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 コーヒーの香りが鼻をくすぐった。目を開くと、畳の上に寝ていた。ベッドから落ちたのかと思ったが、間もなく思い出した。

 恵梨香はと思い、起き上がってベッドを覘くと、そこには居なかった。昨日の出来事は夢だったのかと思ったところで、台所から恵梨香が顔を出した。

「せいさん、おはよう。眠れた?」

 昨夜とは人が変わったような恵梨香の姿だった。

「熱はないのか」

「もう大丈夫、せいさんのお陰でもう治ったから」

 そう言いながら、恵梨香はコーヒーを運んできた。

「お砂糖は入れる?」

「いや、ミルクだけ。いいよ、自分でするから」

 立ち上がろうとする僕を制して、恵梨香は冷蔵庫からミルクを持て来た。パックを回して何か見ている。

「賞味期限は大丈夫ね。男の人って、結構古い牛乳とか冷蔵庫に入れっぱなしにしているけど、せいさんはそういうことないんだね。A型?」

 唖然としている僕に向かって、恵梨香は「血液型」と付け加えた。

「ああ、そうだけど」

「やっぱり、几帳面だから」

 恵梨香は立ち上がり、再び台所へ向った。

「朝は、何食べるの。この食パン? じゃあ、焼くね」

 僕の返事も聞かずに、恵梨香は食パンをトースターに入れてタイマーを回した。冷蔵庫を開けると「この卵平気だよね」と言って取り出し、コンロにフライパンを乗せる音がした。

「料理できるのか」

「卵焼きなんて料理のうちに入らないよ」

 もう、好きにさせるようにした。熱が下がれば、昼には帰れるだろう。

 トーストが焼け、卵を皿に移す音がした。僕はテレビを見て時間をつぶしていた。

「せいさん、卵には何をかける?」

「ケチャップ」

 恵梨香が台所で噴き出した。トーストにマーガリン、目玉焼きと、恵梨香はまめに動いて朝食の用意をした。思ったよりもしっかりしているようだ。

「ケチャップなんて、子供みたい」

 僕は憮然とした。

「卵にはケチャップと決めてるんだよ。恵梨香ちゃんは違うのか」

「私はお塩と胡椒。大人でしょ」

 恵梨香は目の前で胡椒の瓶を持ち上げて揺すった。鼻に刺激があり、くしゃみをしそうになった。

「いただきまーす」

 昨日のことが嘘のように元気な恵梨香がそこには居た。僕は狐につままれた思いだった。

「どうしたの、せいさん。食欲無いの」

「恵梨香ちゃん、昨日は本当に熱あったよな」

「何言ってるの、痛いって仮病は使えるけど、熱は出せないよ。さすがに。若いから、直りが早いんだってば」

 無邪気な笑顔に、僕はまた閉口した。


 朝食を食べ終えた恵梨香が、真顔で尋ねた。

「せいさん、言いたくなければ答えなくて良いけど、あの写真の人って、せいさんの恋人?」

 恵梨香が指差す棚の上には、絵美と一緒に箱根で写した写真が飾ってあった。

「ああ、恋人だった」

「だったって、過去形? 別れたの。別れた人の写真を飾って置くなんてせいさんらしくないけど」

 恵梨香に隠しておく必要は無いとは思ったが、聞かれなければ言わなかったに違いない。

「亡くなったんだ。今年の夏に」

 恵梨香の顔が見る見る歪んでいき、終いには両手にうつ伏して泣き出してしまった。僕は呆気に取られてしまった。恵梨香はそのまま泣き止みそうに無い。

「おい、泣くなよ。君が泣くこと無いだろう」

 それでも、恵梨香は泣き止まなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい。知らなかったから、ごめんなさい」

「泣くなって、何も謝ること無いよ」

 それでも泣き止まない恵梨香に、僕はティッシュを渡した。

「ごめんなさい」

 恵梨香はやっと、真っ赤になった目を上げた。

「本当に、君には驚かされることばかりだよ」

「怒ってない?」

 しゃくり上げながら尋ねる恵梨香に「怒ってなんかいないよ」と答えた。

「だから、もう泣くなよ」

 うん、と言って恵梨香はティッシュで鼻をかんだ。大きな瞳からはまだ涙が滲み出ていた。

「もし、良ければ、今度、あの人のこと、話してくれる?」

 つっかえながら話す恵梨香の姿に、いいよと答えたものの、次があるのかなと思わずにいられなかった。

 食事を終えて、体温計で熱を測らせると、まだ七度八分あった。片付けは僕がやるからと言って、恵梨香はもう一度ベッドに戻した。流しに食器を置いて部屋に戻ると、恵梨香は布団から目だけ覘かせていた。

「知らない男の部屋に居て、怖くないのか」

 僕の問いかけに、恵梨香は大きな目を一層見開いた。

「せいさんは大丈夫。恋人と一緒の写真を飾って置く人が、悪さなんかしないから」

 棚の写真に僕が眼をやると、恵梨香は「あ、ごめん」と謝った。

 買い物に行くけど、必要なものはないかと訊くと、恵梨香はしばらく思案していたが「大丈夫」と答えた。遠慮しているように思えたので「飲み物は?雑誌とかは?」と聞いたが、頭を横に振った。


 アパートの階段を下りながら、いつもより足取りが軽い自分に気付いて苦笑いした。この三ヶ月ほど、こんな感覚は無かった。これまで自分の内側にだけ向いていた気持ちが、外に向いたことで何かが変わったような気がした。子犬でも飼い始めたような気分といったところだろうか。

 明日にはきっと部屋には居ない恵梨香だが、僕の心の中に小さな変化をもたらしてくれたのはまがいも無い事実だ。師走に入って慌しく思えていた街も、今日は心なしゆっくり動いているように思えた。

 歩きながら僕が考えたことは、恵梨香がなぜ公園に居たのかということだった。部屋に帰れない事情があると言っていたが、事情とはなんだろう。悪い男に捕まって、暴力でも受けているのだろうか。それなら、このまま恵梨香を返すのは危険かもしれない。何日か経ったからといって、状況がそう変わるとは思えなかった。しばらく部屋に居させた方が良いのだろうか。

 商店街にある中堅スーパーに入り、買い物をした。昼食は消化の良いものにしようと考え、うどんをカゴに入れ、ネギと鶏肉を探した。夜はどうしようかと考えたが、とりあえずそれは後で考えることにして、自分で食べるためにサラダを選び、スポーツドリンクを買い足した。

 買い物袋を提げて家に向いながら、恵梨香は仕事はどうしているのだろうか、という疑問が湧いた。まだ僕は彼女のことをなにも知らない。でも、一人暮らしをしているのなら、収入がなければやっていけない。それとも、未だに親の脛をかじっているのだろうか。考え始めると、疑問は次々浮かんだ。しかし、今それを問い詰めてもしょうがない気がした。熱が下がってしまえば、もう会うことも無いかもしれない。

 部屋に戻ると、恵梨香は眠っていた。まだ体力は回復していないようだ。十二月にしては日差しが強く、部屋の気温が大分上がっているようだったので、窓を少しだけ開けた。恵梨香の額に手を当てると、まだ少し熱っぽい。冷凍庫にアイスノンが入っていたのを思い出し、タオルを巻いて頭の下に滑らせた。

 恵梨香の寝顔を見ているうちに、絵美のことを思い出した。絵美が熱を出したりした記憶は無かったが、僕が風邪で会社を休んだ日に仕事が終わってから来て、夕飯を作ってくれたことがあった。まだ付き合い始めて日が浅い頃だった。あの時は味が全然分からなくて、何を食べているのかさえ分からなかったけど、絵美の手料理が食べられたのが嬉しかった。もう、料理を作ってもらうこともできない。


 恵梨香は二時過ぎにやっと目を覚ました。音を絞ってテレビを見ていた僕の横を「おトイレ」と言って通って行った。僕はテレビのボリュームを上げて、ベッドに寄りかかれるところまで下がった。若手の女優がお笑い芸人と一緒に東南アジアを回って、辛いものを食べたり、いろんなことに挑戦する趣向の番組だった。

 恵梨香は戻ってくると正座した。

「せいさん、今夜は帰るから、もう少し居させてね」

 顔色も大分良くなったのが分かった。

「明日は日曜だから、無理そうならもう一晩居てもかまわないよ」

「ううん、せいさんをこれ以上床に寝かせるわけにはいかないから。それに、もうそろそろ家に帰っても大丈夫だと思う」

「そのことだけど、無理やり話させる気は無いけど、どんな事情があるんだ」

 恵梨香はちょっと口元を緩めて微笑み、目を伏せた。

「せいさんに心配かけるようなことは無いから、安心して。友達が紹介してくれた男の子が、私が気があると勘違いして追い掛け回していただけだから。もう諦めたと思う」

「それなら良いけど、暴力を振るうような奴じゃないだろな」

「そんなんじゃないから、本当に大丈夫」

「後で熱を測って、下がっていたら家まで送っていくよ」

 僕は立ち上がって、昼飯を作りに台所へ向った。

「うどんくらいなら食べられるだろう」

 恵梨香は「ありがとう」と言い、自分が作ろうかと言ったが、僕がそれを制した。

 うどんと鶏肉を少し煮込んで、最後にネギと卵を入れ、卵は崩さないように半熟状態になる頃に火を止めた。器に移して、冷蔵庫から冷やしたスポーツドリンクと一緒にテーブルに運んだ。

「七味入れるか?」

「少しだけ」

 恵梨香のどんぶりに七味を少し振りかけ、自分の方へは多めに入れた。

「せいさん、料理もできるんだね」

「当たり前だろ、大学の時から一人暮らししているんだから、料理くらいできるさ」

「ご両親は?」

 箸に挟んだうどんを持ち上げたまま、恵梨香は訊いた。

「中学の時、親父の転勤で長野の松本って所からこっちに越して来たんだけど、親父は五年後にまた転勤で松本に戻ってしまって。お袋は残るって言ったんだけど、親父には腎臓に持病があったから、説得して一緒に帰らせたんだ。だから、高校三年の時から僕は一人暮らし」

「そうなんだ、偉いね」

「別に偉くはないさ。なんとなく、一人暮らしに憧れていたしね」

 恵梨香は白い歯を見せた。

「わかる。私も高校を卒業するまでは我慢したんだけど、卒業と同時に家を出たの」

「そうなんだ」湯気を立てるうどんを吹きながら、ふたりは麺を啜った。

「仕事はしてるの?」

「うん、叔母さんの喫茶店でバイトしてる」

 恵梨香は、時々髪の毛を耳にかき上げた。

「今週は行ってないの」

「木曜から叔母さん夫婦はグアムに行ってて、日曜までお店はお休み。休みでなかったら、公園に居ることも無かったんだけど」

「そうかあ、タイミング悪かったな」

「本当に」

 しばらくふたりは、無言でうどんを啜った。

「ご馳走さま」恵梨香はベッドからタオルを取って、汗を拭った。

「ああ、美味しかった。せいさん、料理上手だね」

 恵梨香はほとんど器を空にしていた。

 お代わりあるよ、と言うと「もう、お腹一杯。入らない」とお腹を押さえた。

「家はどっちの方?」

「うーん」恵梨香はしばらく思案した。

「駅の裏の方の・・・スポーツクラブがあるの知ってる?」

 三年ほど前に、大きなビルのスポーツクラブが建ったのは知っていた。

「うん、分かるよ」

「あの先の、市立図書館がある辺り」

「それなら、そんなに遠くないな。そうか、駅の向こう側だと見つかると思って、こっちの公園に居た訳か」

 恵梨香は頷いた。

「友達の所にでも行けば良かったのに」

「親と一緒のとこには行けないでしょ。でも、一人暮らししている友達はひとりしか居なくて、その娘がちょうど仕事で留守だったから」

 それからは恵梨香ももう眠れない様子で、一緒にテレビを見て過ごした。熱は三十六度台に下がっていた。彼女の屈託の無い笑い方は、絵美には無かったものだった。

その時、携帯電話が呼び出し音を立てた。表示を確認すると、公衆電話からだった。

「はい」

 間違い電話の可能性もあるので、あえて名前は名乗らなかった。しばらくの沈黙の後、聞き覚えの無い男の声がした。

「岡本さんかい」

「そうだけど、あなたは?」

「俺の名前は良いとして、あんたに教えておきたいことがあって電話したんだけど」

 何か胡散臭い話のようだ。

「いたずら電話なら切るぞ」

「違うよ。まあ、そんなに慌てなくても良いだろう。今日電話したのは、八月の事故のことだよ」

「事故?」直ぐにはそれが絵美と自分が巻き込まれた事故のことに結びつかなかった。

「あんたと恋人が事故に遭ったろう」

「どうしてそれを知っているんだ」

「そんなことはどうでもいい。そのことについて、あんたの知らないことを教えてやろうと思ってね」

 事故の件は、一応の解決をみている。今更蒸し返しても、何も変わることは無い。絵美のこともそうだ。

「もう、その件は終わったことだ」

 そう答えると、電話の男は引きつった笑い声を上げた。

「そうかもしれないが、真実を知りたいとは思わないかい」

「真実?なんだ、それは」

 男は直ぐには答えず、もったいぶった。

「まあ、そう慌てるなよ。それに、ことがことだけに、電話じゃあ、ちょっと話し辛い。またそれは今度にしよう」

「そこまで話しておいて、それはないだろう」

 僕は正直、苛立ち始めていた。

「まあ、今度ゆっくり会って話すよ。また連絡するから」

 電話は一方的に切られた。訳の分からない電話だ。

「どうしたの、せいさん。誰から」

 横で会話を聞いていた恵梨香が心配そうに尋ねた。

「わからない。何を言いたいのか・・・。変な奴だ」


 結局、恵梨香は夜七時頃まで僕の部屋に居て、一緒に家に帰ることになった。途中、駅の近くにあるカウンターだけの回転寿司屋に寄って夕食にした。恵梨香は光り物は苦手なようだったが、寿司は好きだと言った。僕はひとりだけビールの中瓶をもらい、恵梨香の食べる姿を見ながら時々寿司を摘んだ。

「せいさん、ここはよく来るの」

 口を動かしながら恵梨香が尋ねた。

「たまにな。ここはボックス席がないから、家族連れは少ない。ひとりで来るには来易い店だ。回転寿司か牛丼屋で済ますのが一番手っ取り早い。恵梨香ちゃんは食事はどうしてるんだ」

「バイトがある時は、叔母さんが作ってくれたりするけど、普段は自炊してるよ。外食はほとんどしない」

「そうか、感心だな」

 僕は回ってきた皿を手にした。恵梨香が覗き込む。

「何、それ」

「これか、真ツブ貝。食べてみるか」

 うんと言って、恵梨香は箸を伸ばした。

「美味しい、コリコリしてるね。初めて食べた」

 会計の時、恵梨香が財布を出そうとしたが、押しとどめた。店を出てからも恵梨香はお金を出そうとした。

「あんなにお世話になったんだから、ここだけは出させてよ。それじゃないと、私の気が済まないから」

 僕は笑いながら、良いからと言って恵梨香の肩に触れようとしたが、ビクッと身を引いた。

「ごめんなさい、せいさんがどうという訳じゃないんだけど、私、体に触れられるの苦手なんだ」

 それまでと一変して、恵梨香が暗い表情で下を向いた。

「ごめん、僕が悪かったよ。行こう」

 僕が歩き出すと、恵梨香も歩き始めた。人通りも多かったが、恵梨香は横に並ぼうとはせず、少し遅れて僕の後ろに隠れるように付いて来た。例の男の影に怯えているのかもしれない。

 スポーツクラブの傍まで来ると、人の姿は少なくなった。しかし恵梨香は家が近づくせいか、かえって緊張が増しているようだった。

「こっちで良いのか」

 真っ直ぐ歩き続ける僕に、恵梨香は先の方に目を凝らしながら頷いた。

「さすがに、二日も三日も待ち伏せしていないだろう」

 そこから更に五十メートルほど行った角を左に曲がった先に恵梨香のアパートはあった。二階建てで、上下五部屋が連なったアパートは、僕のアパートより間違いなく新しかった。恵梨香は一階の真ん中の部屋だった。「清水」とマジックで書いたと思われる紙が張ってあった。彼女の名前が清水恵梨香だということが分かった。

 デイパックの外ファスナーを開けて鍵を取り出した。僕は周囲を見回して、不審な人影が無いか目を凝らした。狭い路地を通る人は居なかった。

 玄関のドアを開けて、中を覗き込んだ恵梨香は、安堵の表情で「大丈夫みたい」と言った。

「じゃあ、僕はこれで」

「えっ、せいさん。帰っちゃうの」

 一歩踏み出した僕の背中に、恵梨香が声を掛けた。

「ああ、どうして」

「ううん」ドアを片手で押さえながら、恵梨香は微笑んだ。

「せいさん、ありがとう。また、遊びに行ってもいい?」

「かまわないよ」と答えると、恵梨香はドアから手を離し、カバンのなかを探りながら近づいてきた。

 中から取り出したのは携帯電話だった。デコレーションをちりばめた携帯の電源を入れると、僕の携帯も出すように言った。

「怖かったから、ずっと電源切っていたの。私のプロフィール送るから、受信して」

 恵梨香がボタンを操作しながら、携帯の先をこちらへ向けてきた。赤外線送信をするつもりだと分かった。

「ちょっと待って」

 僕も携帯を突き出し、受信ボタンを押した。まもなく「受信しました」というメッセージが表示された。

「せいさんのも送って」

 言われるままに、僕のデータも送り返した。十代の娘と、データ交換したのは初めてだった。

「ありがとう、じゃあお休みなさい」

 屈託無く手を振りながら部屋に戻っていく恵梨香に、僕は右手を上げて応えた。

 帰り道、駅前の本屋に寄って雑誌を立ち読みしていた時、恵梨香からメールが届いた。しおらしくお礼の言葉が並んだ後に「男の人とふたりきりで部屋に居て、怖くなかったのはせいさんが初めて」と書かれていた。恵梨香が熱を出していたせいもあるだろうけど、僕も彼女と居ても異性を意識しなかったのは不思議だった。


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