はい、お父さま」


 従順な答えを出した琴音に満足したのか。

 下げた頭の先で、父が立ち上がる気配がする。

 頭を下げて父の足音が遠ざかるのを待ちながら、琴音は無感動に床板の木目を見つめていた。


 バカな芳樹よしき兄さま。まぬけな香住かすみ


 大人しく両親の――父の言うことに従っていれば、すべて上手くいくのに。

 ただ微笑みながら黙って頷き、期待に応え続けるだけで良い。

 そうするだけの能力が、琴音には備わっていたのだから。


 上流階級の家に生まれ、使用人に囲まれ、何不自由のない生活。

 育ちの良い両親の過度な期待が全くもって苦痛ではなかった、といえば嘘になるが、思考を放棄して、両親の望むレールに乗って生きることは、臆病な琴音にとっては心底居心地が良かった。

 周囲の望むまま振る舞えば、誰も琴音を傷つけず、口をそろえてよく出来たお嬢様だと褒めそやす。


 琴音はただ、穏やかでいたかった。

 意志の強いきょうだいたちとは違う。

 決して、自由など求めない。誰にも傷つけられず、傷つけず、どこまでも静かに。

 この平穏を保てるのならば、琴音は一生籠の鳥のままで良かった。

 

 いままでも、そしてこれからも。

 逆らうつもりなど、毛頭なかったのだ。


 そう。

 ――今日、この瞬間までは。



**************



「はじめまして、お嬢さん。私は武上恭司たけがみきょうじ。以後、よろしく」


 長机を挟んで向かい側、畳の上に座り、人好きのする笑みを浮かべ、恭しく頭を下げてみせるその男――武上恭司たけがみきょうじを前に少女――柳田琴音やなぎだことねが初めて感じた感情は、純粋な恐怖であった。


 丁寧に挨拶をしたのち、爽やかに微笑んだまま確かめるような視線を送るスーツ姿の恭司を前に、膝の上、両親により着せられた桜色の着物を握りしめ、琴音は恭司の視線から逃れるようにしてじっと自身の手の甲を見つめていた。


(なんで、こんなことに……)

 

 琴音は昔から、従順な子どもであった。

 銀行頭取の優秀な父と、先祖代々続いてきた茶道の家元を実家に持つ秀麗な母。


 小さいながらも使用人のいる邸宅に住まい、厳格な両親の元、幼い頃より様々な習い事をこなし、ただ「従順であれ」と育てられてきた。

 そうして、言われるがまま従順に日々を過ごしてきた。

 逆らわず、波風立てず、どこまでも静謐に。


 先日も両親に望まれるがまま、母も通っていたという私学の女子大の入学式を済ませ、そうして今日も乞われるがままに、こうして両親に挟まれ、見合いの席に座っている。


 今までと何ら変わらない。黙って微笑み、頷いていればすべて上手くいく。

 だから、見合いの話を両親に持ちかけられた時点で、拒むつもりは毛頭なかった。

 大人しく、穏便に。


 それなのに、と。琴音は下を向いたまま、きつく口の端を食いしばった。

 いざ見合いの場に顔を出し、恭司と名乗った男を前に、生まれてはじめて、琴音は明確な恐怖を感じていた。ちらりと、下を向いたまま微かに視線だけを恭司へと向ける。

 瞬間、値踏みするようなぶしつけな眼光とぶつかり、琴音は小さく叫び声を上げた。


 シャープながらも男性的なラインを保った、形の良い顔。筋の通ったまっすぐな鼻梁。肉薄ながらも艶を帯びた唇。鋭くつり上がった、真っ黒な目。浮かぶ笑みは蕩けるように優しく、琴音の機嫌を伺うようにして紡がれる声はどこまでも甘い。

 

 それなのに、先程から恭司の目は全くもって笑っていなかった。鋭く、どこまでも人を見下したような傲慢な目。この目を見ていると、琴音は心の奥底に眠る矮小な本性を暴き立て、責め立てられているような気持ちになった。柳田やなぎだの傀儡めと、声なき罵倒が琴音を焼き尽くす。


 いや、恭司に琴音を貶めるような思惑はなく、琴音が勝手にそう感じただけなのかもしれない。現に両親は、この見合いを勧めてきたとき、恭司のことを馬鹿の一つ覚えのように褒めたたえていた。

 お前にぴったりな男を見つけた。これ以上の男は他にいるまい、と。


(……ぴったり? この人が、私に?)


 こうして向き合って座っているだけで、肩の震えが止まらないのに?


 漠然とした畏怖、生理的な拒絶。

 この男はいけない。嫌だ。この男だけは、絶対に。


「琴音、お前も挨拶なさい」


 小刻みに震えたまま黙り込んでいると、隣に座る父に肘で脇腹を突かれた。

 見上げた先の顔に明確な苛立ちが刻まれているのを認識して、周囲の機嫌を損ねることを恐れた琴音は、嫌々必要最低限の言葉を口にする。


「や、柳田……琴音です。よろしく、お願い致します……」


「琴音」


「構いませんよ。それくらい恥じらいのある方が、私はかえって好ましいと思います」


 咎めるように声を荒げた父を制止し、恭司は変わらず穏やかに笑っていた。

 そのまま談笑を始めた父と恭司、そして恭司の父の会話を下を向いて盗み聞きながら、琴音は何度も深呼吸を繰り返した。


(……落ち着いて。まだ、この縁談は決まったわけじゃない)


 あくまで、見合い。今ならまだ、取り返しが付く。

 背中で滝のように流れ落ちていく汗を自覚しながら、琴音は膝の上できつく自身の手を握りしめた。


(絶対に、この縁談は……。この縁談だけは、お断りしよう)


 自由奔放な兄や妹と違って、琴音は今まで一度たりとも両親に逆らったことがなかった。ならば一度くらい、許されてしかるべきだろう。


(でも、どうやって……?)


 拒むにしても、いつ言えば良いのか。流石に今本人を目の前にして「嫌だからやめて」と言うのは、いくら気に入らない相手とはいえ失礼極まりない行為だろう。

 それに今そんなことを言い出せば、横に鎮座している心底上機嫌な父がどんな反応を見せることか。怒鳴るだけならまだしも、最悪は勘当か。想像するのも恐ろしい。母に救いを求めようと反対側をのぞき見れば、武上夫人と楽しそうに言葉を交わしているさまが飛び込んできて、結局琴音はすごすごと下を向き、燻った気持ちを抱えたまま押し黙ることしか出来なかった。


「恭司くんは確か、去年までアメリカに留学していたんだったな」


「ええ。帝大を出た後、社会勉強を兼ねて、向こうの院に3年ほど」


「そのせいか、妙にかぶれてましてね。新しい風と言えば聞こえは良いものですが、私のような頭の硬い人間にはなかなか堪えると言いますか。……優秀なのは喜ばしい限りですが、父より出来がいいのも、なんというか……まったく困ったものですよ」


「親父……」


 父たちと談笑しながらも、琴音は時折恭司の視線が自身に向けられていることに気が付いていた。いくら眉目秀麗であろうとも、値踏みするような視線を終始向けられては、気分は悪化していくばかりだ。


 早く終われ。全部終わったら、きちんと両親に――父に拒絶の意を伝えるのだと、ただそれだけを考えていたところで、唐突に恭司の父の視線が琴音へと向けられた。


「真一郎殿、私たちばかり話しているから、琴音さんが困っていらっしゃる。ほら、今日はふたりに親睦を深めて貰うのが目的なのだから、あとは若いふたりだけで……」


「それもそうだな。まったく、これは頭は良いが、昔から人見知りのきらいがあるのが困りものでな」


 とんでもないことを言ってのける恭司の父に目を見開いたのも束の間、琴音の父もすぐにそれに同意する。それに付き従うようにして立ち上がった夫人二人に、琴音はおろおろと視線を彷徨わせた。


「琴音、私たちは席を外す。武上のせがれと仲良くな」


「え……、あの」

 

「琴音、失礼があってはなりませんよ」


 穏やかに微笑んだまま、さらに母が追い打ちを掛ける。

 そのまま止める暇も与えず出て行ってしまった四人に、琴音は綺麗に閉じられた襖を見て、途方に暮れることしか出来なかった。

 賑やかな話し声が消えれば、取り残された室内に気まずい沈黙が落ちる。

 庭園の隅、どこからともなく聞こえるししおどしの間抜けな音だけが、場違いにも琴音の鼓膜を刺激していた。


 畳の上に手をつき、閉じた襖を凝視する背に、痛いほどに視線を注がれているのを感じ取り、琴音はごくりと唾を呑む。

 恭司に背を向けたままの姿勢で、琴音はじっと黙り込んでいた。このまま言葉を交わさずにすむのならば。それで、嫌いになってくれるのならば――


「ひとつ、忠告してあげよう」


 唐突に声を掛けられ、大げさに琴音の肩が跳ね上がる。


「そうやってじっと黙り込んで、この縁談を破談にする算段を企てているのならば、やめておいた方が良い。――この縁談は、もう決まったことだ」


 考えるより先に、体が動いていた。座り込んだまま咄嗟に背後を振り向けば、気障な笑みを浮かべた男と不本意ながらも視線がかち合う。足を崩し、幾分か砕けた口調で男は口を開いていく。


「ああ、やっと私を見る気になってくれたか。未来の花嫁とは、それなりに仲良くしておきたいからな。これから先、よろしく頼むよ」


「あの……もう決まったことって、どういう意味ですか」


 恭司の言葉を無視し、端的に疑問を投げかければ、男は一瞬だけ呆気にとられた顔をした後、すぐに人を小馬鹿にしたような癪に障る笑みを浮かべた。


「言葉通りの意味だよ。そもそもこの縁談は、何も昨日今日決まったことじゃない。つい先日まで高校生だった君は知らなかっただろうが、何年も前から水面下で推し進められてきた。それがこの度、君の大学進学を機に、正式な婚約者として顔を合わせようという話になった。それだけの話だよ」


(水面下で、ずっと進んでいた? ……そんな、まさか)


「そんなの、私、聞いてな……」


「君に聞かせて、どうするというんだ? 誰も、君の同意なんて求めていない。そもそも、誰も君が反対するだなんて思っちゃいないさ。従順で、親の言うことを何でも聞く良い子の君が、今更親の期待を裏切る――親が選んだ相手との結婚を、断るだなんて」


 琴音の言葉を真っ向から叩き切り、恭司は断言する。

 これまでの琴音の行いをすべて見てきたかのように、知ったような口を利く恭司に、かっと頭に血が上る。だが実際、恭司の言葉は何も間違っていなかった。

 恭司の言うとおり、親が決めた縁談を断るだなんて選択、昨日までの琴音なら考えもしなかっただろう。ただ穏やかに、従順に。そうして生きてきた琴音が初めて拒絶反応を覚えた相手が、どうしてよりにもよって親の決めた見合い相手なのだろう。

 いや、恭司の言葉を鵜呑みにするのならば既に婚約者、なのだろうか。

 自身に出来る最大級に鋭い眼光で恭司を睨み付けていると、不意に男は気の抜けた笑みを零した。釣られて、間抜けな声が漏れ出る。


「まぁ、でも安心すると良い。既に決まったこととはいえ、正直、私自身はあまり君には興味がない」


「……はい?」


「この縁談は、両家にとってもっとも益があるからという理由で結ばれたものに過ぎない。君のお父様は――柳田の家は金が欲しく、武上家は、名家の血という箔、つながりが欲しい。要するに我々は、広義ではビジネスパートナーというわけだ。そう考えると、割り切れるとは思わないか?」


 恭司の言葉は、どこまでも冷静で、正しい。

 金持ち同士の結婚なんて、所詮はそんな物だ。

 家同士のつながりのために、親の望むがままに、子どもたちは結婚する。

 琴音だって、結婚に夢など見ておらず、初めからその腹積もりだった。覚悟は出来ていた。それなのに、理性の内側、どうしようもない野性的な部分が、この男は気に食わないと拒絶反応を示している。

 挑発的な笑みを浮かべる男を前に、琴音は慎重に深呼吸を繰り返す。


(割り切らなきゃ……。大人しく、お父様が望むとおりにしないと……)


 やっかいごとはごめんだ。せっかく今日この日まで穏やかに日々を過ごしてきたのに、ここで逆らってしまえば、兄や妹と何も変わらない。


(私は違う。私は……私は……)


「君はただ、従順でいてくれれば良い。いままでだって、そうしてきたように。人の顔色をうかがって、言うとおりに付き従うのは君の十八番おはこだろう? 結婚するまで君に手を出すつもりは毛頭ないし、……結婚して、子どもを産むという役割を果たしてくれたなら、その後は好きにして貰って構わない。それまでの辛抱だ。耐え忍ぶのが得意な君なら、簡単なことだろう?」


 無論、私もそうさせて貰うさ、と。

 侮蔑混じりの視線を向けてくる恭司を前に、琴音の中で、何かが音を立てて切れた。


「穢らわしい」


 それは、蚊の囁きのように小さな声だった。

 堪えきれずに堰を切って溢れ出した、感情の濁流、その一端。

 一度零れ落ちてしまえば、あとは転がり落ちるだけだった。これまで抱え込み続けた膿をすべて吐き出すかのように、殺意すら籠めた怨嗟の目で恭司を睨み付ける。


「……その目、やめてくれませんか」


 面白い物を見たとばかりに輝きを増した目に、琴音は強く自身の手を握りしめた。爪が食い込むのを気にもとめず、まっすぐに恭司の目を見つめ続ける。


「確かにあなたの言うとおり、私は従順で、臆病な女です。結婚だって、父がそれを望むというのなら……もう決まったことだと言うのならば、大人しく従います。けれど、これだけは言わせて。いいえ、言わせていただきます。……さっきから、じろじろと。全部見透かしたような顔をして、余裕ぶって、人のことを、……檻の中の家畜を見るような目で嘲り笑って。……気味が悪い。……吐き気がする」


 それは、生まれて初めて琴音が表に出した、明確な怒りだった。

 もう決まったことだとは言われたが、正直すべてをぶちまけて、この縁談が破談になってもいいと思っていた。いや、そうなることを切に願っていた。

 父には軽蔑されるだろう、母には落胆されるだろう。それでも、構わないと思った。こんな男と結婚するくらいならば、勘当された方が何億倍もマシだ。プライドが高く、傲慢。人を嘲り笑い、悦に浸るような畜生。どれほど容姿が整っていようが、金持ちだろうが、家に益があろうが関係ない。

 この男だけは、絶対にごめんだ。


「……家畜、か」


 静かな怒りを爆発させた琴音を、恭司は最初呆気にとられた顔で見ていた。

 だが、呟くとともに、恭司は喉元を震わせ、気味の悪い笑い声を漏らし始める。

 下を向き、肩を震わせたと思えば、不気味なまでに美しい微笑を浮かべ、上機嫌に琴音を見つめる。ああまで言われて、その上で場違いなまでに麗しく笑う恭司に、琴音の背をぞっと悪寒が駆け抜けていった。


「なに、笑って……」


「いや、なかなか面白い表現だと思ってね」


「面白いって……」


 不意に、恭司が腰を上げる。立ち上がれば一層見下されている感覚が強くなり、たまらず琴音は座ったまま腰を引いていた。だが座ったままではさしたる移動距離にはならず、こちらに向かって悠然と歩み寄る恭司を前に、震えが止まらなくなる。


「ち、近寄らな――」


「さっきは興味がないと言ったが、撤回しよう」


 抵抗する暇も与えず、頭上に落ちた黒い影が、一息に距離を詰める。


「気に入ったよ、君のことが。……家畜。家畜、か。……言い得て妙だな」


 身をかがめ、片膝をつき、恭司は腰を抜かした琴音の頬に手を伸ばす。

 顎に指を掛け無理矢理に上を向かせ、子どものように純粋に笑う。


「何、言って――」


 もたらされたのは、触れるだけの軽い口付け。

 口付けと呼称するにははばかられるほどに、甘さの欠片もなく、どこまでも物騒。それでも互いの唇と唇が接触しているという意味で、これは紛れもなく口付けであった。


 ――ファーストキスを、奪われた。


 気付いた瞬間、琴音は思いきり右手を振り上げていた。

 そのまま恭司の頬を殴打しようとして、男の肌に触れる寸前、恭司は信じられないほど俊敏な動きで、琴音の手首を軽々と掴んで見せた。


「よろしく頼むよ。琴音お嬢さん?」


 掴み上げた琴音の手首に唇を寄せ、表向きには忠誠を誓う騎士のように振る舞いながらも、小さく悲鳴を上げた琴音を見る目は、嘲りの色を隠しもしない。

 囁きかける声はどこまでも甘やかで、だからこそ恐ろしい。男の真意が、全くもって読めない。カタカタと体を震わせ、顔を真っ青にする琴音を前に、恭司は慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。


 せいぜい好きにもがいて見せろと。

 檻の中で足掻く獣を、外側から見下すようにして。


 

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