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いつ眠ったのか記憶が無かったが、目を開けると自分がいつもと違う場所に居ることを思い出した。そうか、恵梨香の部屋に泊めてもらったんだった。恵梨香が布団を敷いていた方へ目をやると、そこには既に布団はなく、恵梨香の姿もなかった。
上半身を起こし隣の部屋の気配をうかがうと、台所で物音が聞こえた。僕は布団を抜け出し、毛布と掛け布団をたたんで、とりあえず部屋の隅に重ねた。
曇りガラスのはまった扉を開くと、台所の恵梨香が振り返った。
「せいさん、おはよう。良く眠れたみたいね」
「おはよう、今日は仕事?」
「そう、明日は休みなんだけど、今日は祭日だからお店混みそうだし。せいさんはもちろん休みよね。あっ、洗面所に新しいタオルを出してあるから、使って」
言われるままに僕はトイレに入った後、洗面所で顔を洗った。うちは洗面所は水しか出ないのに、お湯が使えるのが羨ましかった。冬は水で顔を洗うのはきつい。
ダイニングに戻ると、テーブルにはハムエッグとコーヒーが湯気を立てていた。
「もうすぐ、トーストが焼けるから」
恵梨香がそう言った直後にトースターがチンという音をたてた。洗い物をしていた手を止め、焼きあがったトーストにマーガリンを塗ってくれた。
「ジャムは使う?ブルーベリーならあるけど」
「いや、このままで良いよ」
「先に食べてて。ケチャップは出てるでしょ」
ちょっとからかい気味の口調で恵梨香は言った。以前僕が卵にはケチャップを使うといった時、子供みたいだと笑ったのを思い出した。
恵梨香も洗い物を済ませてテーブルに着いた。なにも言わず恵梨香はケチャップを手にして自分の目玉焼きにかけた。
「あれっ、ケチャップは使わないんじゃなかった」
「食べてみないで馬鹿にしたんじゃかわいそうだから、試してみようかと思って」
卵をフォークで口に運んだ恵梨香は、目を細めた。
「わあ、やっぱりダメだわ。私はお塩の方が良い」
「そんなことはないよ、こうして黄身のところを崩して、ケチャップと混ぜて食べると美味しいんだよ」
僕は黄身とケチャップが混じった卵を食パンに載せて口に入れた。
「ううん、美味しい」
恵梨香は目を細めて笑った。
「やっぱり子供みたい」
いくらバカにされても、食べ物の嗜好はなかなか変わらない。ケチャップがないときは塩コショウで食べる時もあるが、ソースや醤油は合わない気がする。
「せいさん、今日はどうしてるの」
「どうしようかな」何も考えていなかった。
「そうだ、とりあえず健一に連絡して、芳賀の連絡先が分かったか確認するよ。それからどうするか考える」
恵梨香は頷いた。
「そうだね、でもあまり出歩かない方が良いよ」
「分かっているよ」
駅や僕のアパートには警察官がいるに違いない。出歩かない方が良いのは分かっているが、このままでいたら僕が犯人であることを示す証拠が出てくるのは時間の問題だ。そうなったらそれこそ外には出られなくなる。今のうちに自分が無実であることを証明する必要がある。でも、どうやって・・。
朝食を終えた僕は、恐る恐る携帯の電源を入れてみた。留守電のメッセージはないようだった。メールを受信しているマークが点滅している。開いてみると、玲子からだった。電話をしても通じないので、心配しているという内容だった。申し訳ないと思ったが、今は返信しないでおこうと思った。
「せいさんの携帯、使わない方が良いんじゃない」
恵梨香が自分の携帯を差し出してきた。確かに僕の携帯は極力使わない方が良さそうだ。自分の携帯は電源を切り、恵梨香の携帯を借りた。
健一の携帯を呼び出すと、今日は直ぐに出た。
「おお、待ってたぞ。番号が違うけど、彼女のか?」
「そうだ、俺に連絡がつかないときはこの番号に掛けてくれ」
勝手に決めてしまったので恵梨香の表情を窺ったが、頷いてくれた。「分かったのか?」
「ああ、何かメモるものはあるか」
僕は恵梨香に書く仕草をしてみせた。恵梨香は立ち上がって、メモ用紙とボールペンを持ってきた。
「いいぞ」
健一が芳賀の携帯電話の番号を読み上げた。僕はそれを復唱して確認した。
「ところで、これからどうするつもりだ」
「正直言って、自分でもどうしたら良いか分からない。でも、とりあえず芳賀に連絡してみる。この前の電話が芳賀からのものなら、あいつがなにか知っているはずだ」
「そうだな、でも危ないことはするなよ、辿っていくと、その先には殺人者がいるんだから、ひとりで無茶はするなよ。動く時は俺にも連絡してくれ、力になるよ」
「ありがとう、その時は頼むよ」
健一との電話を終えると、恵梨香が心配そうな顔を向けた。
「電話して、どうするの」
僕は答えに詰まった。具体的な考えがあるわけではなかった。まずは電話の声が芳賀の声と一致するか確認したいだけだった。もし電話が芳賀からのものだとしたら、どうしたら良いだろう。
「とりあえず電話してみる、声を聴かないことには何も始まらない。声が聴けたら、間違い電話だったとか適当にいって電話を切るよ」
恵梨香はそうね、といって頷いた。
僕はメモを見ながら芳賀の形態電話の番号を入力した。念のため発信番号は非通知にした。緊張して呼び出し音を待ったが、聞こえてきたのは電話会社のメッセージだった。
「どうしたの」
「電源が入っていないか、電波の届かないところだって」
恵梨香は残念といった後、慌てて立ち上がった。
「うわあ、急がないと遅刻しちゃう。じゃあ、私は行くから、せいさんはおとなしくしていてね、カギは置いていくから」
あっ、といいかけて僕はここが自分の部屋でないことを思い出した。部屋を出るには鍵をかけなければならない。勝手に出て行くわけにはいかないのだ。恵梨香が洗面所で用意をしている間に僕は食器を流しに運んだ。
「それ、そのままで良いからね」
洗面所から出てきた恵梨香はそう言って畳の部屋へ入り、扉を閉めた。着替えをするらしい。僕は手持ち無沙汰に椅子に座って待っていた。テレビも新聞もないので、事件のその後の状況も分からない。健一が電話で何も言っていなかったということは、大きな進展はないのかもしれないが、情報がないのは不安だった。
「じゃあ、行ってくるね」
恵梨香が畳の部屋から出てきた。
「あっ、どうしよう。なにか連絡する時は」
「そうか、せいさんの携帯、電源入れっぱなしにできないもんね」
そう言うと、さっき芳賀の電話番号をメモした紙になにやら書き始めた。
「これ、お店の電話番号、なにかあったらここに電話して。電話は私が出ることが多いと思うから。二時から三時の間なら、休憩しているから私の携帯でも良いわ」
「分かった」
恵梨香はキーホルダーを取り出し、部屋のカギだけを外してテーブルに置いた。
「せいさん、約束して」
恵梨香は右手の小指を突き出した。
「絶対ひとりで危ないことしないって」
「ああ、大丈夫だよ」
恵梨香は指を突き出したままだった。僕が不思議そうに見ていると「指切り」といった。
僕は緊張がほぐれて思わず笑った。
「子供みたいだな」
恵梨香の小指に指を絡めると、乱暴に上下に動かされた。
「まだ十代だから」
白い歯を覗かせて恵梨香は微笑んだ。
恵梨香が出かけてしまうと、僕は急に不安がこみ上げた。一日この部屋の中に閉じこもっていることはできそうにない。かといって行く当てもない。まずは情報が欲しい。そこで、ラジカセがあったことを思い出した。
畳の部屋の恵梨香の枕元に置いてあったラジカセのスウィッチを入れた。FM放送が流れたので、AMに切り替えチューニングのダイヤルを回した。今はニュースの時間ではなさそうだ。NHKらしき放送を探し出し、それをかけたまま畳の上に横になった。昨夜は三時過ぎまで眠れなかったのは覚えている。
先日僕の部屋で熱を出していた恵梨香と同じ部屋で眠ったときは何も感じなかったのに、昨日は自分の部屋でないこともあってか、眠れなかった。
そんなことを考えているうちに、うとうとしてしまった。気がつくと十二時近かった。ラジオの音が流れ続けていた。天気予報が終わり、交通情報に移った。この後、正午からニュースが始まる。僕は天井を見たままラジオに耳を傾けていた
経済関係のニュースから始まり、全国で師走の行事が行われたニュースから年の瀬が近いことを実感させられる。全国ニュースでは今回の事件の話はなかった。関東ローカルのニュースに移り、三番目に事件の続報が伝えられた。
「・・美野里署では、現場に落ちていた工具に付着していた血液が被害者のものと一致したことから、これが凶器と判断し、犯人の特定を進めています」
事件の報道は短かったが、確実に捜査が進んでいることはわかった。モンキースパナとはいわなかったが、それはあとで犯人しか知らない事実を残しておくためであることは想像できた。血液の検査が行われたということは、スパナから指紋の検出もされているはずだ。あとは僕の指紋をどこからか採取してきて比べれば、僕の容疑は限りなく黒に近づく。そうなってはもう遅い。
僕は携帯電話を取り出し、朝に電話した芳賀の番号をリダイヤルした。しかし今度も呼び出し音は鳴らず、同じメッセージが流れただけだった。芳賀に直接会いに行こうかと考えたが、一体どこに行けば会えるか分からなかった。自宅の場所も知らない。健一の見つけた名簿にも住所は会社の本社になっていたそうだ。スーパーに電話をかけたところで、自宅の場所を教えてくれはずはなかった。個人情報にうるさくなってから、おいそれとは教えないことが当たり前になっている。
やっぱり情報を集めなくてはならないと思い、僕は出かける用意をした。といってもブルゾンを羽織るだけだった。
洗面所で鏡を覗いたが、髪型は簡単には変えられそうにないので諦めた。若干分け目を動かした程度だった。帽子を買った方がよいかな。それにメガネもあれば。
恵梨香がテーブルに載せていったカギを手にし、玄関に向った。ドアを開ける際ひどく緊張したが、こんなところまで警察が来ているはずはない。せいぜい住民に怪しまれないようにするだけだ。
外に出ると、行き先を考えた。恵梨香が言っていたようにインターネット・カフェは危険だ。入店時に身分証提示が必要になる。既に会員登録している店では、僕が来店したら警察に連絡をするようになっているかもしれない。
駅から少し離れたショッピングビルの上部二フロアに店舗を置いている家電量販店を思い出した。あの店ならブロードバンドの体験コーナーがあって、自由にネットが使えるはずだ。今日は休日で混んでいるが、逆に店員に張り付かれずにすむだろう。
僕は寒さと人目を避けて首をすくめるようにして道を歩いた。警官らしき姿は目にしなかった。年末も近く、そこまで徹底した捜査には至っていないのかもしれない。ビルの入り口で周囲を確認し、僕はエレベーターでパソコン売り場のある四階へ向った。
パソコン売り場の片隅にあるブロードバンド体験コーナーには二台のパソコンが並んでおり、一台は空いていた。僕は早速「芳賀和樹」の名前を入れて検索してみた。
思ったほどたくさんは表示されなかった。「地方史研究協議会」の役員、これは別人のようだ。「コミックの出版パーティ」「マリンスポーツの振興」見出しを眺めても、探している芳賀と結びつきそうなものはなかった。検索エンジンでは引っかかってこないようだ。検索方法を変え、河崎市の商工会のサイトを開いてその中で検索してみた。芳賀和樹ではヒットしなかったが、芳賀義和という名前がヒットした。名前に同じ文字が使われており、スーパー・チェーン店の経営という説明がある。芳賀の父親に間違いない。商工会のサイトには住所などの情報はなかったので、もう一度検索エンジンで父親の名前で検索し直してみた。今度は手ごたえがあった。河崎商工会役員の名簿に住所と電話番号が載っていた。いくら個人情報うんぬんといっても、ウェッブ上では野放しになっているのが現状だ。僕は傍にあった筆記用具を取り、住所と電話番号を書き留めた。しばらく前から家族連れが後ろで待っている気配があったので、振り返らずにその場を後にした。
芳賀の住所は隣の区で、歩いて行くには無理がある距離だった。バスがあれば行けるかもしれないが、土地勘がない住所なのでバス停も分からない。
公衆電話を探してしばらく歩いた。携帯の普及で街中の公衆電話は本当に激減した。やっと見つけた公衆電話はカード専用だった。いまどきテレフォン・カードを持っている人は珍しい。もう少し歩き回り、中華料理店の前にやっと赤電話を見つけた。
財布から小銭を取り出し、ダイヤルを押す。古い名簿でないことを祈るばかりだ。幸いにも呼び出し音が鳴った。でも安心はできない。
「芳賀でございます」
年配の女性の声がした。母親だろうか。
「あ、すみません。僕は和樹君の高校の同級生の佐藤といいます。和樹君はいらっしゃいますか」
「和樹のお友達ですか、ごめんなさいね、和樹はここには住んでいないんですよ。携帯の番号はご存じないのかしら」
彼女の声には僕が本当に息子の友達なのかを訝しがっている様子が伺えた。
「いや、携帯の番号は知ってるんですが、かけても出ないものですから」
「あらそうなの」
携帯の番号を知っているということで、警戒の衣が剥がれたようだった。僕は更に追い討ちをかけた。
「小島があんなことになったんで、連絡を取ろうとしているんですけど」
「本当にねえ、小島さんは気の毒なことだったわね。じゃあ、念のために和樹のマンションの住所を教えて差し上げるから、行ってみたら。夜には戻っていると思うんだけど」
「ありがとうございます」
母親はマンションの住所と部屋番号を教えてくれた。マンションは最近できた再開発地域の建物だった。ひとり暮らしには贅沢すぎると思えたが、金持ちのぼんぼんなのだから仕方がない。確かに母親の言うとおり、日中マンションに居るとは思えないので、夜に行った方が良いだろう。
時間を確認すると二時を回っていた。念のために恵梨香の携帯にも電話してみた。
「もしもし」
「あ、せいさん?公衆電話からだからびっくりしちゃった。今どこに居るの」
僕は周りを見回して、場所の確認をした。公衆電話を探して歩き回ったために、自分がどこに居るのか分かっていなかった。
「今日ね、思ったほどお客さんも来ないし、夕方からもうひとりバイトの子が来るから、叔母さんが上がって良いって言ってくれてるの。だからあと二時間したら帰るから。せいさん、あまり外を歩いていない方が良いよ」
僕はこれから部屋に戻っているよ、といって電話を切った。自分の部屋がどうなっているか心配ではあったが、今行くのは危険だと自分を納得させ、駅前を通らずに恵梨香の部屋へ向った。




