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遮光カーテンの周囲から差し込む光に気付いて目を開けた。部屋の時計を確認すると、まだ八時前だった。恵梨香はまだ眠っているようだった。今朝は恵梨香の布団の直ぐ傍に寝ていた。昨夜眠るとき、恵梨香が手をつないで欲しいと言ったからだった。恵梨香が寝息をたてるまではつないでいたはずだった。その後自分が眠った頃にはどうなったか記憶は定かではない。今も恵梨香の片手は布団から出たままになっている。
布団に入ってから、しきりと「これじゃあ、目が腫れて明日は外に出られない」と嘆いていた。目が腫れるほど泣いたことがないので、そんな話を聞いても僕には良く分からなかった。薄明かりの中に恵梨香の右顔が見えている。目を瞑っているので瞼が腫れているのかどうかは分からない。
昨夜聞いた恵梨香の告白は衝撃的なものだった。海外ドラマで自分の娘や小児を対象にした性愛者の話を見ることはあったが、日本でしかも自分の身近にいる人間がそんな被害にあっていることがどうしても信じられなかった。自分が知らないだけで、性的暴行の被害を受けている女性や子供はたくさん居るのかもしれないと思うとやるせなかった。
昨日の昼、外に出たついでに下着とポロシャツを買って来て、昨夜は風呂にも入れたし着替えもできた。下着は別にしないと申し訳ないと思い、風呂上りに手洗いしていたら「洗濯くらい一緒にやるのに・・」と怒られた。時には年上かと錯覚するくらいしっかりしている。あんな経験をすることがなければ、今頃は同年代の友達と同じように恋をしたり遊んだりしていたに違いない。
「せいさん、起きてるの」
体を動かすことなく、声だけが聞こえた。
「ああ、ちょっと前から」
「今何時?」
「九時をちょっと回ったところ」
「うーん」と言いながら寝返りを打って、顔を上に向けた。「だめ、目が開かない」
心配して起き上がって覗いてみたが、良く見えなかった。立ち上がってカーテンを開けると「眩しい」といって布団を頭まで被ってしまった。
「せいさん、わがまま言っても良い? タオルを濡らして持って来てくれる。冷たいの」
どうやら目を冷やしたいようだ。僕は自分が使っていた掛け布団と敷布団代わりの毛布を畳んで部屋の隅に片付けた。
洗面所に行って引きダンスからハンドタオルを一枚出し、水道の水に濡らし絞った。
「タオル持ってきたよ」
「ありがとう」
恵梨香は渡したタオルをもう半分に細く折って目に乗せた。
「あー、気持ち良い」
「ちょっと窓を開けるよ」
サッシのロックを外して窓を四分の一程開くと、ひんやりとした空気が入り込んできた。
「さすがに寒いね」目を伏せたまま恵梨香は口だけ動かした。
「ひとりだともうストーブ入れないと寒いのに、ふたりだとそれほど寒く感じないんだね。不思議」
「僕がストーブの代わりになっているわけか」
恵梨香は唇の間から白い歯を見せた。
「今日はどうするの」
「そうだなあ」今日がイヴなのは分かっていたが、この件が片付かないとクリスマスどころではなかった。
「とりあえず、芳賀に会って事情を訊かないことには話が進まないな。日中は特にすることは無いし、あまり人の多いところへは出歩かない方が良さそうだ」
「そうね、私も午前中は外に出られそうもないわ」
部屋の空気が入れ替わった頃を見計らって窓を閉めて、ラジカセのスウィッチを入れてみた。ニュースには中途半端な時間だった。案の定、どの放送局もクリスマスの話題と音楽だった。民放のFM曲にチューニングを合わせたとき、アカペラのクリスマス・ソングが聞こえてきた。
「あ、素敵」
曲が終わるまで会話をはさまず、ふたりで聞き入った。
「いいなあ、今のCD欲しいな」
「CDは持ってないけど、昔レコードは持ってたから、録音したのがあると思うよ。さすがにレコードのプレーヤーはもう持っていないから」
「えっ、本当」
恵梨香はタオルをしていたのも忘れて起き上がった。
「貸して、貸して」
腫れて半分しか開かなくなった瞼を見て僕は笑った。
「あっ、笑ったな」恵梨香は頬を膨らませた。
「今度はほっぺたも腫れたみたいだぞ」
「もう、せいさん嫌い」
恵梨香は再び布団に横になり、タオルを目の上に乗せ直した。その時、恵梨香の携帯の着信音が鳴った。
「誰だろ」
タオルの片端だけ捲って携帯の画面を覗いた恵梨香は、そのまま僕の方へ携帯を寄こした。
「僕に?」
受け取りながら点滅する画面を見ると“KENICHI”と表示されていた。
「はい」
「あれっ、なんでお前が出るんだよ。これ彼女の携帯じゃなかった。可愛い子ちゃんの声が聴聞きたかったんだけどな」
「ケンイチ、お前真面目に言っているのか」
携帯の向こうで甲高い笑い声が響いた。
「冗談だよ。ところで何か進展はあったか」
「ああ、芳賀と連絡が取れた。今夜もう一度連絡を取り合って、会ってみるつもりだ」
「大丈夫かよ」
「芳賀はこの前の事件には関係していないと思う。あいつに小島を殺す動機があるとは思えない。まして俺に何かしてもあいつにメリットはないし、大丈夫さ」
健一は納得いかないようだ。
「あまり素行が良い奴じゃないから、気をつけろよ。会うなら俺も一緒に行くぜ」
「大丈夫だよ、心配要らないって。今は何も手がかりがないから、あいつの持っているカードを見せてもらうしかないと思ってる。何かあったら本当に連絡するから」
「本当だぜ、じゃあな」
恵梨香はタオルをしたままなので、携帯を枕元に置いた。
「良い友達がいて羨ましいな」
君にも・・といいかけて、うんとだけ答えた。
恵梨香はそのまま眠ってしまった。僕はそっと台所に移動し、薬缶に水を入れてコンロに乗せた。紅茶の在り処はもうわかっていた。恵梨香が紅茶用に使っている茶漉しが中に入ったガラスのポットを取り出し、茶葉を入れた。袋には「冬の紅茶」と書かれているが、どんな味か想像もつかなかった。
沸騰したお湯を注ぐと、すっとするミント系の香りがしてきた。失敗したかなと思ったが、一口飲んでみたが予想していたほどハーブはきつくなかった。
絵美も紅茶派だった。仕事帰りにふらっと立ち寄った商店街で紅茶専門店を見つけて、少しずつ缶入りの茶葉を集めていた。僕は元々コーヒー党だったので、絵美と付き合うようになっても紅茶はたまにしか飲むことはなかった。こんなことになると知っていたら、絵美の勧めてくれた紅茶を一緒に飲んでいれば良かったと思う。ふたりの時間を深め合うには、一緒に居られた時間はあまりにも短すぎた。
僕は絵美のことをどれだけ理解していただろう。絵美の好きなものをいくつ知っているだろう。彼女の好きな本は、彼女の好きな色は、彼女の好きな国は、彼女の好きな時間は・・・。結局僕は何も知らないまま、絵美と別れてしまった。失われた時間はもう取り戻すことはできない。僕がいくら思い出を遡っても、それは変わらない。
いつの間にか僕はダイニンクのテーブルに伏して眠っていた。気がつくと背中に恵梨香のコートが掛けられていた。恵梨香は台所に立って包丁を動かしていた。
「せいさん、寒くない」
僕が動く気配を感じたのか、恵梨香が振り返った。
「ああ、眠ってしまったみたいだ」
「ちょうど良かった、梨をむいたところなの。食べる?」
皿に並んだ梨をテーブルに置き、自分も腰掛けた。
「はい、フォーク」
「ありがとう」
一口噛んだ梨は瑞々しくて甘かった。
「美味しい」
恵梨香も美味しいねと微笑んだ。朝ほどではないが、上瞼はまだ腫れていた。それに気づいたのか、指で目を触れながら「まだ、腫れてる?」と訊いた。
「大分引いたよ。もう外に出ても、知らない人なら分からないよ」
「良かった、怖くてまだ鏡を見てなかったんだ」
「恵梨香ちゃん、梨が好きなの」
僕は二切れ目の梨にフォークを差しながら訊いた。
「果物は何でも好きだけど、やっぱりメロンかな。せいさんは長野の出身だから、やっぱりりんご?」
「夏はスイカ、秋の果物では柿が一番好きかな」
「男の人って、スイカが好きね。私のお父さんもスイカが大好きで、夏には毎日のように食べてたわ」
恵梨香の目には亡くなった父親の姿が写っているのだろうか。僕はまた恵梨香が泣き出すのではないかと話題を変えようと思ったが、こんな時には上手くいかない。
「あれかな、やっぱり、長野っていうとりんごっていうイメージなのかな」
恵梨香は頭を傾けて、眉根を寄せた。
「いや、その・・。空気読めないってやつかな。十代の女の子の話題にはついていけないよ」
僕は頭を掻くしかなかった。こんな時にクリスマスの話題を出しても家族のことを思い出しそうだったし、上手い切り替えができなかった。恵梨香はそんな僕の姿を見て、ただ微笑んでいた。
「もし今夜あの人と会うことになったら」梨を差したフォークを口の前に止めたまま恵梨香は訊いた。「せいさん、ひとりで行くの」
「ああ、そのつもりだけど」
「心配だな」
目を伏せたまま恵梨香は言った。
「大丈夫だよ、なにも起こらないよ。あいつはそんな危険な奴じゃないって」
「だと良いけど」
「心配性だな」
笑っては見せたものの、一抹の不安もないといったら嘘になる。でも、そんな心配よりも、絵美の事故に関する芳賀が持っているという情報を知りたい想いの方が勝っていた。
結局暗くなるまで僕らは部屋の中で時間を潰して過ごした。恵梨香が持っていた携帯用のオセロをやったりしたが、三回やって三回とも僕は負けてしまった。
五時近くになると外は夜の帳が下りていた。この時間になれば人目にも付き難いだろう。恵梨香が出してくれたニットの帽子を被って僕らは外に出た。玄関を出ると外の寒さに驚いた。
「今日は冷え込むね」
夕飯になにを食べるかまだ決まっていなかったが、外に出たところで、ふたりの意見は一致した。
「温かいラーメンだね」
どちらとも無くそういい合って、恵梨香が行ったことのないというラーメン屋へ連れて行くことにした。
「駅からちょっと離れているし、ちょうど良いかも。恵梨香ちゃん、とんこつラーメンは平気?」
「大好き」
「それなら良かった。博多ラーメンなんだけど、ギョーザも美味しいんだよ。一口サイズの小さなギョーザなんだけど、いくつでも食べられちゃう」
恵梨香は楽しみといって白い歯を輝かせた。
クリスマス・イブにラーメンを食べる人はそんなに居ないと思って訪れた店内は、予想以上に混んでいた。若い客が多かったが、中には家族連れもいた。
恵梨香は僕の薦めた定番ラーメンを食べた。ピリ辛の木耳と半熟卵、薄切りのチャーシューが三枚乗ったラーメンだ。僕は豚角煮ラーメンを食べた。朝から梨しか食べていなかったためか、ふたりともあっという間に食べてしまい、替え玉を頼んだ。恵梨香は替え玉というシステムを知らなかったため、店員が麺を運んでくると何が起こるのかと、目を皿にして見つめていた。ギョーザも気に入ってくれたようだ。
帰りに駅から少し離れた場所にあるファッション・ビルの前を通りかかると、恵梨香が覘いて行きたいと言った。特に探し物があるわけではないようだったが、洋服やアクセサリーを身に着けて僕の感想を訊いていた。雪の結晶を模ったピアスを耳に寄せて鏡を覗き込んでいるところで、クリスマス・プレゼントに買ってあげるよと言ったが、恵梨香はさらりと聞き流し歩き出してしまった。年頃の女の子だからアクセサリーに興味がないはずはないが、恵梨香はあまりそういうものを身に着けないようだった。自分の置かれている立場を考えて、我慢しているのかもしれない。結局なにも買わずに僕らは部屋に向った。




