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 四時半を回ったばかりだったが、部屋の中は暗くなってきた。日が短くなってきたのもあるのだろうが、さすがに冬の日暮れは速い。蛍光灯を点けてカーテンを閉めた。

 自分はそれほどテレビに依存した生活をしているつもりはなかったが、ラジオだけでは物足りなかった。ニュースには耳を傾けていたつもりだったが、ローカルニュースでも事件の続報はなかった。進展のない殺人事件より、人々の関心は期限切れを間近に控えた臨時国会の与野党の政局にあるようだ。

 外で人の声が聞こえた。なにか言い合っているようだった。酔っ払いが出歩くにはまだ早い時間だ。ラジオの音ではっきりしなかった声が、次第に大きくなってきた。

 恵梨香? 聞き覚えのある声に、僕はラジオのボリュームを下げ、耳を澄ました。やっぱり恵梨香の声だった。立ち上がって玄関の方へ向かうと、声は一層はっきり聞こえてきた。

「放っておいて、あなたには関係ないでしょ」

「・・・」

「私はあなたの居る家になんか帰る気ないから」

「おかあさんが待っている」男の声が聞き取れた。「灯りが点いているけど、誰か居るのか」

「あなたに関係ないでしょ」

 恵梨香の声はドアの直ぐ傍から聞こえた。カギは自分が持っていることを思い出し、ドアのロックを外した。音が聞こえたのか、恵梨香は直ぐにドアを開けた。

「もう、帰って。ここには来ないで」

 それだけ言うと恵梨香はドアを閉めてロックし、しばらくドアに持たれて立ち尽くした。

「大丈夫?」

 事情が分からない僕はそんな質問をすることしか思いつかなかった。うなだれた恵梨香の頬に涙が伝うのが見て取れた。

「ううう・・」

 それまで溜め込んでいたものが堰を切ったように恵梨香を動かした。手に持っていた買い物袋をその場に落とすと、僕の胸に中に顔をうずめて泣き出した。

 体に触れることに対し人一倍敏感な恵梨香の行動に、僕はどうしたら良いか迷った。でも、驚かせないように気をつけながら、眠っている赤ん坊に触るようにそっと肩に両手をかけた。

 しばらくそのまま涙の止まらない恵梨香を支えていた。絵美はこんなふうに僕の胸で泣いたことは一度も無かった。なんでこんな時に絵美のことを考えたのか不思議だった。

「ごめんなさい」

 そう言いながら、恵梨香は僕から体を離した。

「座ったほうが良いよ」

 僕は恵梨香を右手で支えながら、ダイニングの椅子に座らせた。ダイニングの電気を点けようと玄関の方へ戻り、荷物が置かれたままになっているのを思い出し、恵梨香の傍まで運んだ。

「さっきの人、お父さん?」

 ハンカチを目に押し付けてまだぐずっていた恵梨香が、微かにうんと答えた。

「もしかして、前に部屋の前に男が居て・・っていってたのも、お父さんのことかい。君を連れ戻しに来たわけ?」

 頷いているのだけは理解できた。

「そうか・・」

 どうして恵梨香は家に帰ろうとしないのだろう。そればかりか、寒空の下公園で徹夜をしてまで避ける父親には何があるのだろう。

「僕には言えないことかもしれないけど、この前、絵美の話を聞いてもらって随分僕は楽になった」

 椅子を引いて恵梨香の向かいに座っても、彼女はハンカチを顔に押し当てたままだった。

「恵梨香ちゃんも少しは吐き出した方が良いよ、僕が相手じゃ役不足かもしれないけど」

 ラジオのボリュームが下げられた部屋の中は、時折恵梨香がすすり上げる以外は静まり返っていた。まるでこの世の中にふたりだけしか居ないように思える時間が過ぎていった。

 随分長く感じたけれど、実際は一、二分のことだったのかも知れない。やっと恵梨香が顔を上げた。涙で潤んだ瞳を見開き、精一杯の笑顔を作りながらありがとう、といった。

 その時僕は絵美のことを思い出した。事故の後、僕が初めて絵美の病室に見舞いに訪れた時、右目だけを包帯から覗かせた絵美が、同じように目を涙で溢れさせながら「ありがとう」といった。包帯で顔のほとんどは隠れていたが、微笑もうとしているのだけは分かった。その時と同じ目だった。

 恵梨香は「でも、後で話をするね」と言って、着替えをしに畳の部屋に入っていった。


 扉を開けて部屋を出てきた恵梨香は、そのまま洗面所へ向い顔を洗っているようだった。赤く充血した目を大きく見開きながら、恵梨香は僕の向いに腰掛けた。

「せいさん、本当にごめんね。とんだ姿を見せちゃった」

 今の笑顔は無理やり作ったものではなく、いつもの恵梨香の笑顔だった。僕は言葉にはせず、笑顔で答えた。

「ところで、なにか進展はあったの」

 真顔で問いかける恵梨香の顔は、鼻だけが赤くて僕は思わず噴出した。

「なによ、失礼ね。私の顔になにか付いてる?」

 恵梨香は掌を顔に当てて、そこになにか付いてこないか確認していた。

「クリスマスだからな。トナカイと一緒だ」

「もう・・」頬っぺたを膨らませた顔は可愛かった。

「今夜泊めてあげないよ。いいの」

「ははは、ごめん。冗談だよ」

 さっきまで泣いていたのが嘘のように恵梨香の顔は笑いに包まれた。誰でもそうだろうけど、笑顔が一番だ。なかでも恵梨香の笑顔は素敵だと僕は思った。こんな娘が、あれほどまでに悲しまなければならない事情があることが信じられない。

 僕はインターネットで芳賀の実家の住所と電話番号を探し当て、電話を掛けたことを話した。芳賀が今住んでいるマンションを教えてもらい、今夜行ってみようと思っていることを説明した。

「それって危なくない」

 恵梨香が言いたいことは分かった。

「でも、このままじゃ芳賀にコンタクトが取れない。それに僕に電話を掛けてきたのが芳賀なら、そんな危ないことをするような奴には思えなかったけどな」

「そういうことじゃなく、せいさんが疑われているとしたら、殺された人の友達である芳賀の傍には警察がいるんじゃないかなって思って」

「そうか」そこまで考えてなかった。

「確かに、警察は僕を第一容疑者と考えているだろうから、次に芳賀を狙っていると考えても不思議じゃないか」

 張り込みをしているかもしれない場所へ、僕がのこのこ出て行ったら、飛んで火にいる・・になってしまう。マンションに行くのは確かに危険だ。でも、これでは動きが取れない。

「やっぱりこれしかないか」

 僕はポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れた。画面表示が落ち着くのを待っていると、留守電メッセージを示すアイコンが点滅していた。

 センターに接続すると、メッセージが三件あるというアナウンスが流れた。順番に再生してみると、最初はケンイチだった。「心配しているから連絡をくれ」という内容だった。二件目は以前にもメッセージが入っていた美野里署の刑事からだった。最後の一件は玲子からだった。「竹内です。家の方へも行ってみたのですが、お留守でしたので・・。できましたらご連絡ください」

 こんな状況になっては、会社でも僕のことはいろいろ噂になっているに違いない。僕が殺人犯だと思っている人間がいても不思議ではない。心配してくれている玲子には申し訳ないが、今連絡を取ることは更に迷惑を掛けることになる。そんな思いを振り払うように、僕は芳賀の番号を呼び出して「発信」ボタンを押した。

 いつものように電話会社のメッセージが流れるかと思ったら、当たり前のように呼び出し音が聞こえてきた。

「誰だよ」

 いきなり怒ったような声が聞こえた。

「もしもし、芳賀さんですか」

 しばらく沈黙があって、声のトーンが変わった。

「こりゃあ驚いた。見慣れねえ番号だと思ったら、岡本さんかい」

 間違いない、電話の男の声だった。

「やっぱりこの前の電話はあなただったんだね」

「そうだよ、でも本当に驚いたね。岡本さん、あんたがあんなことやるなんて」

「あれは僕じゃない」

「ははは、そんなこと言ったって、警察もそういって探し回ってるよ。俺のマンションの下にもお巡りが張り付いて、遊びにも行けねえよ」

 やはり芳賀のマンションは警察が見張っていた。恵梨香の言うとおりだった。

「本当に僕はやってない」

「まあ、素直にやりましたっていう犯人はいねえよな。で、俺になんの用だい」

「芳賀さん、あの日僕に見せようとしていたのは、あのスパナなのか?あれにどんな意味があるんだ」

「スパナ?」芳賀は甲高い声を出した。

「なんだよそれ、そんなもの俺は知らねえよ。あん時、俺はちょっと遅れちまってよ。慌てて団地に着いたときには、あんたはもう小島をやっちまった後で大騒ぎ・・。ああ、あんたはやってねえって言うんだったな」

 芳賀は酒に酔っているようだった。今までの電話の時とは明らかに違う。

「じゃあ、僕に見せたかったものっていうのは、一体何なんだ」

「そうか、あんなことがあって、すっかり忘れちまってた。大事な用が済んでなかったんだな」

「なんのことだ」

「まあ、そう慌てなさんな。じゃあ、もう一度場所を変えて待ち合わせとしようか。でもなあ、あんたが本当に小島をやった犯人じゃないっていう保証はないからなあ。俺も小島の二の舞になるのは御免だし」

「僕じゃないって言っているだろう」

 芳賀は携帯のマイクに荒い息を吹きかけながら笑った。

「そう言っても、こっちも自分の身は可愛いからな。よし、信用しよう。明日の夜九時にもう一度電話をくれ。それまでに場所を考えておくよ。あんたとの約束を果たしていないのは俺も気になっていたんだ。サツが来ないところでゆっくり話すとしよう。じゃあ、明日の夜九時に電話してくれ」

 それだけ言うと電話は一方的に切れた。しかし最低限の目的は達した。公衆電話から掛けてきたのは芳賀だった。だが、電話を寄こしたのはふたりいた。最初の声は芳賀とは違った。それが真犯人の可能性もある。そう考えたとき、恵梨香の心配そうな顔に目の焦点が合った。

「どうだった?」

「やっぱり電話の主は芳賀だった。後から電話をよこした方だけどね。今の話しぶりだと、小島を殺したのは芳賀じゃないみたいだ」

「そんなの分からないじゃないの」

 恵梨香があまり心配そうなので、僕は笑って見せた。

「そう、分からない。本当は僕が犯人かもしれないし」

「もう、せいさんたら」

 恵梨香の伸ばしてきた手をかわして、僕はスーパーのレジ袋を覗いた。

「今夜はなにかな。おっ、魚だね。それから、切り干し大根」

 乾物の大根の入った袋をつまみ出すと、恵梨香は横からそれを奪い取った。

「せいさんは夕飯抜きー」

「それはないだろう。切り干し大根、大好き」

「じゃあ、大人しくお座りしていなさい」

 恵梨香は僕の鼻を人差し指で突っついた。

「僕は犬か」

「犬の方がお利口です」

 大根の袋を摘んで揺らす顔は、既にいつもの恵梨香だった。


 恵梨香が食事の支度をする間、僕は傍の椅子に座って話し相手をした。ほとんどしゃべっているのは恵梨香で、僕は時々相槌を打つ程度だった。絵美は料理している時に傍にいるのを嫌がったので、僕はテレビを見て待っていることが多かった。僕が居ない時の恵梨香はどんな生活をしているのだろうと思った。友達は多そうには見えなかった。いつもこの部屋でラジカセの音を聞きながらひとりで過ごしているのか・・。

「何を作らせても上手だね」

 僕は恵梨香の焼いた秋刀魚を味わいながら思わず言った。

「魚なんて誰が焼いても変わらないわ」

「いや、皮がカリっと焼けてて、でも中はふっくらとしてぱさついていない。かなりの腕だね」

「それが分かるせいさんもグルメだね」

 僕らは声を合わせて笑った。正直、恵梨香の料理は並以上の腕だった。おそらく同年代の人達に恵梨香並の料理の腕を持つ人は少ないだろうと思った。叔母から習ったと言っていたが、それだけではこれだけのものは作れない。持って生まれた感性が優れているのだろうと思った。


 いつものように夕食の後は紅茶を入れてくれた。コーヒー党の僕だったが、恵梨香の入れてくれた紅茶を飲むようになってから、いろんなフレーバーの紅茶が楽しみになっていた。コーヒーではここまではっきりした違いは分からない。それにしても紅茶は何と合わせても相性がよい飲み物だ。

「今日のは、何でしょう?」

 僕の前にカップを置きながら恵梨香が質問した。さっきから鼻に感じていたのは柑橘系の香りだったが、具体的な名前が出てこない。

「なんだろう?オレンジかな」

 答えを聞いて恵梨香が嬉しそうにした。どうも違うようだ。

「ざーんねん、ちょっと近かったけど今日はゆずでした」

 そういわれれば、ゆずの香りに感じられるから不思議だ。

 恵梨香は自分のカップを手に僕の前に座った。今日は早く上がってきたからお茶請けのお菓子は無いのかなと思ったが、口には出さなかった。しばらくの間、恵梨香はカップを口元に持ったまま目を瞑って香りを楽しんでいるようだった。そのままカップを口にすることなくテーブルの上に置くと、おもむろに話し始めた。

「今まで誰にも話したことがなかった。

話そうと思ったこともないし、話せるようなことじゃないって思ってた。カウンセラーにも肝心のことはやっぱり言えなかった。でも、今日は違うの。今日を逃したらもうずっと話すことがないかもしれない。

 最初から話すと途中で話せなくなってしまいそうだから、一番話さないといけないことを先に話すね」

 恵梨香はそこで大きく深呼吸した。

「さっき来たのはお母さんの再婚相手。私のお父さんは、私が中二の時に亡くなったの。膵臓がんだった。

 膵臓って、お腹の中でも後ろの方にあって、癌になってもなかなか見つからないことが多いから、発見されても手遅れのことが多いって後から教えてもらったわ。

 お父さんも検診で癌が見つかって、それからたった半年で死んじゃった」

 恵梨香は焦点の定まらない目のまま話し続けた。

「あいつが家に来るようになったのはお父さんがなくなってから三ヶ月位してからだった。お母さんが以前勤めていた会社の上司で、いろいろ相談にのってもらったみたい。

 葬式が終わると親戚の人でも顔を出さなくなったのに、あいつはしょっちゅうやって来ては家に上がりこんでいた。

 お母さんも頼れる人がいなくなって、大変だったんだと思うわ。一周忌のとき、亡くなったお父さんの両親がやって来て、私もまだ小さいから再婚した方が良いって言われたことも背中を押される結果になったみたい。

 それからは夕飯食べていったり、泊まることはなかったけど遅くまで家にいることが多くなって、私が高一のときに再婚したの。

 私はお母さんがそれで幸せになるのなら、その方が良いって思った。私はずっと一緒に生きていくわけじゃないと思っていたから、勤めたら家を出ようと思っていたし、結婚したって家は出るわけだから」

 しばらく沈黙があった。恵梨香は迷っているようだった。

「無理に話さなくて良いんだよ」

 僕がそういっても恵梨香はそれを振り払うように頭を振り、話を続けた。

「夫婦仲は私が見ていても良かった。喧嘩するようなこともなかったし、どちらかというとお母さんは信頼して頼りきっていたから、あいつに逆らうようなことは無かった。

 でも私はなんか嫌な感じがしていた。日に日に私を見る目の中に異様なものを感じていたの。それが何なのかは分からなかったけれど。

そして・・、」恵梨香がつばを飲み込む音が聞こえた。

「私が高二の夏休み、お母さんは同窓会で夕方から出かけていて、私が部活のテニスから帰るとあいつはテレビを見ながらお酒を飲んでいた。お母さんが買い物でいなかったりすることはあったけど、長時間出かけていなかったのは初めてのことだった。

 シャワーを浴びて、自分の部屋に戻ったところへ、あいつがいきなりやって来て・・・」

 いつのまにか恵梨香の目には涙が溢れ、声が震えていた。

「・・・レイプされた」

「・・・」僕は声が出せなかった。

 紅茶のカップを握る恵梨香の両手は小刻みに震えていた。

「誰にも言えなかった。

 お母さんにも、友達にも・・。

 私があいつと口をきかなくなったから、お母さんは再婚をしたことが影響していると思い込んで悩んでた。

 でも、私は話をするどころか、あいつの顔を見るのも嫌だったし、あいつの目に私の姿が映るのも許せなかった」

 結局家を飛び出して、友達の家や叔母の家に泊めてもらった後、一人暮らしをすることにした。お母さんも、離婚してまで戻って来いとは言わなかった。条件として、部屋代はお母さんが出すけれど、仕事は叔母の店を手伝うか、他の仕事に就くときはお母さんが認めた仕事でないとダメという約束をさせられた」

 恵梨香は流れる涙を拭おうともせず話し続けた。僕は立ち上がって恵梨香の傍に寄り、肩と頭を抱き寄せた。

「それでもあいつは時々来たわ。

 お母さんに言われて来たってことだけど、家に戻って来いとか、お母さんが寂しがっているから泊まりに来いとか。

 本当かどうか分からないけど、叔母の店やここに時々顔を見せるの。私はあいつの顔を見るたび、虫唾が走る」

 恵梨香は一層強く僕の胸に顔を埋めた。これまで誰にもいえず胸に貯めていたものが堰を切って流れ出してきたのだろう。恵梨香の抱える苦しみの何百分の一にも満たないものかもしれないが、僕がそれを共有することで恵梨香を楽にしてあげたかった。


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